第94話:削削の嵐、沈黙のフェネクス
空を削り取る砂礫の嵐「大サイクロン」。
視界も音も奪われた極限の研磨地獄の中で、アークの装甲は無残に削り取られていきます。絶体絶命の危機、メイの膝の上で静かに目を覚ましたフェネクスが、神獣としての真価を発揮します。
17層あったはずの命の盾を削り、少女たちが嵐の向こう側に見た、組織のデータすら存在しない「真実」の姿とは――。
溶岩の河を越えたメイたちを待っていたのは、安らぎではなく、物理的な「消滅」の予感だった。
アークのフロントガラスの向こう側。そこには、天を衝くほどの巨大な黒い柱が、唸りを上げてのたうっていた。七つの火山の熱気が衝突し、膨大な上昇気流が生み出した地獄の渦――「大サイクロン」だ。
「――っ、来るよ! みんな、何かに捕まって!!」
メイが叫ぶのと、アークが嵐の外縁部に接触するのは同時だった。
キィィィィィィィィィィィィィンッ!!
鼓膜を直接針で刺されるような、凄まじい高周波の絶叫が車内を満たした。それは風の音ではない。秒速百メートルを超える暴風に乗り、音速に近い速度で飛来する「火山礫」と「硬質な砂」が、アークの装甲をミリ単位で削り取っていく、金属の悲鳴だ。
窓の外は一瞬で視界ゼロになった。
見えるのは、装甲と砂礫が衝突して発生する、暴力的なまでのオレンジ色の火花だけだ。数千、数万の火花がフロントガラスを埋め尽くし、アークはまるで、巨大な回転研磨機の中に放り込まれた端材のように、その身を削られ始めた。
「……はぁ、……っ、……う、……ぁああっ!!」
メイは操縦桿を握りしめたまま、激しい耳鳴りと戦っていた。
熱による「溶解」とは違う。これは、自分たちが手塩にかけて作り上げたアークという「家」の厚みが、物理的に、確実に奪われていく恐怖だ。
ガガガガガガガッ!!
車体全体に伝わる振動は、もはや地震のそれを超えていた。内装のパネルがボルトごと弾け飛び、メイの頬をかすめて背後の壁に突き刺さる。
「――メイ! 計算が、……計算が追いつかないわよ!!」
フラウロスの悲鳴が、激しいノイズに混じってスピーカーから漏れる。
「研磨速度が予想の三倍を超えてる! 第三層、……パージまであと十秒! 第四層も、……もって三十秒よ!! この嵐、……層を食い破るスピードが速すぎるわ!!」
「……そんな、……まだ、……半分も進んでないのに……っ!!」
メイは嗚咽を漏らしながら、火花の向こう側を見ようと必死に目を凝らした。
計器盤の「装甲残数」を示すランプが、心拍数のような速度で一つ、また一つと消えていく。
第3層、消滅。
第4層、消失。
第5層、……
アークの側面から、削り取られ、紙のように薄くなった合金プレートが、嵐の勢いに負けて剥がれ飛んでいく。そのたびに、アークの車体は一回り小さくなり、メイたちの「命の盾」は頼りなく削ぎ落とされていった。
「……アスタロト、……フラウロス、ちゃん……。……私、……もう、……前が見えないよ……。……どこに向かって走ればいいのか、……分かんないよ……!!」
メイの指先が、恐怖で白く強張る。
外は火花の地獄。中は、剥き出しになりつつあるエンジンルームからの熱気と、異常な振動。
死の砂礫が、アークの給気口を詰まらせ、エンジンが不規則な喘ぎ声を上げ始める。
その時だった。
メイの膝の上で、ずっと微動だにせず目を閉じていたフェネクスが、静かに立ち上がった。
その少年のような小さな体から、それまでとは全く異質の、静謐で、冷徹なまでの「重圧」が放たれる。
「……フェネクス、様……?」
メイが呼びかけるが、フェネクスは答えない。
彼はただ、小さな、けれど白く輝く翼を左右に大きく広げ、黄金の瞳をカッと見開いた。
その瞬間。
