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帰省

風が枝の上で一度だけ鳴った。それきり、何の音もしない。


目を開けた。手のひらに何かが抜けていく感触はなかった。掌の温度にも、肩の重さにも増減はない。差し出したつもりのものが、どこにも持っていかれていなかった。


賽銭箱の縁の霜の冷たさだけが手の甲に戻ってきた。傍らに、いま、誰もいない。


もう一度手を合わせ直そうとして、やめた。差し出すものの形が、まだ私の側で揃っていない。頭を下げ、参道に向き直った。


砂利を踏む足音が、行きと同じ間隔で帰り道に並んだ。並んでいる、と気づくたびに、半歩、足が重くなった。駅までの坂を下りるあいだ、コートの裾が一度だけ枯れた紫陽花の枝先に触れた。枝先のほうが乾いた音で鳴った。


帰りの電車の窓に、自分の顔が映っていた。眉のあたりにも、口元にも、行きと違う線は出ていなかった。窓の向こうを、田の畔の枯れた色がひと続きに流れていった。改札を出てすぐの公衆電話で病棟に繋いでもらい、夜勤の看護師の声に、ご容態に変わりはありません、と告げられた。受け取られなかったのではなかった。届いていなかったのだ、と思った。


あの読みを、祖母自身はどちらで読んでいたのか。あの神社で、祖母自身が何かを差し出した人だったのか。聞きに行かなければならなかった。台所横の壁の十二月の升目で、私が指先で止めた週末のますが日ごとに近づいてきていた。


***


翌週の土曜日、昼前の在来線に乗った。年末まで一週間ほどあった。電話で「今度の土曜、帰っていい?」とだけ告げた。母は少し置いてから「うん。待ってるね」と答えた。


終着駅で、母が改札の手前に立っていた。栗色のコートの肩に、年の暮れに少し早い空気が降りていた。「お帰り」「ただいま」。母の鞄から買い物の袋が覗き、蜜柑の薄皮の匂いがひと粒ぶんだけ袋の口から立っていた。


家までは子どもの頃から同じ道だった。父は居間でテレビを見ていた。「最近、どう」「うん、変わらず」。母はそれ以上聞かなかった。透の話も、病院の話もしない。私が言わないものを、母は聞かないでくれた。炬燵の上の籠から蜜柑を一つ取り、薄皮まで剥いてから口に入れた。子どもの頃からの癖で、母はもう何も言わない。


夕方の早いうちに簡単な夕食を食べた。皿洗いを少しだけ手伝って自分の部屋に上がろうとしたとき、母が台所から声をかけた。


「詩織。ちょっと、いい?」


母が先に立って仏間へ歩いた。襖を開け、座卓の角のスタンドを点けた。黄色い光が座卓の木目を低く浮かせた。仏壇の脇の畳に、いつものように桐箱(きりばこ)が置かれていた。母は仏壇の前で線香立ての位置を指先でわずかに直し、いつもより一拍長く手を動かしていた。母は腰を下ろし、両手で箱を持ち上げて座卓に置き直した。


「これね、おばあちゃんの。ずっと、こちらで預かっていたんだけれど。……あなたに、渡しておこうと思って」


「ずっと」と「あなたに」のあいだに、機能ではない短い間が空いていた。母の声は普段の高さだったが、最後の音だけがほんのわずか低いところに落ちていた。「そのほうが、いい気がして」と母は付け足し、それきり言葉を止めた。続きを言わずに、母は桐箱の蓋を、指先で一度だけそっと撫でた。


「うん」


仏間に上がる前、母は皿洗いの手を一度止めてエプロンの紐を結び直していた。今夜と母は決めたのだ、と遅れて気づいた。初夏のある日の電話で、私は透のことをほんの少しだけ母に話した。母は受話器の向こうで一度だけ受話器を持ち直し、それから「うん」と短く返しただけだった。あれから半年、母がこの箱の置き場所を少しずつずらして考えていたことが、座卓の上の重さの先にあった。


私は両手を出した。母は桐箱をゆっくりと手のひらに置いた。思っていたより軽い重さが乗った。中の物の少なさを、箱の重みが先に教えていた。手が離れたあと、母は自分の指を一度握り直し、エプロンの腰で親指の腹を二度こすり合わせた。長く抱えていた重さを自分の手の側から振り払うような動きだった。


「ありがとう」


母は頷いて、襖の向こうへ戻っていった。スタンドの黄色い光が、桐箱の蓋の角だけを切り取っていた。


仏間に残った。家が寝静まる音が降りてくる。父のいびき、冷蔵庫のモーター音。十二月の半ばの夜は、まだ除夜の鐘の用意もなく、外の道は静かだった。


手の冷たさを確かめた。震えてはいない。線香の薄い匂いが座卓まで届いていた。


祖母の遺影がいつもの位置にあった。中学生の夏祭りの夕方の、穏やかな笑顔。線香を一本立て、両手を合わせた。煙がまっすぐ天井へ細く伸びていった。


「おばあちゃん。これから、開けるよ」と、声には出さず心の中で呟いた。


桐箱に両手を添えた。爪の縁で蓋の四隅を順に押さえ、桐の合わせ目を一度なぞった。木の細かな縦目が、爪の先に薄く返ってきた。


生成りの布の縁を持ち、ゆっくり外した。蓋に、祖母の指の薄い跡が残っていた。私の指より少し細い跡だった。その上に、押し当てずに、ただ指を重ねた。


左手首の文字盤に、右手の指先が一度だけ触れた。一度深く息をした。蓋を開けた。桐の合わせが薄い軋みをひとつ鳴らした。古い紙の乾いた匂いが、線香の香りに薄く混じって立ち上る。中には、折りたたまれた便箋が一通と、小さなお守りがひとつ。


先にお守りに手が伸びた。指先がかすかに震えた。両手で取り出した。長い年月のぶんだけ薄く沈んだ手触りだった。白地は古い和紙のような薄黄に、紺の絹紐は灰色まで落ちている。布の縁から、古い香袋のような甘さの混じった匂いがした。


表に紺糸の刺繍がわずかに残っていた。色は抜けかけ、糸の払いの先は布のなかへ溶けかけている。それでも字面の輪郭はかろうじて追えた。一画の止め、払いの角度、横画の長さの比。掌の上で刺繍の位置に親指を当てた。糸の凹凸は、目で読むより先に指で読まれた。


()()()()()字だった。


一年前の十二月二十四日の夕方、透が「これ」と差し出してきた白地に紺の紐の小さな包み。私のコートの右のポケットの内側に、いまも入っている同じ意匠。輪郭の取り方も、払いの角度も、同じだった。


息を止めた。あの神社だ、と心の中で確かめた。私と透が言い伝えを口にしたあの境内に、祖母も立っていた。手紙を読む前に、物の側が言葉より先に答えていた。


お守りを座卓の角に置いた。次に便箋を両手で取り出した。紙は長い年月のぶんだけ薄く柔らかくなっていた。表書きはなく、折り目の縁がほんの少し黄ばんでいた。


折り目をゆっくりと開いた。祖母の字で、私の知らない昭和の月日がいちばん上に書かれていた。字は晩年のものより若く、力があった。一画ずつの止めに、迷いのない筆の置き方が残っていた。


——私は、祖母が知っていたことを知ろうとしていた。


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