スピレッタ調教場の女性陣
「いきなり落とすことないだろ」
緩衝魔法のおかげで怪我一つないのだが、確実に即死する高度から落とされた恐怖のせいで、未だに心臓の高鳴りが収まらない。
芝の上に胡坐をかいたままエレノアを見上げる。
対するエレノアはペガサスから降りて恭介を見下している。
顔にはうっすらと影がさしてあるので、恭介を許す気はまだないらしい。
「言ったでしょ、通過儀礼だって。ペガサス競馬の騎手はまず、落馬の恐怖を取り除くことから始めるのよ」
「なら、最初から言えよ」
「言ったら怖がっていつまでも落ちないでしょ。だからああやったのよ」
その言葉が本当とは思えなかった。
不慮の事故とはいえ、胸を揉んだ恭介をどうやって懲らしめようかと考えたに違いなかった。
「エレノア、さすがにやり過ぎじゃないか?」
と、助け舟を出したのはサイモン騎乗練習場の厩務員フレッドである。
どうやら彼は恭介が何をやったかまでは見えてなかったらしい。
「少し厳しいぐらいがちょうどいいの。さあ、キョースケ、もう一度」
「はい?」
「聞こえなかったかしら? も、う、い、ち、ど」
エレノアの笑顔が妖しく見えたと思ったとき、彼女は恭介の横に来てしゃがんだ。
すると、がっちりと恭介の後ろ襟を掴んだ。
「何度も落ちてもらうわよ。完全に落馬の恐怖がなくなるまでね」
「マジで?」
「マジ」
ふふ、と笑ってエレノアは恭介を立たせた。
シャツの襟が喉元に食いこむ。
「いやだああああぁぁぁぁぁぁ!」
生まれて初めて心の底から叫んだ。
そんな恭介の気持ちを汲むことなく、エレノアは引きずるようにしてペガサスのところへ連れて行く。
ペガサスは疲れも見せず、脚元に生えた草を食んでいた。
◇
帰りの車中、恭介は助手席のシートにぐったりと身体を預けていた。
さっきからひと言もエレノアと口を聞いていない。
結局、五回空を飛び、同じ回数落とされた。
うち三回はペガサスに振り落とされた。
残り二回は恭介が自発的に落ちたものである。
だが、厳密に言えば、自分から落ちたというのは当てはまらない。
振り向きざまに見せたエレノアの笑顔が相変わらず怖く、落ちないとどうなるかわかる? と言いたげな表情をしていた。
無言の脅迫を受け、落ちたようなものだ。
そんな狂気の練習を経て、ひとまず空中落下の恐怖はなくなりつつあった。
コースに仕掛けられた緩衝魔法の効果を身をもって知ったおかげで、あとはどうやってモンキー乗りで飛翔競走に臨むかに焦点が当てられる。
空を飛んだ感覚を頼りに、騎乗イメージを固める。
やはり天神乗りは避けた方がよさそうだった。
ペガサスの飛行速度は地を駆けるよりも速く、そのスピードは芝コースを襲歩で走るサラブレッドよりも速かった。
上体を起こす天神乗りでは空気抵抗に負けてしまい、ペガサスの走りを制限してしまう恐れがある。
対してモンキー乗りは、馬の負担を軽減すると同時に、レース中の空気抵抗を減らす効果がある。
もし飛翔競走でもモンキー乗りで挑めば、平地競走以上に大きな武器になるはずだ。
とはいえ、離陸時の急加速、着陸時の急減速を考慮すると、バランスを保つのが難しそうだった。
ただでさえ身体のバランスが崩れてしまう瞬間なので、つま先が鐙から滑る恐れがある。
それらの点は練習やレースに数多く乗りつつ感覚を養うしかない。
色々考えを巡らせてみると、飛翔競走でのモンキー乗りをこなすには時間がかかりそうだった。
なにしろペガサス競馬では過去に一人しかやっていないのだ。
かつてこの世界に来た地球の騎手もおそらくモンキー乗りを試みたに違いない。
恭介が今使っている鞍は元々その人のもので、恭介の体格に合わせて馬具職人に作り直してもらったものである。
しかし何らかの事情でその人は歴史の彼方に消え去り、キプロン伯爵の父、つまりエレノアの祖父しかその人のことを知る手掛かりはない。
飛翔競走独自の難しさのせいなのか、それとも騎乗機会に恵まれなかったのかわからない。
いずれにせよ、ペガサス競馬でモンキー乗りが普及しなかったのは確かである。
――とにかく、練習しかないとな。
結局、そうするしかなかった。
