第十四話 抑えている火
レトロフィット計画は、生産技術課の最後の賭けだった。
老朽化した三号機を丸ごと入れ替える予算は出ない。だが制御系とセンサー系を更新し、摩耗予測と振動解析を高度化すれば、揺らぎを数値で管理できる。無理を前提にしない安定化が可能になる。
湊が中心になってまとめた資料は、現実的で具体的だった。
「初期投資は抑えられます。停止リスクは三割低減。保全周期は最適化できます」
会議室で、湊は丁寧に説明する。
吉山は横で腕を組み、資料を見守っていた。
役員の一人が口を開く。
「今、そんな余裕はない」
声は穏やかだが、結論は早い。
「短期で数字を戻すと言っているのに、追加投資か」
別の幹部が続ける。
「レトロフィットは理想論だ。まずは現行設備で回せ」
“理想論”。
最近よく聞く言葉だ。
湊は言葉を選びながら反論する。
「現行設備で回すための投資です。揺らぎを管理できれば――」
「揺らぎ、揺らぎと」
幹部の声が遮る。
「そんな抽象的なものに金は出せない」
会議室が静まる。
吉山の胸の奥で、何かが軋む。
抽象的?
摩耗限界で止まった三号機は抽象だったのか。
残業で削られた現場は抽象だったのか。
だが顔には出さない。
「具体的な回収計画を提示します」
吉山は淡々と言う。
「半年で効果を出す」
「半年で結果が出る保証は?」
「保証はありません」
正直に言う。
「だが、やらなければ同じことを繰り返す」
幹部は椅子に深く座り直す。
「今は数字を戻すのが先だ。余計な波は立てるな」
余計な波。
線を引くことは、波を立てることでもある。
会議は打ち切られた。
予算は凍結。
廊下に出た瞬間、吉山の足が止まる。
「すみません」
湊が小さく言う。
「僕の説明が足りなかった」
「違う」
吉山の声が、わずかに低くなる。
怒りではない。だが、抑えている。
エレベーターホールの窓から灰色の空が見える。
胸の奥で、言葉にならない感情が揺れる。
なぜ見えない。
なぜ分からない。
削られているのは数字ではない。余裕だ。
「理想論だと?」
小さく吐き捨てる。
湊が驚いた顔をする。吉山が声を荒げることは滅多にない。
「……失礼しました」
すぐに整える。
アンガーコントロールは、若い頃に叩き込まれた。感情で動けば線が歪む。
だが今日は、危なかった。
生産技術室に戻ると、机に拳を置く。
怒鳴ることも、机を叩くこともできる。だがそれは違う。
守りたいのは理屈ではない。形だ。
「戻したら、また止まる」
低い声で言う。
「分かっています」
湊はうなずく。
「でも予算がなければ」
「やる」
「どうやって」
吉山はゆっくり息を吐く。
「数字を戻す」
それしかない。
短期で成果を出し、信用を作る。その信用で、線を太くする。
怒りを使わない。
怒りは燃えるが、残らない。
夜、工場を歩く。
揺れは続いている。
灰色の空の下、線は細い。
だが、消えてはいない。
吉山は拳を握り、ゆっくりと開いた。
抑えている火は、まだ内側で燃えている。




