表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
36/44

一時外出

十二月の中旬の朝、いつもより一時間早く病院に着いた。


前夜にお母様へ電話を入れてあった。少しご相談したいことがあります、とだけ伝えた。お母様は理由を訊かず、先生にもお声がけしておきます、と答えた。


一階のロビー、観葉植物の鉢の脇にお母様が立っていた。グレーのコートの肩に外の光が薄く乗っている。私を見て小さく頷く。私も頭を下げた。


面談室は二階の奥。白い壁、机一つ、椅子四つ。東向きの窓から十二月の朝の低い光が机にまっすぐ届いていた。真ん中に紙コップが三つ。湯気がまだ立っている。


主治医が後から入ってきた。白衣の前ボタンを留め直しながら軽く会釈をし、椅子に座って膝の上で両手を組んだ。


「お母様。先生。一日だけ、透さんを外に連れ出してもいいでしょうか」


お母様が目を見開いた。先生は書類に目を落とした。


「彼がよく行っていた場所が、いくつかあります。クリスマスイブの日に、一度だけ、彼と一緒に辿りたいのです。車いすで一日。無理はさせません」


沈黙が机に降りた。耳の奥で、自分の心拍が一度、はっきりと鳴った。先生が最初に動き、ペンを書類の上に置いた。


「身体機能は安定しています。一日程度の外出であれば問題ないです。ただし車いすは医療用のものを。毛布を厚めに」


「ありがとうございます。移動は、介護タクシーを手配します」


お母様が頷く。「分かりました。私と夫もご一緒します」、そう言いかけた。


私はお母様の顔を見た。お母様もこちらを見た。


「お母様。申し訳ないのですが、彼と二人だけで辿りたいのです」


お母様が息を止めた。


目を逸らさなかった。逸らせば終わる。お母様は長い間、私の顔を見ていた。襟もとに置いた手のひらの下で、首筋の脈が一定の速さで動いていた。湯気が少しずつ薄くなっていく。


「桜井さん」


お母様がゆっくりと口を開いた。


「この外出は、いい方向にいくと考えていいのよね」


「はい」


自分の声がひどく小さく聞こえた。それでも目は逸らさなかった。


お母様は一度目を伏せた。紙コップの縁に視線が留まる。コートの裾をひとつ握り直す動きが、襟元の布の音をかすかに立てた。ゆっくり顔を上げ、小さく頷いた。


「分かりました。桜井さんにお任せします。息子のことを、お願いします」


机に額がつくほど頭を下げた。顔を上げかけて、もう一度、お母様の方に視線を戻した。


「もう一つ、お願いがあります」


声が少しだけ掠れた。


「一年前の秋に、私が透さんに編んだ、濃紺のマフラーがあります。ご自宅の引き出しか、どこかに、もし残っていましたら、当日、お持ちいただけないでしょうか。首元に、巻かせていただきたいのです」


お母様は数秒、私の顔を見たあと、小さく頷いた。


「探しておきます。あの子の机のいちばん下の引き出しに、確か、しまってあったと思います」


「ありがとうございます」


もう一度、頭を下げた。先生が「外出申請の書類をお渡ししておきます。日程が決まりましたら看護師にお申し付けください」と低く言い、書類の欄に日付と名前を書き入れた。


顔を上げたとき、湯気はもう上がっていなかった。誰も口をつけていないお茶の表面に、薄い膜が張りはじめていた。十二月の朝の低い光が、机の上のお茶に差していた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