第十六話 越えてはいけない線
社長室の空気は重かった。
佐伯は落ち着いた表情で座っている。机の上には外部メーカーの提案書。分厚い資料。更新計画、投資回収予測、パッケージ化された安心。
「内製改善は不確実です」
佐伯は淡々と言う。
「短期数字を戻すと言いながら、追加投資と独断行為が発生している。統制が取れていない」
“独断”。
湊の試験的センサー設置のことだ。
星崎は黙って聞いている。
「外部更新なら、責任は明確です。契約で縛れる。人の判断に依存しない」
「人を信用していないのか」
星崎は静かに問う。
「信用と依存は違います」
佐伯は即答する。
「会社は仕組みで回すべきです」
その通りだ。
だが仕組みは、人が作る。
「内製が成功すれば更新の必要は薄れる」
星崎は資料を閉じる。
「だから止めたのか」
一瞬だけ、佐伯の目が揺れた。
「会社のためです」
「誰の会社だ」
静かな声だった。
「市場か。現場か。それとも契約先か」
沈黙。
「半年待つ」
星崎は言う。
「結果が出なければ更新を検討する。だが今は戻さない」
佐伯は立ち上がる。
「失敗した場合、責任は?」
「私だ」
星崎は迷わない。
佐伯は何も言わず、部屋を出た。
窓の外、灰色の空が広がる。
経営もまた、揺れている。
その日の午後。
生産技術室に監査部が入った。
「無許可で制御系に変更を加えたと報告がある」
冷たい声。
湊の手が止まる。
「試験的ログ取得です。ライン停止はしていません」
「規程違反だ」
空気が張り詰める。
吉山は立ち上がる。
「私の責任です」
「承認したのか」
「黙認しました」
監査担当が冷たく言う。
「独断を許す管理は問題だ」
その言葉が、胸の奥に刺さる。
湊が何か言おうとする。
「やめろ」
吉山が低く止める。
「私が判断した」
監査が去ったあと、室内は静まり返る。
「すみません」
湊が言う。
「僕が勝手に――」
「違う」
その瞬間、吉山の声が強くなる。
「勝手にじゃない」
拳が机に落ちる。
乾いた音が室内に響く。
初めてだった。
「揺らぎを守ろうとしただけだ」
声が震える。
「理想論だと? 抽象的だと? 現場が削られているのを見ていないくせに」
息が荒い。
アンガーコントロールは、外れかけていた。
湊は驚いた顔で立ち尽くす。
吉山はゆっくりと目を閉じる。
深呼吸。
長い沈黙。
「……悪い」
低く言う。
「感情で動けば、線が歪む」
拳をゆっくり開く。
怒りは正しい。
だが使い方を間違えれば、壊す。
「結果を出す」
それだけを言う。
「三号機で証明する」
湊は静かにうなずく。
灰色の工場は揺れている。
社内も揺れている。
越えてはいけない線がある。
その線を守るために、引いた線がある。
戦いは、もう隠れていない。




