第115話:孤独の境界、沈黙の残響
「一歩も、引かない。」
崩壊した円陣、負傷し後退していく仲間たち。砂塵が舞う地獄のただ中に、血に染まった一人の守護者が残されました。
あらゆる骨が軋み、大盾が悲鳴を上げる波状攻撃。
言葉を捨てたグロリアが、自らの命を「時間」へとリペアし続ける、あまりにも孤独で、あまりにも気高い死闘。
荒野に刻まれる、沈黙の盾の真髄を描きます。
荒野の砂塵は、もはや呼吸さえも拒絶するような密度で吹き荒れていた。
視界の端々で、巨大な肉の塔――サンドワームの群れが、地響きを上げながら蠢いている。その中心部、昨日までは「道」となるはずだった平坦な地表は、今や無残に掘り返され、剥き出しの地層が絶望の牙を剥いていた。
「……ぁ、……あ、あぁ……!!」
一人の新米騎士が、震える手で折れた槍を握りしめたまま、砂の上に座り込んでいた。彼の左腕はワームの体当たりによる衝撃で不自然な方向に曲がり、支給されたばかりの簡素な甲冑は、ひしゃげて胸を圧迫している。
周囲を見渡せば、昨日まで「盾の並べ方」を笑い合っていた仲間たちが、一人、また一人と砂に沈み、血を吐きながらもがいていた。
「……後退だ。……総員、……レゾナンスへ引け!!」
ルサニコフの、血の混じった咆哮が響く。彼は負傷した測量員を肩に担ぎ、メイとフラウロスの腕を強引に引きながら、砂の渦から逃れようと必死の足取りを進めていた。
だが、ワームの王――他を圧倒する質量を持つ超巨大個体が、逃走を許さぬように再び鎌首をもたげた。
その「生」と「死」を分かつ境界線に、一人の影が立っていた。
グロリア。
彼女の全身は、すでに自らのものとワームの粘液が混ざり合った、どす黒い液体で濡れそぼっていた。
「…………。」
グロリアは、後退を始めた仲間たちの背中を一瞥もせず、ただ大盾を真正面に構え直した。
彼女の左肩は、先ほどの突き上げで完全に脱臼している。盾を支えるたびに、剥き出しの神経が火を吹くような激痛を脳に送り届けていたが、彼女の瞳には、それすらも「外部のノイズ」として処理するような、冷徹な静寂が宿っていた。
「グロリアさん!! ダメだよ、一人じゃ……!!」
メイが叫ぶ。だが、その声は砂嵐にかき消される。
アイシャは、横転したテツクズ号のハッチから身を乗り出し、歯を食いしばってグロリアの背中を睨みつけた。
「……メイ、行けッ!! あの娘の目が、……『行け』って言ってんだよ!! ……ここで全滅したら、……レゾナンスの開拓は今日で終わりだ。……あの娘がリペアしてくれた時間を、……無駄にするんじゃねえ!!」
アイシャの叫びに、負傷した騎士たちが屈辱に顔を歪ませながら、這いずるようにレゾナンスの門へと向かう。
自分たちの盾は、守れなかった。
自分たちの槍は、届かなかった。
残されたのは、言葉を捨てた一人の女性の、あまりにも細く、そしてあまりにも巨大な背中だけだった。
ワームの王が、そのおぞましい口腔を開いた。
内側には、獲物を粉砕するための数千の牙が、螺旋状にうごめいている。
ドォォォォォォォンッ!!
