第106話:疾風の救出、愛という名の盾
砂塵の彼方から届いた、一筋の赤い閃光。
それを見た瞬間、鉄の規律を誇る騎士アスタロトの仮面は崩れ落ちました。
かつての賊から奪い、メイが執念でリペアした無骨なバギーを駆り、彼女は死の速度で荒野を蹂躙します。
「我が魂に触れるな」――。
失うことへの恐怖を爆発的な推進力に変え、砂の障壁を突き破る銀の閃光。愛する半身を救い出すため、そして仲間が命を懸けて見つけた「国の礎」を守るため、アスタロトの烈火のごとき情愛が爆発します。
レゾナンスの中央展望塔。夜を徹して砂塵の彼方を見つめていたアスタロトの網膜に、その「赤」が焼き付いた瞬間、彼女の心臓は爆発的な鼓動を刻んだ。
それは、救難信号。
アークの深部に眠っていた禁忌の火薬を、メイが「もしもの時」のために、祈るような手つきでリペアして持たせた、最後の手札。
「……フラウロスッ!!」
アスタロトの喉から、野獣のような叫びが漏れた。
普段、騎士団の若者たちを厳しく律し、感情の欠片も見せない「教官」としての彼女は、そこにはいなかった。彼女は展望塔の手すりを跳ね除け、垂直に近い梯子を、文字通り滑り降りるようにして階下へと向かった。
彼女の脳裏には、出発の朝、毒舌を吐きながらも、不安げに杖を握りしめていたフラウロスの細い指先が、フラッシュバックのように繰り返されていた。
(……待っていろ。……死なせぬ。……死なせてなるものか!! ……貴様を、……あの暗闇に一人きりになど、……二度とさせてやるものかッ!!)
広場に駆け降りたアスタロトの前に、一人の少女が立ち塞がった。メイだ。
彼女の手には、油塗れのスパナと、一本の鍵が握られていた。メイの瞳もまた、泣き出しそうな不安と、それを上回る「信じる力」で燃えていた。
「……アスタロトさん! ……車、……回してあるよ!! ……まだ、……完全に直ったわけじゃないけど、……今、この街で一番速いのは、……あの子だけだから!!」
メイが指し示したのは、防壁の影、ガレージ代わりに使われているテントの中に鎮座する、無骨な「鉄の塊」だった。
それは、数ヶ月前、レゾナンスの水を狙って襲撃してきた賊たちが乗り捨てていった、武装バギーの残骸だ。エンジンは焼き付き、フレームは歪み、誰もが「ゴミ」だと断じたその鉄屑を、メイは「いつか、みんなを守るための足になる」と信じて、寸暇を惜しんでリペアし続けてきたのだ。
アスタロトは、メイから鍵をひったくるように受け取ると、バギーの運転席へと飛び乗った。
「……済まぬ、メイ。……借りていくぞ!!」
「……連れてって! ……アスタロトさん、……私も……!!」
「……ダメだッ!! ……ここから先は、……速度の地獄だ。……貴様は、……帰ってきたあの子の傷を直すための準備をしておけ!! ……いいか、……絶対に、……連れて帰る!!」
アスタロトの怒号に近い宣言に、メイは言葉を呑み、力強く頷いた。
アスタロトが鍵を回すと、賊が使い潰したはずのエンジンが、メイの執念のリペアによって蘇り、腹の底に響くような野獣の咆哮を上げた。
不純物の混じったバイオ燃料が不気味な黒煙を上げ、バギーの車体が激しく震える。
「――騎士団第一機動班、搭乗せよ!!」
アスタロトの呼びかけに、ルサニコフと同じく、特訓を耐え抜いた精鋭の若者三名が、装備を最小限に絞って後部座席へと飛び乗った。彼らの手には、武器だけでなく、測量用の杭と、レゾナンスの「レンチの紋章」が描かれた国旗が握られていた。
「……教官! ……準備完了です!!」
「……全速力で突っ込む。……舌を噛まぬよう、……歯を食いしばっておけ!!」
アスタロトは、アクセルを床が抜けるほどに踏み抜いた。
クラッチを繋いだ瞬間、バギーのタイヤが石畳を激しく掻き毟り、火花を散らしながら、閉まりかけたばかりの東門を、文字通り「突破」するようにして駆け抜けた。
