反復する朝
——これを捨てます。
——愛する君を消します。
——だから、戻してください。
砂利の上に両膝をついていた。
拝殿の前、賽銭箱の正面に半歩ぶんの距離。冷気が首筋から背中へ落ち、息は白く、思っていたより短い間隔で出る。白さは、出るそばから薄くなった。鳥居の向こうから風が下りてきた。首の後ろから入って、背中の内側で止まらなかった。湿った雪が、重く落ちはじめていた。袖の上で一粒、すぐに溶けた。
胸の前で揃えた両手の腹に、小さな守り袋の角が当たっていた。白地に紺の紐。指先はもう感覚がない。袋の表に走る刺繍の字を、もう一度だけ親指の腹でなぞった。凹凸はもう、指の腹に返ってこなかった。なぞった気がするだけだった。
あの事故の手前に、戻る。もう一度。何度目かはもう数えていない。それでも、これが最後だと自分でわかる。
目を閉じた。砂利の音が、消えていく。
——愛する君を救い出す。
***
桜が散り始めた頃に、僕は図書館に通うようになった。
卒研で参考にする本の合計額に怯み、キャンパスの隅のあの図書館を思い出した。それだけのことだった。
平日の夕方、研究棟を抜け、銀杏の若葉が並ぶ細い坂を下る。途中、右手の指先が無意識に空中で二度ノックの動きをする。シャープペンの芯を半分押し戻す、考えごとの合間の手癖だった。
古い建物の自動ドアだけが妙に新しく、入ると木の床が足の下でかすかに軋んだ。布張りの背の厚い物理の本が並ぶ棚は二階の奥。同じフロアにいるのは別の学科の学生か、論文をめくる年配の利用者で、僕の所属の人間とすれ違うことはほとんどなかった。
何度目かの来館のとき、民俗学のコーナーの棚の前に、長い髪を後ろでひとつに結んだ女子学生がいた。細い金属フレームの眼鏡をかけ、抱えた本のいちばん上に細い指が添えられ、表紙の縁を指の腹で一度撫でてから棚に戻す。所作の角に、急いでいない時間が流れていた。
何度通っても、その人は同じ棚の周りにいた。卒論の資料を集めているのだろう。彼女の所属はキャンパスの反対側らしく、普段の動線ではすれ違わない。
ある夕方、棚と棚のあいだですれ違うとき、ふいに目が合った。
通路の幅は大人ひとり分しかなく、体を一段引いて壁の側に寄る、その動作の途中だった。彼女が顔を上げ、視線が一度だけこちらに止まり、すぐに本の背の方へ落ちた。耳の上のあたりが熱くなるのを感じて、僕も棚の文字を読むふりをした。彼女はほんの少しだけ頭を下げ、結われた髪の先を肩の上で揺らして通り過ぎた。
通い始めた頃に満開だった桜は数日のうちに散り、坂の途中の自転車のかごに薄く積もるようになった。何度目かの帰り際、二階の踊り場で彼女が立ち止まっていた。僕の肩のあたりに、桜の花びらが一枚貼りついていた。
「あ」
と、彼女は小さく言った。
指先で花びらを摘み上げ、抱えた本の表紙の上を一度滑らせてから、こちらに差し出した。受け取ろうと開いた僕の掌の上に、花びらはそっと置かれた。指は触れなかった。彼女の指先が離れた一瞬、花びらは濡れたように見え、それから乾いた。
「すみません」
「いえ」
顔は上げなかった。前髪の下で目を伏せたまま、口の端でほんの少しだけ笑った。そう見えた。確信は持てない。彼女はもう次の棚の方へ歩き出していて、結われた髪の先が肩の上で短く揺れた。
階段の方から軽い足音が近づいてきて、
「桜井さーん、もう行く?」
と、同じ年頃の女子学生の声がした。彼女は短くうなずき、二人分の足音が踊り場の向こうへ遠ざかっていった。——桜井さん、と心の中でなぞった。それ以上のことは何も知らなかった。
足音が階段の角を曲がってから、掌の上に目を戻した。花びらは渡されたままの向きで、縁だけが少しめくれていた。視線を引き戻すのに、わずかに余計な時間がかかった。
翌週も、その次の週も、同じ時刻に同じ坂を下った。借りた本を返しに行くだけのことだった。それでも気がつくと、桜井さんの棚の前を通る順路を自然に選んでいた。
別の夕方、いつもの棚を抜けて階段の方へ向かおうとして、足の音を引いた。
民俗学のコーナーの棚の前で、桜井さんがわずかに足を止めていた。腕には古い口承伝承の本が一冊。視線はその本の上ではなく、棚の上から二段目のあたりに置かれていた。目蓋が一度伏せられ、また上がった。それだけだった。すぐに彼女はもとの方向へ歩き出し、長い髪の先が背中で短く揺れた。
背中を見られないうちに、別の通路へ折れた。
連休が明け、夜の風が少し緩んだ。窓の向こうで、桜の代わりに濃い緑が膨らみ始めていた。




