第44話 茨姫にフラれた俺が——
海沿いのカフェでのランチを終え、俺は澪たっての希望により、カフェの前に広がる海岸沿いをのんびりと散歩していた——
遊泳禁止のこの静かな海岸には、まだ夏休みも序盤ということもあって人はまばらで、遠くの波間で波待ちをしているサーファーが数人見えるだけ。
広大な海と青空、そして波の音だけが支配するこの空間は、まるで自分たちだけのプライベートビーチみたいだ。
心地よいリズムで打ち寄せる波打ち際を手を繋ぎながら歩いていると、澪が楽しそうにステップを踏みながら押し寄せる白い波をよけて遊び始める。
「あっ!?濡れちゃうっ……」
「澪、気をつけろよ?サンダルだとしても思いっきり濡れたら今拭くタオルとかないんだからな……着替えも全部、ホテルに先に送っちゃったし」
はしゃぐ彼女に、俺は少しだけ保護者めいた小言を口にしてみたり。
「わかってるわよ湊人っ♪まあ濡れたら濡れたで乾かせばなんとかなるわ」
「まあ、澪がそう言うなら……別にいいけど」
潮風に髪を揺らしながら屈託なく笑い、楽しそうにはしゃぐ彼女を見ていると、俺の口出しもどこへやら……つい愛おしさで頬がほころんでしまう。
その時だった——
「……えいっ!」
「うおっ!?ばっ……あっぶね!?」
不意に澪が俺と繋いだ手をグッと引き、俺を波打ち際ギリギリへと強引に引き込んできたのだ。
あまりの不意打ちに、つい体勢を崩して波の中に足を踏み入れそうになってしまい、すんでの所で堪える俺。
「うふふっ……びっくりしてて可愛い〜」
「そりゃ急に引っ張られたらびっくりもするだろ?!澪はサンダルだけど俺は普通にスニーカーなんだぞ?!マジ濡れるところだっただろ?!」
「まあ……そりゃ湊人のこと濡らそうとしてたから……ww」
「澪、おまえなぁ……」
悪戯が成功した子供のように、無邪気に目を細めて笑っている澪。
そのあまりにも可愛らしく、そして懐かしい雰囲気を纏う笑顔に見惚れながら、俺は油断した彼女の隙を狙って反撃を……。
「おりゃっ……!」
「きゃっ……!?」
今度は俺が手をクイッと引き寄せ、お返しとばかりに彼女を引っ張ってみる。
すると思った以上に澪が体勢を崩してしまい、俺の胸へと倒れ込んできて……慌てて彼女の細い腰をしっかりと両腕で抱きとめた。
図らずして波打ち際で抱き合うような体勢のまま、至近距離で正面から見つめ合う形になってしまった俺達。
「わり……驚いた?」
波の音だけが響く中、軽く抱き合い見つめ合ったまま、二人の間だけ時間が止まったようだった。
「……もうっ……ちょっとだけね……」
目の前にいる彼女は、俺の腕の中で少しだけ顔を赤くして頬を膨らませ、上目遣いでこちらを見つめ返してくる。
そんな彼女を見つめながら、俺は心の中である確信めいたものを感じていた。
今、俺の腕の中で悪戯っぽく笑っているのは、たぶん……『雫』なんじゃないかという事を。
さっきカフェで、口の周りにソースをつけながら美味しそうにハンバーガーを頬張っていたのもきっと『雫』だったんじゃないかと。
もちろん確証なんてどこにもないし、澪からもあの夜以降、雫のことについて直接何かを聞かされたわけではない。
でも、俺にはなんとなくわかるんだ。
あれから数ヶ月。俺たちの関係も、澪自身も、色々なことが変わった。
その中で、澪の表情が急にひどく懐かしい……かつての澪には絶対に出来なかった、奔放な笑顔や甘えた声色になることがある。
そして逆に、同じ状況でも、澪しか出せない理知的で気高い声色や、少し不器用な表情をすることもある。
そうやって、彼女はコロコロと俺の目の前で微かに、でも確かに、その魅力的な表情を変えていくんだ。
『あたしは澪と一緒になるんだよ』
あの日、公園のベンチで雫が最後に遺した言葉。
なら、今の彼女は……朝凪澪であり、同時に雫でもあるのかもしれない。
二つの心がすべての意識や記憶を完全に共有し、魂が一つに重なり合っている状態。
もしそうであれば、俺が感じるこの不思議で愛おしい変化の説明がつく気がする。
「ねぇ、湊人……いじわるした罰としてちゅーして」
「……えっ……今?」
甘ったるい声の囁きに、俺の思考が引き戻される。
「聞こえなかったの?今よ」
「でもっ……外だし、人がっ……」
俺が慌てて周囲を見渡すも、やはりこのエリアに他の人の姿は居ない。
再び視線を正面に戻すと、腕の中の澪が可愛らしいジト目で俺を見上げていた。
「わ、わかったよ……」
俺は観念して、目を閉じた彼女の桜色の唇にできるだけ軽くキスを落とす。
流石に恥ずかしいから。
「うふへっ……♡」
唇を離すと、彼女は俺から目を離さず、嬉しそうにもじもじしながら恥ずかしそうに笑った。その表情は、いつも夜の公園で俺をからかっていた『雫』の顔だった。
そんな彼女は一転して、すぐに少しだけ落ち着いた優しい表情へと変わり。
「湊人……もう一回、キスして?」
「はぁ!?もっ……もういっか——」
戸惑って俺が返事をする間もなく、澪の顔がスッと近づいてきて、次の瞬間には俺の首に腕が回されて……。
ちゅっ……♡
今度は先程の軽いものとは違う、少しだけ強引で熱を帯びた深いキスだった。
波の音が遠退き、潮風の匂いと彼女の甘い香りが混ざり合う。
静かで、どこか確かめ合うようなそのキスの感触に、俺の心臓は大きく跳ねた。