門を出た瞬間、狂ったような砂嵐の壁が、彼女たちの視界を奪った。
だが、アスタロトの網膜には、先ほど見た「赤い残光」の残像が、絶対的な羅針盤として焼き付いている。
「……フラウロス、……フラウロス、……フラウロス……!!」
彼女はハンドルを握る手に、折れんばかりの力を込めた。
バギーのサスペンションが、荒れた路面の衝撃を吸収しきれず、車体が激しく跳ねる。だが、アスタロトはその振動さえも、フラウロスの心臓の鼓動と同期させるようにして、さらに加速させた。
賊のバギーは、洗練されたアークの車両とは違う。
鉄板を継ぎ接ぎした不格好な装甲。オイル漏れを起こしながらも必死に回るピストン。
だが、その「泥臭い力強さ」こそが、今の砂の海を蹂躙するために必要だった。
「……ざぁこな騎士だと言いたいか、フラウロス。……ああ、言わせてやる。……いくらでも罵倒していい。……だが、……私の目の前で、……勝手に消えることだけは、……このアスタロトが許さぬッ!!」
長い髪が風に激しくなびき、アスタロトの瞳から、普段の冷静な「色」が完全に消え去った。
そこにあるのは、自分を半分に分かち合ったような、魂の共鳴者であるフラウロスを救い出すための、原初的な、そして苛烈なまでの「愛」の化身だった。
バギーは砂塵の壁を突き破り、救難信号の上がった「沈黙の岩層」へと、死の速度で突き進んでいく。
「……見えたッ!!」
アスタロトが叫ぶ。賊から奪い、メイが執念で繋ぎ合わせたバギーのヘッドライトが、乱反射する砂塵の壁を強引に突き破った。その光の束が射抜いたのは、異形の影に幾重にも包囲された、あまりに小さく、あまりに傷だらけの二人の姿だった。
ルサニコフが、折れたピッケルを杖代わりに立ち上がり、フラウロスの前に立ちはだかっている。だが、その背中は限界を迎え、小刻みに震えていた。周囲を埋め尽くす「顔のない白い肉塊」たちが、その沈黙の顎を開き、獲物を飲み込もうと一斉に跳ね上がった、その刹那だった。
「――我が魂に、……その汚らわしい指をかけるなァッ!!」
アスタロトは、減速することなくバギーのステアリングを急旋回させた。
エンジンの回転数が限界を超え、金属の悲鳴が荒野に響き渡る。バギーの巨大なタイヤが、異形の残党を文字通り圧殺し、砂塵と共に肉の飛沫を撒き散らす。アスタロトは車体が停止しきる前に、運転席から弾かれたように飛び出した。
背負った大剣が、抜剣の音さえ置き去りにして抜かれる。
「退け……ッ!!」
横一文字に振るわれた一撃は、もはや剣術の域を超えた、純粋な「意志」の爆発だった。
メイが打ち直した重厚な刃が、真空に近い衝撃波を発生させ、フラウロスを取り囲んでいた数体の異形をまとめて消し飛ばす。アスタロトの瞳には、普段の冷静な「教官」としての色は微塵もない。そこにあるのは、自分自身の半身を傷つけられたことへの、原初的で、苛烈なまでの「憤怒」と、それを上回るほどの切実な「愛」だけだった。
「……フラウロス!!」
アスタロトは、返り血を浴びた甲冑のまま、膝を突いてフラウロスを抱き寄せた。
折れそうなほど細いその身体。泥と砂に汚れ、耳から血を流しながらも、震える手で「鉄鉱石」を握りしめているフラウロスの姿。
「……ざぁこな、……騎士様ね。……遅い、……遅すぎるのよ……っ。」
フラウロスの毒舌は、もはや声にもならないほど掠れていた。けれど、彼女がアスタロトの胸当てに顔を埋めた瞬間、アスタロトの強靭な腕が、その小さな肩を壊してしまいそうなほど強く、そして慈しむように包み込んだ。
「……ああ、……済まぬ。……済まぬ、フラウロス。……よくぞ、……よくぞ生きていてくれた……!!」