アークを包んでいた絶望的な研磨音が、わずかに変化した。
パシッ、パシパシッ……。
まるで、アークの周囲だけ「確率」が歪められたかのように。
飛来する火山礫が、アークの装甲に直撃する直前で、不自然にその軌道を逸らしていく。フェネクスが、自らの因果操作の権能を全開放し、アークへ向かう「衝突の未来」を片っ端から書き換えているのだ。
フェネクスは、一言も発しない。
唇を固く結び、その額からは大粒の汗が滴り落ちている。神獣としての全神経を、一秒間に数万回繰り返される「回避の演算」に注ぎ込んでいるのだ。
沈黙のフェネクス。
その小さな背中が、今のメイにとっては、どんな巨大な装甲よりも頼もしい、最後の盾に見えた。
メイの声は、嵐の轟音に掻き消されそうだった。
だが、その膝の上で立ち上がった小さな背中からは、これまでの「ショタジジイ」としての愛らしさなど微塵も感じられない、神域の威圧感が放たれていた。
フェネクスは、黄金の瞳をカッと見開いたまま、小さな両手をアークのフロントガラスへと突き出した。
その瞬間、アークの周囲を包んでいた「物理法則」が、目に見える歪みを伴って書き換えられた。
「……偏向……ッ!!」
フェネクスが短く、鋭い呼気を漏らす。
次の瞬間、秒速百メートルを超える速度でアークの装甲に直撃しようとしていた無数の火山礫が、衝突のわずか数センチ手前で、まるで磁石の同極同士が反発し合うように、不自然な角度でその「軌道」を逸らした。
キンッ、パシィィィィィンッ!
直撃音は消えない。だが、その衝撃の質が劇的に変わった。
これまでは装甲を正面から叩き割り、削り取るような「破壊の衝撃」だったものが、今は装甲の表面を滑り、外側へと受け流される「摩擦の音」へと変貌している。
フェネクスは、飛来する砂礫一つひとつの運動エネルギーの方向を、全神経を研ぎ澄ませて強制的に書き換えていたのだ。
「……はぁ、……はぁ、……っ、ぐ、……あ……!!」
フェネクスの小さな肩が、激しく上下する。
その額からは、滝のような汗が流れ落ち、少年のような白い肌は、過負荷によって赤く火照り始めている。一秒間に数百万、数千万という砂礫のベクトルを個別に操作する。それは神獣である彼にとっても、魂の根源を削り取るような絶望的なまでの重労働だった。
「……フェネクス、様! もう、いいよ! このままじゃ、フェネクス様が……っ!!」
メイが叫び、彼を抱き寄せようとしたが、アスタロトがその腕を制した。
「……止めるな、メイ。……今、この御方が手を引けば、アークは一瞬で塵となる。……これは、この御方が選んだ『戦い』だ。……我らにできるのは、その守護が消えぬ間に、この地獄を駆け抜けることだけだ!!」
アスタロトの言葉に、メイは唇を噛み切り、涙を拭った。
そうだ。弱音を吐いている暇なんてない。フェネクス様が命を懸けて作ってくれた、この「一瞬の隙間」を無駄にするわけにはいかない。
「――フラウロス! 装甲の残数は!?」
「……ざぁこ、……ざぁこ! ……第7層消失、第8層……臨界突破! ……でも、フェネクス様の加護のおかげで摩耗率が40%まで下がったわ! ……今よメイ、最大出力でぶち抜きなさい!!」
「了解!! ――アーク、お願い……っ!!」
メイは操縦桿を限界まで倒し込み、補助スラスターの全リミッターを物理的に引きちぎった。
アークのエンジンが、断末魔のような咆哮を上げ、車体全体が激しくのたうち回る。
第6層、パージ。
第7層、パージ。
一枚、また一枚と、メイたちの手作りの装甲が、嵐の餌食となって剥がれ落ちていく。
だが、その犠牲を糧にして、アークは着実に、サイクロンの中心部――「嵐の目」へとその巨体をねじ込んでいく。
キィィィィィィィィィンッ!!
