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四章

四章


 春の朝は、楽しい。

 机のカレンダーを見ると、四月一日で、新しい一年がはじまるんだな、という感じがする。

 ぼくは、さわやかな気持ちで朝ごはんを食べて、お母さんに大学の話を切り出す。

「こらこら、まだ、ねぼけてるの?」

 大学という言葉を聞いて、お母さんは笑いだす。そして、わけのわからないことを言われる。意味がわからない。

「次は大学じゃなくて、高校でしょ?」

 ざあっ、と血の気が引いた。


 三月三十一日の次は、四月一日だ。

 ただ、ぼくの場合が、ちょっとみんなと違うところは、大学三年生の三月三十一日の次が、高校一年生の四月一日になっていることだ。

 ぼくは、時間移動には成功した。柚木先生のアドバイスどおりだ。

 ある意味、また、やり直しということだ。高校生活を、やりなおす。

 あとからわかったことだが、この世界も、ぼくの一番最初の高校一年生と同じように進んでいた。別に、ぼくが中学校の三年間で、自分の記憶にない新しい行動をした、なんてこともない。つまり、二度目の高校生活にチャレンジするのを、もう一回やれるということだ。

 このとき、ぼくは、また同じことをやるのか、めんどくさいなあ、と思ったけれど、また柚木先生や七瀬さんに会えるのがうれしかった。

 だけど、一カ月くらいして、目を覚ますと、次に高校二年生の秋に飛んでいた。

 別に、時間移動をしたいと思ったわけじゃない。

 高校一年生の夏から、高校三年生の冬に飛んでしまったあのときと同じように、ぼくは望んでもいないのに、また時間跳躍をしてしまった。

 そして、本当の恐怖は、ここから始まった。


 ぼくは、自分の時間移動能力が、コントロールできなくなっていることに気づいた。

 ある日、眠りについて、翌朝に目を覚ますと、別の時間に飛んでいる。別に移動したくもないのに。自分の意志で、自分の時間移動をコントロールできない。

 でも、もともと、コントロールなんて、できていなかったのかもしれない。

 いちばんはじめのタイムスリップだって、意図的に引き起こしたわけじゃない。時をこえたいと思ってはいたけれど、明確に時間移動の目的地を決められたわけじゃなかった。気づいたら、高校一年生の四月だっただけだ。


 それから、いろいろな時間を旅した。

 高校二年生の四月。

 桜を見て、「すごい、きれい、かわいい、すてき」と言った女の子たち。

 その女の子たちに祝福あれ。

 その子たちこそ、「すごい、きれい、かわいい、すてき」だ。

 その女の子たちは、自転車で三人くらいで走り去っていく。

 美しい。

 秋。

 秋はやっぱりさみしい季節で、春ほどではないけれど、ぼくを不安に、情緒不安定にさせる。秋は、いつも、ぼくの胸をつかむ。

 とても、切ない気持ちになって、叫びたくなるし、だれかを抱きしめたくなるし、だれかに抱きしめられたくなる。月が出た夜は、特に叫びたくなる。

 秋の雨は冷たくて、ぼくは自信がなくなってゆく。さみしくなる。だれかに来てほしいと思う。体になにか巻き付けていないと寒くて眠れなくなってくる。もう夏じゃないから。

 色々な時間を旅しても、一番目の人生で経験した高校三年間の時間のどこかに落ちるようになっている。

 そして、過去は消えてしまう。

 何度目かの高校一年生で、何か、たとえば日記をつけていたとしよう。その次に、高校二年生に飛ばされても、ぼくの部屋には、その日記はない。そのときぼくがいる高校二年生は、日記を書いた高校一年生の延長としての高校二年生ではないからだ。

 断絶している。

 ぼくの人生はリセットされる。というよりも、つみあがらない。

 リセットされつづける。つみあがる時間は、もはやない。一回目の高校三年間という時間平面の上を、ランダムに踊り狂っている。

 ぼくは飛ぶ。

 高校一年生の春、高校二年生の冬、高校三年生の夏、高校三年生の秋、二年生の夏、一年生の秋、二年生の秋、一年生の冬、三年生夏、一年生夏、三年生秋、二年生夏、二年生春、一年生年生秋、こんな具合だ。

 すべてが独立している。

 ぼくはだれともつながっていない。

 ぼくが、過去からひきつげるものは、たぶん二つしかない。

 記憶と技能だ。

 前の人生で(というか、前の高校生活で)何をしたのかは、覚えている。たとえば、二番目の人生で美術部に入ったとか、そういうことは覚えているし、自分が受けた授業の内容も覚えている。

 それから、前の時間で習得した技能は、そのまま受け継がれる。絵の練習をしてうまくなったら、次の時間に飛ばされても、うまいままだ。

 たぶん、ぼくが武術を習えば、その技術は引き継がれるだろう。しかし、体力や筋力は引き継がれない。ぼくの肉体は、鍛えていない第一回目の高校生活のときの肉体に準拠する。

 記憶は引き継ぐと言った。しかし、人は忘れる生き物だ。

 記憶も、だんだん、わからない部分が出てくる。

 今が何回目の時間跳躍なのか、ぼくはもうわからない。

 プラトンだったっけ、文字を覚えると、記憶力が悪くなるといったのは。また、どこかの文化人類学者が、文字を持たない民族は、記憶力がとてもよく、メモなんか取らなくても言うことをちゃんと覚えていると言っていた。