今さら天神乗りに乗り方を変える気にはならなかった。
ペガサスが走りやすくするためには、どうしてもモンキー乗りを駆使して飛翔競走に挑むしかない。
騎手の事情にペガサスをつき合わせるのではなく、人間が苦労してでもペガサスが走りを苦にしない方法を取る。
それがレースに勝つ条件の一つだと恭介は思っている。
もう少しサイモン騎乗練習場にとどまり、モンキー乗りを試したかったが、用意してくれたペガサスに疲れが溜まり、しかも他のペガサスも貸出し中だと言われたので、やむを得ず帰ったのだ。
車がスピレッタ調教場に近づきつつあった。
この辺はスピレッタ調教場だけではなく、ペガサスの牧場や調教場が点在している。
たまたま左側の車窓に広がる放牧地に目を遣ると、白毛のペガサスがこちらに尻を向けて、足元の草を食んでいる。
どうやら生産牧場らしく、そのペガサスの傍らに小さな仔馬が寄り添っていた。
スピレッタ調教場に着いて車から降りると、ようやくエレノアが口を開いた。
「キョースケ、これから予定ある?」
「いや、特にないからトレーニングでもするよ」
「その前に、レース研究しない? ほら、次のリンウェルダウンズ競馬場の開催、うちの子たちも出走するし、キョースケにも依頼が来ているから。結構いいペガサスに乗れるわよ」
「ならそっちを先にするか。レース研究もおろそかにはできないしな」
「で、キョースケのトレーニングってどんなことをするの?」
エレノアは騎手のトレーニングに興味を持ったようで、まっすぐな眼差しで恭介を見つめる。
「主に体幹トレーニングだな。つっても器具がないから簡単なことしかできないけど」
「キョースケの世界の騎手って馬から降りてもトレーニングするのね」
「こっちは違うのか?」
「騎手に必要な技術はペガサスに乗ってこそ鍛えられるって考えられているのよ。下手にトレーニングすると余計な筋肉がつくから」
「それも正しいんじゃないか。俺だってなるべく馬に乗りまくってトレーニングしたいけど、どうしても馬が疲れてしまうからな。それにこっちみたいに専用の練習場なんてないし。だから、ランニングやストレッチをしたり、体幹トレーニングしたりして技術を補うんだ。もちろん体重を増やさないやり方でな」
「へえ、わたしもやってみようかな。調教でも役に立つでしょ」
「やり方だけ教えてやるよ。あ、そうだ。ここって練習用の木馬ってないのか?」
「キョースケの世界ってそんなのがあるの?」
「ああ、騎乗フォームを確認したり、バランス感覚を養うのに使われるんだよ」
「そっか、練習用木馬かぁ」
エレノアは関心を示し、右手を口の下に添えた。
練習場での怖さがなくなり、恭介の話に夢中になったようだ。
横に並んで大仲に向かいながら二人はあれこれと会話を交わしていると、大仲からオリアナが出てきた。
作業用の服装ではなく、七分丈のパンツに、両袖にフリルのついたシャツを着ていた。
カジュアルに着飾った感じがあり、どこかに出かけるようだった。
「あ、お帰りなさい、お嬢さま」
オリアナは二人に気づいて駆け寄ってくる。
「おつかれさま。うちの子たちの状態はどう?」
「なにも問題ありません。脚元も大丈夫ですし、飼葉もちゃんと食べましたよ」
「どこか出かけるんですか? なんかおめかししてますけど」
と訊いたのは恭介である。
いつもと違う雰囲気につい尋ねたくなった。
「う、うん。ちょっと町までね」
なぜか苦笑いを浮かべるオリアナ。
――あまり深く訊くのも失礼かなぁ。
と思うのだが、どうも気になってしまう。
「あら、オリアナ。デートかしら?」
「え?」
遠慮のないエレノアに顔を向けて驚く恭介。
「え? ってなによ。え? って」
オリアナの目に険が宿る。
その気配に、恭介は思わずたじろいで一歩下がってしまう。
「ああいや、こういう仕事していると、あんまりそういう時間ってないかなって思ったから」
弁解がましく両手を突き出して、嘘を言った。
というのも、日本にいたころ、恭介の周りには交際相手に不足しない人が多かったからだ。
厩務員や調教師の家族、それにトレセンの職員と良い関係になって結婚に結びつくケースはよくある。