研磨音の絶頂。
窓の外は、火花と砂嵐が混ざり合い、もはや「光の壁」と化していた。
メイは目をつぶり、ただフェネクスの小さな背中と、操縦桿から伝わるアークの鼓動だけを信じて、アクセルを踏み続けた。
そして。
フッ……。
突然、世界から「音」が消えた。
激しい振動、鼓膜を劈く研磨音、そして車体を揺らしていた暴風。
それらすべてが嘘のように消え去り、アークは不気味なほどの静寂の中に放り出された。
「……え、……? ……抜けた……の?」
メイがおそるおそる目を開ける。
フロントガラスの向こう側には、雲一つない、吸い込まれるような漆黒の空が広がっていた。周囲を巨大な砂嵐の壁に囲まれた、サイクロンの中心点。
「……やった、……やったよ!! ――フラウロス、装甲の残りは!?」
「……はぁ、……はぁ、……っ、……残存装甲、……10層。……第8層から内側は、……無傷よ。……やったわ、ざぁこ整備士。……これなら、……これなら、帰れるかもしれない……!!」
スピーカー越しに聞こえるフラウロスの声には、確かな「希望」が宿っていた。
17層のうち7枚を失ったが、まだ10枚も残っている。
ゼロの元へ辿り着き、用件を済ませ、そしてこの地獄を再び逆走して帰る。
その「生還のシナリオ」が、初めて現実味を帯びてメイの脳裏に浮かび上がった。
「……フェネクス様! ありがとうございます、私……」
メイは喜び勇んでフェネクスを抱き上げた。
だが。
フェネクスは、泥のようにぐったりとしたまま、メイの腕の中でぴくりとも動かなかった。その小さな体は驚くほど熱く、黄金の瞳は固く閉じられたままだ。
「……フェネクス様? ……ねえ、フェネクス様……っ!!」
メイの叫びが、静寂の「嵐の目」に虚しく響く。
だが、その絶望を塗りつぶすかのように、アスタロトが窓の外を指さして絶句した。
「……な、……何だ、……これは……」
希望は、そこにあったはずの景色と共に、一瞬で凍りついた。
「――フェネクス様! フェネクス様……っ!!」
メイの声がアークの狭いコクピットに空虚に響き渡る。膝の上で丸まったフェネクスの体は、まるで高熱を出した子供のように熱く、その小さな胸は浅い呼吸を繰り返している。因果を司る神獣としての全精力を使い果たし、彼は深い、深い眠りの淵へと沈み込んでいた。
アスタロトが、痛ましげにその小さな頭を撫でる。「……命に別条はない。だが、目覚めるまでには相当な時間を要するだろう。……主、この御方は、己を犠牲にしてまで我らに『道』を作ってくださったのだ」
「……うん。……分かってる。フェネクス様が守ってくれたんだもん。……残った10層。これがあれば、……これがあれば、ゼロさんに会った後、もう一度あの嵐を逆走して……街へ、ノアへ、……おじいちゃんの工房へ、帰れるよね……?」
メイは、自分を言い聞かせるように呟いた。
通信機の向こう側で、フラウロスもまた、荒い息を吐きながら頷いたのが分かった。
「……ええ。……ざぁこ整備士の計算にしては、上出来よ。……摩耗率から逆算しても、10枚あれば帰還プロトコルは維持できる。……あたしたち、……帰れるわよ。……この地獄から、生きて……っ!」
希望。
その甘美な二文字が、熱風に焼かれ続けたメイの心に、冷たい水のように染み渡っていく。
あと少し。あと少し進めば、この「嵐の目」の中心にあるはずの施設に辿り着き、すべてが終わる。
だが。
アークが、サイクロンの内壁を完全に抜け、本当の「中心」へと躍り出たその瞬間。
フロントガラス越しに飛び込んできた光景に、メイの思考は、文字通り凍結した。
「……な、……何、……これ……?」
そこは、組織のデータベースにも、フェネクスが語った伝承にも、そしてメイの想像力の中にも、一欠片も存在しない「異界」だった。
七つの巨大な火山の中心。灼熱のマグマが噴き出し、熱風が吹き荒れるはずのその場所に広がっていたのは――見渡す限りの、透き通った**「氷の大地」**だった。
「……氷……? ……どうして、……こんな、火山の真ん中に……っ!?」
フラウロスの絶叫がスピーカーを割る。
アークの外気温計が、今度は狂ったようにマイナス方向へと振り切れた。摂氏400度の地獄から、瞬時にマイナス100度の極寒へ。あまりの温度差に、アークの装甲表面を覆っていた溶岩の飛沫が一瞬で凍りつき、パキパキと不気味な音を立てて砕け散っていく。
だが、真の絶望はその先にあった。
ドォォォォォォォォォォンッ!!