ゆっくりと唇が離れてゆくと、澪は顔を真っ赤に染め、俺と目を合わせられずにほんのりと目線を逸らしてはこちらをチラチラと見つめている。
これは、間違いなく澪の照れた時の顔だ。
そう……最近の澪はまるで一つの身体の中で、二人で仲良くその大切な瞬間を分け合っているかのような仕草がとても増えたのだ。
「なんか本当に夢みたい。こんな綺麗なロケーションで、好きな人とキス出来るなんて……」
キラキラと輝く海を背景にして、こちらを潤んだ瞳で見つめてそんな事を言ってくる澪。その言葉の裏にある彼女が抱えてきた孤独な過去を想うと、俺の胸はほんのり締め付けられる。
「……澪……」
「なにその顔?私……こう見えて意外と乙女な所あるのよ?」
「べっ、別に……なにも変なこと思ってないって?!」
「そう?……まあ、それならいいけど……」
少し不服そうに唇を尖らせて拗ねる姿は、いつもの愛おしい澪だった。
そもそも今の俺にとって、今この瞬間に表に出ている感情がどちらのものなのかなんて事は実はもうどうでもよかったりする。
そして、その真相を知りたいとも思わない。
なぜなら、俺はそんな複雑で、不器用で、優しくて、たまらなく可愛い朝凪澪という一人の少女の全てに、心の底から恋をしたから。
今なら彼女が見せるどんな一面も、彼女を構成する大切な一部として受け入れてあげられると思う。
「さてと……湊人、そろそろいきましょ?この後もせっかくの旅行なんだから予定は沢山詰まっているし……この後は水族館にいって、その後はホテルでゆっくり……それで明日は湊人のご家族と会うって感じよね?」
「ああ、そんな感じだな。もちろん段取りはとってあるぞ?」
「ふふっ、本当に楽しみ。それで……水族館までは歩いていけるのよね?」
「えっと、ここから海沿いを歩いてだいたい20分くらいかな?」
「それならせっかくだし、歩きましょ?こんなに気持ちいい景色を見ながら散歩出来るなんて、都会じゃなかなかないもの」
そう言って微笑む澪の表情は、どこまでも優しく、この上なく幸せそうだった。
俺の隣に肩を並べて歩き出すと、彼女は自然と俺の右手を自分の両手で優しく包み込むように握りしめてきた。
「じゃあ、水族館までエスコートして。湊人」
「おっけ……じゃ、こっちの道だから……」
俺達は、爽やかな太陽が照りつける海沿いの道を、手を繋いでゆっくりと歩き出す。
視界を埋めるのは、きらめく水面、砂浜、高く澄んだ空。
そして隣には、俺の人生のすべてを変えてくれた大好きな人がいる。
「澪っ……」
俺は繋いだ手から伝わる確かな温もりを感じながら、ふと無意識に彼女の名前を呼んでいた。
「ん?……どうしたの、湊人?」
「いやっ、なんでもない……」
「なんでもないって?本当に?そうやって誤魔化されるとなんか気になるわよ?」
「なんていうかその……来年も……その先も……またこうやって、一緒にここに来たいなって、思っただけだよ……」
不器用な本音をボソリと呟いた瞬間、顔が熱くなってゆく。
それを聞いた澪は少しだけ目を丸くした後、とびきり嬉しそうな笑顔を咲かせた。
「うふふっ………湊人、それってプロポーズ?」
「……いやっ!?そうじゃなくてっ!?今のは本当にタダの感想っていうか、希望っていうか!?……だからなんでもないって言ったんだよ!」
「そう?……でもそう言ってくれてすごく嬉しいわ。私も湊人とずっと……毎年ここに来たいって思っているもの…………3人で……」
「そっか……そう言ってもらえて俺も嬉しいよ……」
俺は言葉の最後に込められた響きの優しさに胸を打たれながら、彼女の細い腕をそっと引き、再び歩き出す。
握る手のひらから、彼女の、そして彼女たちの命の温かさが、ドクン、ドクンと俺の心臓へと直接伝わってくる。
この不思議で、残酷で、そして世界で一番特別な出会いは、俺の人生を根底から変えた。すべてはあの日、茨姫に恋をした瞬間から始まっていたのだ。
あの日から沢山の涙を流して、傷ついて、そして俺はほんの少しだけ成長出来た気がする。
この先も色々困難があるだろうけど。俺は彼女と……いや、彼女たちと一緒に、この手を離さずに歩んでいくつもりだ。
そして、この時の俺はまだ知らない。
この幸せな夏休みから数年後。俺達が本当に生涯を共にする家族になることを——
——茨姫にフラレた俺が永遠の愛を誓ったのは、彼女に瓜二つの大切な人でした——
——————完——————
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あとがき
まずはお礼をさせて下さい。
本作を最後までお読みいただき、本当にありがとうございます!
澪と彼女の中に住む雫、そして湊人の不器用な恋の物語。
一つの身体に宿る二つの心という少し特殊な関係の重めなラブコメでしたが、皆様の温かい応援のおかげで彼らなりのハッピーエンドを描き切ることができました。
葛藤する展開も多く、心が抉られる場面も多かったと思います。
それでも最後まで彼らを見守り、一緒に完走してくださった読者の皆様には感謝してもしきれません!
最後までのお付き合いいただき本当にありがとうございました!
それではまた、次の物語で皆様とお会いできる日を楽しみにしています——
著ファッション@スカリー




