病室
六月の最初の週の土曜日の朝、私はいつもより十五分早く家を出た。
大学病院の自動ドアが開いた。消毒の匂いが、五日前の夜と同じものを薄くして降りてきた。受付で面会の用紙に名前を書く。「織」の糸偏でペン先がわずかに止まった。
「四階、東病棟の四〇八号室です」
梅雨の合間の光が、東病棟の廊下の突き当たりから白く斜めに入っていた。四〇八号室の半分すりガラスの扉に「瀬戸 透」の名札。引手に手を伸ばす。扉を引いた最後のところで、車輪のレールが低く鳴った。
病室の空気は廊下より温かかった。消毒でもリネンでもない薄い匂いが立っている。体温が長く同じ場所に置かれていたときの匂いだった。朝の光が東側の窓からベッドの足元まで斜めに届いていた。光のいちばん下に、彼が横たわっていた。
瀬戸さん、と思った。丸椅子の脇で足が止まった。
顔は少し痩せていたけれど、顔色は悪くなかった。睫毛は動かない。閉じた瞼の形がいつものとおりにそこにあった。眠っている、と言われれば信じてしまいそうだった。計器が低く鳴った。短く、もうひとつ同じ高さで続いた。
「桜井さん」
とうしろから声がかかった。彼のお母様が薄い水色のカーディガンを肩で揃えて立っていた。あの夜の皺よりは肩の高さが少し戻っていた。
「おはようございます」
***
担当の医師が扉をノックして入ってきた。説明はナースステーションの脇で三人、立って受けた。
「脳にも心臓にも、検査の数値の上では異常がありません。ですが、お目覚めにはならない。症例として、極めて稀です」
「同じような症例は、これまでに」
とお母様が低い声で聞いた。
「文献の上で似た報告は、いくつか。ただ、原因の特定までは、どれも至っていません」
「目は覚めるんでしょうか」
「覚めるはずだ、と申し上げたいです。ですが原因がわからないので、いつ、とは申し上げにくくて」
私はそれ以上の質問をしなかった。医師の白衣の襟のいちばん下のボタンを見ていた。
廊下でお母様と二人になった。
「私、午後から夫の用事でいったん戻らなくてはならなくて。もし、ご無理でなければ、少しだけ見ていていただけますか」
「はい。もちろんです」
***
病室に戻り、椅子をベッドの左側に引き寄せた。布団の上の彼の左手は、指が軽くひらかれたまま止まっていた。爪は清潔に揃えられている。手の甲の血の色が、自分の手の甲よりほんのわずか引いていた。両手を膝の上に揃えた。彼の左手と私の両手のあいだに、シーツの白がひと握りぶん挟まっていた。
右手をわずかに持ち上げかけて、その白の縁で止めた。指先と彼の小指のあいだに白い幅が残った。詰めなかった。
梅雨の合間の光はシーツの折り返しの角まで進んでいた。
一時間ほど座っていた。看護師さんが点滴の袋を替えた。手の運びに継ぎ目がなかった。私も立ち上がった。
「また、来ます」
と声に出した。思ったよりも小さく出た。自動ドアを出ると、六月の午前十一時の光が上着の襟に当たっていた。改札の手前で足が止まった。
五月の終わりの夜、ソファで打って消した一行が頭の隅に上がってきた。画面を伏せた指の冷たさが、襟の光の手前に薄く戻ってきた。送っていたとして何かが違っていたかは、わからなかった。
——明日も、来よう。
来る理由はない。来ない理由もない。明日も来よう、それだけを決めた。