質量そのものの暴力が、グロリアへと襲いかかる。
グロリアは、回避を捨てた。
彼女は大盾の裏側に、動かない左腕をベルトで無理やり「固定」し、右手を盾の縁に添えて、全身の重心を一点に収束させた。
衝突。
「――が、ふッ!!」
沈黙を貫いてきた彼女の口から、鮮血が飛散した。
盾を通じて伝わる衝撃は、彼女の肋骨を数本、容赦なくへし折った。肺が潰され、酸素の代わりに鉄錆の匂いが喉を満たす。
彼女の足は、膝まで砂に埋まり、背後の石畳は衝撃の余波で爆発したかのように砕け散った。
だが、グロリアは一歩も下がっていなかった。
「………………。」
彼女は、血に濡れた口角を微かに吊り上げた。
それは、絶望の中での笑みではない。
「まだ、耐えられる」という、物理限界を超えたリペアの確信。
彼女は、盾の裏に隠した右手に、折れた槍の穂先を握りしめていた。
ワームの巨体が盾に密着し、その圧力が最大に達した瞬間。
グロリアは、盾のわずかな隙間から、その穂先をワームの口腔へと、渾身の力で突き立てた。
ギギギィィィィィッ!!
ワームが、生物とは思えぬ絶叫を上げ、のたうち回る。
その巨躯が振るわれるたびに、グロリアの身体は木の葉のように振り回され、地面へと叩きつけられた。
それでも、彼女は盾を離さなかった。
「……メイ。……観測しろ。」
逃走するメイの肩で、フェネクスがかつてないほど沈痛な、けれど敬意に満ちた瞳で戦場を見つめていた。
「……あれはもはや、……騎士の戦いではない。……自己という名の部品を、……磨耗し、……砕け散るまで使い潰し、……仲間のベクトルを生存へとリペアし続ける……。……狂気にも似た、……究極の『礎』の姿だ。」
メイは振り返り、涙で歪む視界の中で、砂塵に飲み込まれていくグロリアの影を見た。
一人の盾。
無数の怪物。
孤独な死闘は、今、始まったばかりだった。
――ガキィィィィンッ!!
盾の表面を、ワームの鋭利な外皮が抉り、耳を劈く金属音が荒野に撒き散らされる。
グロリアの視界は、すでに半分以上が赤く染まっていた。額から流れる血が目に入り、瞬きをするたびに粘りつく。
彼女を包囲するサンドワームは、一体や二体ではない。王個体の咆哮に呼応し、小型の、それでも人間の数倍の質量を持つ個体たちが、四方八方から「餌」を求めて波状攻撃を仕掛けてきていた。
ドォォォォンッ!!
背後からの突き上げ。
「……っ、が……あッ……!!」
グロリアの身体が宙に浮き、無防備な背中が硬い岩盤へと叩きつけられた。
肺の中の空気が無理やり押し出され、代わりにせり上がってきたのは、熱く、鉄の味がする大量の鮮血だ。
彼女はそれを飲み下す余裕もなく、砂の上に吐き捨てた。
――ボキ、リ。
嫌な音がした。
右足の足首が、着地の衝撃に耐えきれず、不自然な角度で折れ曲がっている。
立ち上がることさえ、物理的には不可能なはずだった。
だが。
グロリアは、震える右手に力を込めた。
彼女は、折れた足を引きずりながら、再び大盾を構え直す。
脳が叫んでいる。「もう動くな」と。「このまま眠れば、痛みは消える」と。
だが、彼女の精神は、その「ノイズ」を強引に遮断していた。
(…………守る、……と。)
声にならない思考が、脳裏を過る。
かつて、彼女は「盾」ではなかった。
エデンのさらに外周、見捨てられた廃棄区画で、彼女はただ「奪う」ために剣を振るう、野良犬のような少年兵だった。
言葉を失ったのは、その頃だ。
喉を焼かれ、仲間を売られ、最後に信じた「守るべきもの」が、自分の目の前で砂塵に変わるのを見た時。
『……お前、……そんなに重いものを背負って、……どこへ行くつもりだ?』
かつて、どこかの戦場で出会った老騎士の言葉が、混濁する意識の中でリフレインする。
彼は死の間際、自分の命を盾にして、グロリアを逃がした。
なぜ、そこまでするのか。
言葉を持たなかったグロリアの問いに、老騎士は血塗れの口角を上げて笑った。
『……盾を持つ者に、……理由は一つで足りる。……背後に、……自分より弱い命があるからだ。……それ以外は、……ただのノイズよ。』
その記憶が、今のグロリアの背骨を支える。
自分は、あの老騎士のようになれているだろうか。
レゾナンスの街に、メイに、アイシャに。
自分という「境界」は、彼らの未来を守るに値する強度を持っているだろうか。
ドガァァァァァァァンッ!!
