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空洞

マンションのエントランスを越えた。十二月二十四日。午後の遅い光が左の頬に当たり、すぐ冷気に薄まった。駅までは走らなかった。頭の中でひと項目ずつ置いた。四時間後。交差点。西側の歩道の植え込みの陰。青信号の二回目。歩道の角から走り出してくる紺の上着の小さな背中。両腕で胴をすくい上げて、自分の側へ引く。


内ポケットの右にお守りが入っていた。紙の袋の角の感触を、歩きながら一度上から押さえた。


***


西側の植え込みの陰に立った。日が傾いた。店先に電飾が点り、遠くで誰かが歌う声が低く流れていた。歌詞は聞き取らないままにしておいた。向こう側の横断歩道の手前に、薄いベージュの色がひとつ立った。信号が青に変わった。彼女が最初の一歩を白線の上に置いた。


同じ瞬間、こちら側の歩道の角で、紺の上着の小さな背中が走り出した。わずかに遅れて母親らしき女の声が短く名前を呼んだ。子どもは縁石へまっすぐ向かっていた。植え込みの陰から半歩で出た。走り抜けようとする胴を両腕ですくい上げ、自分の側へ強く引いた。子どもの足が宙で空転した。背中の側で空気が大きく揺れ、後ろから灰色の塊が頬の脇を横に長く通り過ぎた。


——トラックだった。


風圧がジャケットの裾を押し上げた。荷台の角が向こう側の信号機の方へ消えた。腕の中で子どもが一瞬だけ固まり、それから息を吸い直す音を立てた。母親が駆け寄ってきて、何度も頭を下げながら子どもを受け取った。


横断歩道の白線の上で、彼女は途中で立ち止まっていた。両手を口の前で重ねたまま、こちらを見ていた。


——()()()


その実感は、思っていたほど深い色をしなかった。


***


「透くん」


と彼女が言った。声はわずかに上ずっていた。


「いまの……」

「うん」


と返した。


「間に合って、よかった」


彼女はひと呼吸こちらの顔を見て、首を傾げた。


「びっくりした」

「ごめん」

「そっち、行く」


横断歩道の残りの二歩を、彼女がゆっくりと歩いてきた。ガードレールに彼女の左手が軽くついた。両腕の内側に、子どもの胴を抱えた重みがまだ残っていた。


——彼女は生きている。救えた。


形は揃っていた。揃っていることに違和感だけが薄く残った。彼女がそこにいる事実と、それを身体の側が受け取る速度のあいだに、いつもなら勝手に渡されていた橋があった。今日はその橋が降りてこなかった。


——疲れているのかな。


軽さの理由は深くは追わなかった。追えば輪郭が立ち上がってきそうだった。立ち上がってほしくなかった。


***


「予約、間に合うかな」


彼女が腕時計に目を落とした。


「うん、行こう」


予約していた店の奥の席に向かい合った。運ばれてきた皿から、湯気の細い柱が二つ、テーブルの上で立った。


彼女が話した。卒論の進捗。ゼミの先輩がレジュメを直してくれた話。話の終わりの区切りが、いつもより少し長く置かれた。相槌を返した。「うん」「そうなんだ」「よかったね」。並べる順番は身体が覚えていた。左の眉の角度、右の頬の薄い影、唇の端の上がり方。一つ一つは全部知っていた。点と点のあいだに、いつも降りてくるはずの線が、今日は降りてこなかった。


***


ふと、内ポケットに手を入れた。指の腹に紙の袋の角が当たった。


「あ、これ」


思っていたより軽い声が出た。紙の袋を取り出し、テーブルに置いた。


「これ、その、今日の夕方に、渡そうと思っていて」


「思っていた」の語尾が過去形のまま、いまの椅子の上に置かれた。直しようがなかった。


彼女が両手で受け取って開けた。中から白地に紺の紐のお守りが出てきた。彼女の指の動きが止まった。


「これ、おばあちゃんの、神社の」

「うん。あの夏祭りの夜の後、もう一度、一人で行ってきた」


彼女がお守りを胸の前で抱えた。声がいつもより半音だけ低くなった。


「ありがとうございます」

「大事にします」


抱えた所作を目で受け取った。掌で受け取る感覚は、降りてこなかった。紙の袋の音がテーブルの上で短く鳴って、それきりだった。


***


「透くん」


彼女が一度呼んだ。


「ん」

「透くんは、いま、ちゃんと、ここに、いますか」


咎める声でも、怯える声でもなかった。ただ、たしかめようとしていた。


「……いるよ」


返答に少し遅れた。「いる」も「よ」も、自分の声の中央には届かなかった。


「そうですか」


彼女は、それ以上は訊かなかった。目の奥に、何かをたしかめようとする色が立ち上がりかけて、すぐに引いた。


会話は、そのあたりで途切れた。いつもなら腰を上げそびれる時間を、今日はどちらからともなく早めに切り上げた。


***


店を出ると、日はとうに落ちていた。よく晴れた冬の夜で、空気が乾いて澄んでいた。改札の前で立ち止まった。


「じゃあ、また」

「うん。また」


彼女が軽く頭を下げた。「気をつけて」も「連絡する」も、いつもならいちばん近いところにあったはずだった。今日はその棚の上に何も載っていなかった。彼女は両手で抱えていたお守りをコートのポケットにしまった。紙の袋ごと、ゆっくりと。袋の角がポケットの縁を一度撫でた。


彼女は生きている。何度も自分に確認した。なのに、揃っているはずの輪郭が揃いきらなかった。


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