漆黒の空から、巨大な「蒼い雷」が氷原へと突き刺さった。
それは自然の落雷などという生易しいものではない。数万ボルトのエネルギーが、氷の大地を縦横無尽に駆け巡り、幾何学的な模様を描きながらアークへと迫ってくる。
氷原のあちこちには、その雷撃を浴びて「凍結」したまま砕け散った、巨大な機械の残骸が無数に転がっていた。それはクロノスの要塞さえも子供騙しに見えるほど、巨大で、高度な、旧時代の未知の機動兵器たちだ。
「……組織のデータに……なかった、わけだわ……」
フラウロスの声から、すべての生気が抜け落ちるのが分かった。
「……みんな、……ここへ着く前に、……あの熱と嵐で全滅してたから……。……この『氷の雷撃平原』の存在を、……誰も、……誰も知らなかったのよ……!!」
計算外。
あまりにも残酷な、世界の「バグ」のような景色。
10層の装甲があれば帰れる。そんな希望は、この未知の寒冷地帯と、容赦なく降り注ぐ雷鳴を前にして、一瞬で塵へと帰した。
氷原の摩擦係数はゼロに近い。アークの無限軌道が空転し、コントロールを失いかける。
そこへ、空を割るような巨大な蒼い閃光が、アークの目鼻の先を直撃した。
「――メイッ!! 下がれ!!」
アスタロトが叫ぶが、もう遅い。
雷撃の余波がアークの電子系を貫き、計器盤が一斉に火花を上げてショートする。
「……あ、……あぁ……、……嫌だ、……嫌だよ……っ!!」
メイは操縦桿を握りしめたまま、ただ震えることしかできなかった。
熱を凌ぎ、嵐を抜け、ようやく辿り着いた「嵐の目」。
そこに待っていたのは、ゼロの微笑みでも、世界の修復でもなかった。
ただ、すべてを凍てつかせ、焼き尽くす、静寂の死の平原。
アークの残存装甲、10層。
だが、その数字に、もはや何の意味もなかった。
帰還の可能性は、目の前の氷の壁にぶつかり、粉々に砕け散ったのだ。
「……ゼロ……さん……。……あなたは、……こんな、……こんな地獄に、……いたの……?」
メイの嗚咽を塗りつぶすように、巨大な雷鳴が氷の大地を震わせた。
後戻りはできない。
けれど、前へ進む術も、今のメイには、見つけられなかった。
ご愛読ありがとうございました。
フェネクス様の「ベクトル操作」による守護、そして10層の装甲を残しての嵐の突破。一瞬だけ見えた「帰還」への希望は、中心部に広がる異様な光景によって無慈悲に打ち砕かれました。
火山の中心に広がる氷原と、空を裂く蒼い雷鳴。
次回、第95話「絶体絶命!氷原の放電地獄」。
機能停止寸前のアークに、かつてない試練が襲いかかります。