再びの激突。
今度は三体のワームが同時に、グロリアの盾へと全質量を叩きつけた。
ギギギ、ギギギギィィィィ……!!
大盾の中央に、ついに亀裂が走る。
エデンの合金とメイのリペア技術をしても、数十トンの怪物の圧力を一点で受け続けることには限界があった。
グロリアの右腕の筋肉が、限界を超えて断裂し、皮膚の下で内出血が広がる。
骨と骨が直接擦れ合うような嫌な感触が、脳に「リペア不能」の警告を送り続ける。
「………………ッ、…………ぅ、あぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!」
沈黙の騎士が、初めて叫んだ。
それは言葉ではない。
己の生命を、魂を、その一瞬の「強度」に変換するための、魂の咆哮。
彼女は折れた足を踏ん張り、盾の裏側に肩を入れ、逆にワームの群れを押し返した。
一歩。
二歩。
血を吐きながら、内臓を軋ませながら。
彼女は「後退」ではなく、地獄の真ん中へと「前進」していた。
一秒でも長く。一歩でも遠く。
メイたちの背中から、この死の拍動を遠ざけるために。
「……ぁ、……ああ……。」
遠く、レゾナンスの門付近まで辿り着いたフラウロスが、震える手で集音器の耳を戦場へと向けていた。
彼女の耳に届くのは、もはやワームの咆哮ではない。
グロリアの、剥き出しの命が燃える音。
骨が砕け、肉が裂け、それでもなお「盾」を置くことを拒絶する、狂おしいまでの鋼の意志。
「……グロリア、……あんた……。……なんで、……そこまで……。」
フラウロスの頬を、涙が伝う。
彼女には聴こえていた。
グロリアの沈黙の奥底で鳴り響く、誰よりも激しく、誰よりも優しい「守護の旋律」が。
だが、その音は、刻一刻と小さくなっていた。
ワームの王が、再び巨大な尾を振り上げる。
それは、すでに満身創痍のグロリアを、今度こそ物理的に粉砕するための「死の一撃」。
「………………。」
グロリアは、残った右目でその軌道を見据えた。
彼女は、逃げない。
割れた盾を、もう一度だけ、正しく構え直した。
――ガァァァァァァァンッ!!
ワームの王が振り下ろした、巨大な尾による一撃。それはもはや生物の攻撃というより、空から巨大な鋼鉄の柱が降ってきたかのような、理不尽なまでの破壊エネルギーだった。
衝突の瞬間、グロリアが掲げていた大盾が、悲鳴を上げて四散した。
エデンの合金、メイの祈りを込めたリペア、そのすべてを上回る圧倒的な質量が、ついに「不動の盾」を物理的に粉砕したのだ。
「…………ッ、あ、…………ッ!!」
盾を支えていた左腕の骨が、何箇所も同時に砕ける感触。
衝撃波はそのままグロリアの全身を突き抜け、彼女の小さな体躯を、紙屑のように数十メートル後方へと吹き飛ばした。
地面を何度もバウンドし、鋭い岩角に背中を打ち付け、ようやく止まった彼女の周囲には、砕け散った盾の破片が、星屑のように砂塵の中に散らばっていた。
意識が、急速に遠のいていく。
視界は真っ暗になり、耳元で鳴り響いていたワームの咆哮さえも、遠い海の底の音のように、微かな残響へと変わっていく。
(……あぁ、……ここまで、か……。)
冷たい感覚が、指先から這い上がってくる。
痛みさえも消え、ただ心地よい虚無が彼女を誘う。
暗闇の中で、彼女はかつて自分を逃がしてくれた老騎士の、血まみれの笑顔を思い出していた。
『……盾を持つ者に、……理由は一つで足りる。』
そう。自分は、その理由を全うできただろうか。
