第十二話 線の先
社長室に呼ばれたのは、夜だった。
ほとんどの社員が帰った後の時間。成形棟の灯りはまだ一部が点いている。吉山はネクタイを整え、静かに扉を叩いた。
「入れ」
星崎の声は低い。
室内は明るすぎず、机の上にだけ灯りが落ちている。資料の山は減っているが、緊張は減っていない。
「座れ」
吉山は椅子に腰を下ろす。
しばらく無言が続く。
「半年と言ったな」
「はい」
「本気か」
「本気です」
間を置かずに答える。
星崎は吉山をじっと見る。責める目ではない。測る目だ。
「戻せば楽になる」
「はい」
「戻さない理由は」
問いは単純だ。
吉山は少しだけ視線を落とす。
「戻せば、また同じことが起きます」
「同じこと?」
「揺らぎを隠す。残業で帳尻を合わせる。慣らしを削る。完璧な数字を作る。その繰り返しです」
星崎は腕を組む。
「数字は戻る」
「短期は」
「株価も戻る」
「はい」
「それでも戻さない?」
「戻しません」
迷いはない。
星崎は窓の外を見る。灰色の工場が広がっている。
「現場は反発していると聞いた」
「しています」
「経営も揺れている」
「承知しています」
「それでも進む?」
吉山はまっすぐに答える。
「進みます」
短い沈黙。
「なぜだ」
経営者としてではなく、一人の人間としての問いだった。
吉山は息を吸う。
「守りたいからです」
「何を」
「壊れない形を」
言葉は静かだが、揺れていない。
「定時までが実力だと、若い頃に言われました」
星崎の目がわずかに動く。
「無理を前提にした成果は、続きません。現場が削られ続ける限り、会社は持ちません」
「理想論だと言われたら」
「理想です」
吉山はうなずく。
「ですが、理想を捨てた瞬間に、線は消えます」
星崎はしばらく黙っていた。
やがて立ち上がり、窓の前に立つ。
「若い頃、私は短期数字を守った」
静かに語り始める。
「評価は上がった。株価も上がった。だが一年後、ラインは崩れた」
吉山は初めてその話を聞く。
「人が辞め、設備が壊れ、信用を失った」
星崎は振り返る。
「戻さない判断は、楽ではない」
「はい」
「市場は理解しないかもしれない」
「承知しています」
「半年で戻せなければ?」
「退きます」
再びその言葉。
星崎はゆっくり首を振る。
「退くのは最後だ」
静かな声だった。
「まずはやり切れ」
その言葉は命令ではない。託す響きだった。
「揺らぎを含んだままで安定させろ。できるか」
吉山は一瞬だけ目を閉じる。
「やります」
短い返答。
星崎はうなずく。
「私は外を守る」
「ありがとうございます」
「礼はいらない。半年後、結果で話せ」
吉山は立ち上がる。
扉に手をかけたとき、星崎が言う。
「線は一人では引けない」
吉山は振り返る。
「湊を使え」
若い名前が出る。
「彼は揺らぎを読む目を持っている」
「分かっています」
「ならいい」
吉山は一礼し、部屋を出る。
廊下は静かだ。
灰色の工場は夜の中で揺れている。
線は、まだ消えていない。
むしろ、少しだけ太くなった。