アスタロトの喉が震え、押し殺したような嗚咽が漏れる。彼女にとって、この少女は守るべき部下である以上に、自分という存在を肯定し、共に「国」という夢を歩むための、かけがえのない魂の共鳴者だったのだ。もしここで彼女を失っていたら、アスタロトという騎士の心は、メイにも直せないほど粉々に砕け散っていただろう。
アスタロトがフラウロスを腕の中で守り続けている間、バギーの後部座席から飛び降りた騎士団の精鋭たちは、一分の無駄もなく「公務」を開始していた。
彼らはアスタロトの激昂に気圧されながらも、その背中を守るべく、即座に全方位への警戒態勢を敷く。
「……ルサニコフさん、これを!!」
一人の若者が、ボロボロになったルサニコフに肩を貸し、メイが用意した応急処置キットを取り出す。
一方で、別の二名は手早く作業に取り掛かった。一人が大型の測量釘を、フラウロスが掘り当てた「鉄鉱石の露頭」の真横へ、ハンマーで力強く打ち込む。
「……座標、レゾナンスより北西四十二キロ地点! ……不純物のない鉄鉱脈を確認!!」
「――了解。……これより、……この地をレゾナンスの直轄領とする!!」
もう一人の隊員が、バギーに積んでいた「レゾナンスの国旗」を高く掲げた。
砂嵐の咆哮の中、二本のレンチが交差する紋章が、逆風に煽られて激しくたなびく。それは、多くの仲間を失った悲劇の場所を、ただの墓地ではなく、自分たちが生き延びるための「国の心臓(鉱山)」として上書きするための、力強い儀式だった。
アスタロトは、旗が風を切る音を聞きながら、ゆっくりと顔を上げた。
彼女の腕の中では、安堵したフラウロスが、糸が切れたように意識を失いかけていた。
「……見ていろ、フラウロス。……貴様が命を懸けて見つけたこの『石』が、……私たちの国を、……誰にも壊せぬ最強の壁へと変える。……その景色を、……一番近くで見せるまで、……私は貴様を絶対に離さぬ。」
アスタロトは、フラウロスを横抱き(お姫様抱っこ)にすると、足元に転がっていた「折れた杖」と「空き缶の集音器」を、宝物のように丁寧に拾い集めた。
「……ルサニコフ、動けるか。……これより、凱旋する。」
「……はっ。……どこまででも、……付いていきます。」
泥だらけの勇者たちを乗せ、賊の遺産であるバギーが、再び野獣のような咆哮を上げた。
砂塵の向こう、レゾナンスの灯火を目指して、鉄の獣が真っ赤な尾灯を引きながら、荒野を爆走し始める。
「……ルサニコフ。……衝撃に備えろ。……一刻も早く、メイの元へ届ける。」
アスタロトの声は、先ほどまでの激情を無理やり鋼の檻に閉じ込めたような、不自然なほどの静謐さを帯びていた。
彼女は、意識を失いかけてぐったりと助手席に横たわるフラウロスを、自分のマントで幾重にも包み込み、賊の粗末なシートベルトの上から、さらに自分の左腕でその身体を固定した。右手一本で、猛り狂うバギーのステアリングをねじ伏せる。
バギーのエンジンは、過負荷によって悲鳴を上げていた。メイがリペアしたピストンが、一爆発ごとに金属の火花を散らす。だが、アスタロトはその振動さえも、フラウロスの微弱な鼓動を確かめるための計器として利用していた。左腕に伝わる、小さく、けれど確かな温もり。それが途絶えぬよう、彼女はアクセルを踏み抜いた。
「……フラウロス、……寝るな。……レゾナンスの灯火が見えるまで、……その毒舌を、……我慢して取っておけ……。」
アスタロトの独り言は、風の咆哮に掻き消された。
彼女の脳裏には、フラウロスと過ごしたこれまでの日々が、走馬灯のように駆け巡っていた。
出会った当初、この生意気な少女は、アスタロトの掲げる「騎士道」を「時代遅れのざぁこな精神論」と鼻で笑った。けれど、建国の荒波の中で、彼女は誰よりも早くアスタロトの意図を汲み取り、音と振動という繊細な力で、国の「耳」となり「神経」となって支えてくれた。