メイたちは、逃げ切れただろうか。
レゾナンスの「道」は、まだ繋がっているだろうか。
ワームの王が、勝利を確信したかのように、砂を蹴散らしながらゆっくりと歩み寄ってくる。
動かない「肉」となったグロリアを、今度こそ一飲みで咀嚼するために。
だが。
「………………っ、……。」
グロリアの、血にまみれた右手の指先が、ピクリと動いた。
彼女は、意識の断崖絶壁に踏みとどまり、自分の魂を無理やり肉体へと引き戻した(リペアした)。
彼女は、砂の中に落ちていた、大盾の「破片」の一つに手を伸ばした。
鋭利なエッジで掌が切れ、新たな鮮血が溢れ出すが、彼女はそれを構わずに握りしめる。
――折れた足。
――砕けた腕。
――潰れた肺。
もはや「戦士」として機能する部品など、彼女の身体には一つも残っていない。
それでも、彼女は、残った右目を見開いた。
(…………まだ。……一歩も、……引かない。)
グロリアは、震える右腕だけで、自分の上半身を砂の上から起こした。
彼女は、盾の破片を自らの胸の前に掲げる。
それはもはや防具としての役割など果たさない、小さな鉄の欠片に過ぎない。
だが、その欠片を握る彼女の指は、岩盤に食い込む根のように、決して離れようとはしなかった。
ワームの王が、眼前の小さな獲物の執念に、苛立ちを覚えたように大きく口を開く。
数千の牙が回転し、死の渦がグロリアを飲み込もうとした、その時。
遥か、レゾナンスの方向から。
空気を切り裂き、砂嵐を貫いて届く、一筋の「雷鳴」があった。
「――グロリアァァァァァァッ!! 下がっていろ、そこは我が『境界』だッ!!」
それは、太陽の如き熱量を孕んだ、怒濤の咆哮。
ドォォォォォォォンッ!!
ワームの王の口腔、まさにグロリアを食らおうとしたその一点に、巨大な「緋色の閃光」が突き刺さった。
爆発的な衝撃波。
ワームの巨体が、悲鳴を上げて横転する。
砂塵が晴れた、その中心。
そこには、大剣を抜き放ち、烈火の如き気迫を纏ったアスタロトが立っていた。
彼女の背後には、救援のために全速力で駆け抜けてきた騎士団の、そしてルサニコフたちの姿があった。
アスタロトは、背後のグロリアに一瞥もくれなかった。
だが、その震える大剣の先が、どれほど彼女が怒り、そして安堵しているかを物語っていた。
「……よく、耐えたな。沈黙の盾よ。」
アスタロトの短い言葉。
それを聞いた瞬間、グロリアの張り詰めていた「弦」が、ようやく解けた。
彼女は、盾の欠片を握りしめたまま、静かに砂の上にその身を預けた。
意識が沈む直前、彼女が見たのは。
自分の背中を、誰よりも大きく、誰よりも熱く守り抜く、レゾナンス最強の「剣」の姿だった。
「………………。」
グロリアの口元が、わずかに緩む。
繋いだ。
自分という盾が砕けても、レゾナンスの未来という「道」は、確かに繋がったのだ。
絶望の荒野に、反撃の狼煙が上がる。
孤独な死闘は終わり、二つの「盾」が並び立つ、真の共鳴が始まろうとしていた。
ご愛読、ありがとうございました!
満身創痍のグロリアが、砕けた盾の破片を握りしめて前を見据えるラストシーン……彼女の執念に、胸が締め付けられる思いでした。
しかし、孤独な夜は終わります。
絶体絶命の瞬間に現れた、レゾナンス最強の「剣」と「盾」。
次回、第116話「緋色の共鳴、双璧の盾」。
アスタロトとグロリア。二人の守護者が背中を預け合い、サンドワームの群れを蹂躙する反撃の刻が始まります!