騎手は二世三世が多いが、そういう事情も絡んでいるからでもある。
現に先輩の佐川順平は二世、同期の田口大也は三世であり、二人の母親も厩舎関係者の娘である。
「そんなことないわ。あたしだってその辺は上手くやっているのよ」
オリアナは自分がモテるのを示すかのように、両手を腰に当てて胸を張る。
「お、帰ってきたな」
ラモンが機嫌良さそうに右手をあげて出迎える。
恭介は助けが来たと思い、ラモンに視線を向けた。
「あ、お疲れさんです」
「おう、どうだった? 怖かったろ」
「少しは慣れたかなぁ」
右手で首を撫で、隣のエレノアをちらと見た。
もしオリアナとラモンにエレノアの胸を揉んでしまったと言ったらどんな反応するのか。
どう考えても取り返しがつかなそうな事態に陥りそうになる気がした。
エレノアがそのことを言いださなければいい、とひそかに願う。
「ラモンさんも、どっか出かけるんですか?」
「いやいや、俺は当番だからな。遊びに行くわけにはいかないよ。ペガサスたちが馬房で暴れて怪我でもしたら大事だからな。そうだ、今度どっか遊びに行かないか?」
「遊び、っすか?」
「ほら、キョースケがここに来てから町に繰り出したことなんてないだろ。少しは息抜きでもしないと身体が持たないぜ。ほら、オリアナ姐さんみたいにいつまでも恋人に恵まれないんじゃ悲しいだろ。姐さん、男を引っかけようとしてはいつも失敗して――」
その刹那、オリアナが素早い足運びでラモンの横に忍びよった。
右脚を彼の左脚に絡めると、彼の上体を横に折り曲げ、左脚を彼の首にかけた。そしてラモンの右手が上に突き出る格好となった。
オリアナの一連の動きは格闘家顔負けの素早さだった。
「あ、卍固め」
どこか懐かしい思いで見つめる恭介。
以前、大也とプロレス観戦したのを思い出した。
「ラーモーンー、今なんつった?」
「い、いや、お、俺は、気を遣ったつも、り。だって、姐さん、もうすぐ、さ……になるし、いい、はなし、も、ないから」
上手い具合に極められたらしく、ラモンは思うように言葉が出てこない。
どうやらオリアナは痛いところを突かれたようだ。
「この世界にもプロレスってあるのか?」
とエレノアに訊く恭介。
「なにそれ?」
「格闘技エンターテインメント」
「闘技場みたいなものかしら。オリアナったら、試合見てあの技を覚えたんだわ」
「才能あるなぁ」
感心する恭介。
卍固めをかけたときのスピードは恭介の視界から消えるほどだった。
オリアナには格闘技の才能があるかもしれない、とつい余計なことを考えて笑いたくなる。
ラモンが苦悶の表情を浮かべながら卍固めに耐えているところ、オリアナは彼の身体をへし折らんばかりに全体重を乗せている。
「ほらほら、オリアナ。もう許してあげて。ラモンの軽口なんていつものことじゃない」
エレノアは近寄って説得する。
「いいえ、お嬢さま。今日こそこの男の性根を叩き直してやります。安心してください。ラモンが怪我をしたらあたしがその分働きますので」
「ぐ、ご、お。き、キョースケ、たす、助けて」
とはいうものの、ラモンにはどこか余裕の表情が窺えた。
このやり取りをどこか楽しんでいるよう見える。
――ドⅯ……。
口には出さず、そう思った。
とはいえ、万が一のことはあってはならないと思い直し、説得を試みることにした。
「あの、オリアナさん、もうそのぐらいで勘弁してやっては。ラモンさんに怪我されたら困りますし」
たどたどしい口調になってしまった。
オリアナの怒り眼が恭介に向けられる。
すると、不意にオリアナの表情が一変し、卍固めを解いた。
ラモンは四つん這いになって呻き声を上げる。
「ま、このくらいで許してあげるわ。ラモン、今度変なこと言ったら、命の保証はないからね」
「わ、わかりましたよ」
「では、お嬢さま、キョースケ。行ってきます」
オリアナは取り澄ましたような顔つきになると、恭介の横を通り過ぎた。
――怒らせちゃいけねえな……。
エレノアといい、オリアナといい、スピレッタ調教場の女性の逞しさを思い知り、普段の振る舞いに気をつけようと思った。