アスタロトにとって、フラウロスはもはや単なる戦友ではなかった。
自分という「剛」の盾を補完する、最も美しく、最も壊れやすい「柔」の真理。
もし彼女を失えば、アスタロトの心に空いた穴は、どんな鋼鉄を流し込んでも、どんなリペアを施しても、二度と埋まることはない。その強烈な自覚が、アスタロトの操縦を、神がかり的な正確さへと昇華させていた。
背後の荷台では、ルサニコフが仲間の遺品と、血に染まった「鉄鉱石」を死守していた。
彼もまた、アスタロトの背中から溢れ出す、言葉にならないほど濃密な「守護の意志」に圧倒されていた。それは愛と呼ぶにはあまりに鋭く、執念と呼ぶにはあまりに清らかな、一人の人間の魂を丸ごと包み込もうとする、巨大な情念の奔流だった。
「――見えましたッ!! レゾナンスのサーチライトです!!」
後部座席の隊員が、砂塵のカーテンを突き抜けた一条の光を指差した。
アスタロトの視界に、自分たちが築き上げた「壁」の輪郭が飛び込んでくる。
門の前には、既に一団の影が待機していた。
先頭に立つのは、油塗りの作業着を翻し、大型の救急キットを抱えたメイ。そして、温かい毛布を抱えたエル。
アスタロトは、バギーのブレーキを焼き切らんばかりの勢いで踏み込み、門の直前で派手な砂柱を上げて急停車させた。
「――メイッ!!」
車が止まりきる前に、アスタロトはフラウロスを抱き上げ、地面に降り立った。
「……フラウロスちゃん!!」
メイが駆け寄る。その顔は涙でぐちゃぐちゃだったが、抱きしめられたフラウロスの頬に赤みが残っているのを見て、安堵の絶叫を上げた。
「……生きてる、……生きてるよ……!! エル、早く毛布を! 脈が弱い、すぐにアークの医療ユニットへ運ぶよ!!」
アスタロトは、メイにフラウロスを託そうとした。
だが、その瞬間。
意識を失っていたはずのフラウロスの指先が、弱々しく、けれど拒絶するようにアスタロトの甲冑を掴んだ。
「……ざぁこ、……離さないで……って……言った……じゃない……。」
掠れた、消え入りそうな声。
アスタロトは、息を呑んだ。
その瞬間、彼女の瞳から、こらえ続けていた熱い雫が、フラウロスの泥だらけの額に零れ落ちた。
「……ああ。……離さぬ。……離さぬとも。……我が命に代えても、……貴様を、……この腕の中から逃がしはせぬ。」
アスタロトは、メイに促されるまま、フラウロスを抱いたまま街の中へと歩みを進めた。
門をくぐる際、彼女は一度だけ振り返り、遠く砂の海に置いてきた仲間たちの魂へ、沈黙の敬礼を送った。
彼らの命と引き換えに手に入れた、赤黒い鉄の石。
それは今、ルサニコフの手によって、レゾナンスの作業場へと運び込まれた。
悲劇は終わった。
けれど、本当の「国造り」はここからだ。
フラウロスが命懸けで見つけたその「石」を、メイが叩き、アスタロトが振るい、エルが磨く。
仲間の死を、ただの過去にしないために。
この「愛」という名の盾を、より強固な、誰にも侵せぬ国家の壁へと変えるために。
アスタロトは、腕の中の小さな重みを感じながら、決意を新たにした。
彼女の歩む轍の先には、もう、迷いはなかった。
ご愛読、ありがとうございました!
爆走するバギー、一閃される大剣、そして泥にまみれた再会。アスタロトがフラウロスを抱きしめたその腕には、騎士道よりも重く、切実な「独占欲」と「慈しみ」が宿っていました。
犠牲になった仲間たちのために立てられた国旗と、ルサニコフが死守した一塊の鉄鉱石。悲劇を乗り越え、レゾナンスは今、本当の意味で一つの「意志」として結ばれようとしています。
次回、第107話「鉄の誓約、鳴り響く修復の槌」。
持ち帰られた「真の鉄」が、メイのハンマーによって新たな形へとリペアされる、再生の物語が始まります。