 口伝というのも、案外しっかり伝わっている場合もあるのかもしれない。

 だけど、ぼくは駄目だ。十九世紀くらいの言い方なら、「文明人」であるぼくは、言葉を知ってしまっているから、記憶力がそんなによくない。

 時間跳躍のあとに、できるだけ今までの記憶をメモにして残そうとはしているが、それも限界がある。細かいところは、ぱらぱらと抜け落ちていく。

 断片的な記憶は残る。たまに、床に寝っ転がっていると、思い出す。ばらばらになった風景のかけらと、思考のきれはしが、ひょんなことから飛び出してくる。

 七夕、雨、美しい。

 七夕。漢字が美しい。

 だれかが笹を持っている。白いセーラー服。女の子たちのさんざめく声。男の子たちのはしゃいだ声。雨。七月の雨。

 ぼくは、何度か修学旅行緒に行った。時の繰り返しの中で、何度か修学旅行に行った。

 何度目かの学校祭。

 何度目かの卒業式。

 しかし、高校三年の三月三十一日を超えることは、ぼくにはできない。

 そして、高校一年の四月一日を超えることは、ぼくにはできない。

 つまり、中学生に戻ったり、大学生になったりすることが、ぼくはできない。

 それは、まるで、高校三年間という時間の檻の中に閉じ込められたかのようで、それにどことなくロマンチシズムを感じているぼくは、ちょっと頭がおかしくなってきているのかもしれない。

 時の牢獄、時間の箱庭、時で創り出された瀟洒な宮殿に封印されているわたし。

 そう考えると、なんだか少し笑いが出てくる。どんな状況でも、ユーモアは大切だ。たぶん。ユーモアとロマン。悪くない。

 そうそう、何度目かの席替えを、ぼくは体験したけれど、席替えは、とても楽しみなのだ。

 自分が見ている席替えは結果が変わるから。

 ぼくがある時代に飛ぶと、となりには、あの最初の三年間で、となりだった人が、やっぱりぼくのとなりに座っている。必ず。でも、席替えをすると、今まで見たことがない人が隣になる。みんなの席の配置も変わっている。

 ぼくがいることで、ある種のランダム性が発生しているのだろう。

 くじ引きの結果は、決まっているのではない。「新しい参入者」であるぼくがいるから、新しい試行としてのくじ引きが行われることになり、つまり、あたらしい結果がはじきだされることになる。

 だから、ぼくは、席替えが本当に楽しみなのだ。

 生きている実感が得られるのだ。「ぼくはちゃんと生きてるぞ!」という感じがする。ぼくは冗談を言っているのではない。

 自分がこの時間軸上にいて、世界を見ていることが、世界に影響を与えている。自分がいるのだから、それは一回目の試行ではありえず、まったく新しい、経験したことのない試行なのだと、席替えが教えてくれる。

 それは、本当に、心休まる話だ。


    *


 ある種の防衛機制だったのかもしれないが、ぼくは、パニックにならないかわりに、この現象について突き詰めて考えようとか、なんとかしようとか、そんなに考えてはいなかった。

 つまり、ぼくは、受動的に、ぽんぽん高校三年生の間を、時間跳躍していたわけだ。能動的に動かないことで、精神的消耗を減らしていた。

 だから、正直、いったい、実質的に、どれくらいの間、高校の三年間の中を漂流していたのか、わからない。覚えていない。

 もしかしたら、数年なのかもしれない。もしかしたら、数か月なのかも。それすらあいまいになっている。時間感覚が希薄化している。受動的に時間移動をしていく中で、いろいろなことを考えないようにしていたのも、理由のひとつかもしれない。いろいろなことを考えすぎて、神経が参ってしまうということが、ぼくにはあるから。また、そもそも、すでに神経が参っていたから、ストレスで記憶がうまくできなくなっていたのかもしれない。

 ぼくにとって、時間とは、1の次に2が来るようなものではなく、4の次に8があって、その次に1が来るようなものだった。

 ぼくは、自分の心の痛みやストレスに鈍感だ。

 だから、あんまり、このことをつらいとは思っていなかった。

 でも、本当は、つらかったのだと思う。

 うまく、感じられなかっただけで。

 時間が直線的に、1から2に流れるのではなく、スキップするみたいに、7から3にとんだりする流れの中では、今までに積み重ねてきた思い出を、だれとも共有することができない。そして、それは、さびしい。そのような生活は、一番目の高校生活、時間の檻の中をただよう前の高校生活に、ちょっとだけ似ていた。

 時間感覚が希薄化していたのには、このしんどさも関係していると思う。

 人間は、ストレスを感じると、時間感覚を失うこともあるようだから。

 もっとも、ぼくは、自分がストレスを感じているなんて、あんまり思っていなかったわけだけれども。


 もし、ちょっとした転機というものがあるとしたならば、それは、ぼくが不登校になったということだろう。

 不登校というか、ぼくは、学校に行けなくなってしまったのだ。

 急にがっくりと、心と体の力が抜けて、何もやる気になれなかった。心の中のどこかのスイッチが、ブツ切れてしまった感じだ。

 頭は、自分を動かそうとしている。しかし、心と体はいうことを聞かない。

 たぶん、ぼくの精神が、ちょっとした限界をむかえていたのだろう。

 でも、不登校といっても、ぼくは時間を飛び越えているので、一年生の十一月に寝込んでいたと思ったら、次に目が覚めたら三年生の六月だったりするのだから、まわりの人たちは、ぼくを不登校だとは思わなかっただろう。

 このころには、数日おきに時間跳躍が起こっていたように思うのだけど、そうなら、数日寝込んだくらいに思っていたに違いない。

 まあ、ぼくが時間をとびこえたあと、昔の、元の時間がどうなるのかは知らないので、なんともいえないのだけれど。元の時間は、跡形もなく消滅するのかもしれない。でも、平行世界として、元からいた自分が、この時間跳躍する自分の記憶を持たずに存在するのかも。あるいは、実は時間を飛び越えた時点で、ぼくは分裂していて、この飛び続けているぼくは、いくつもの時間分岐に別れた平行世界の中で、現在まで唯一、時間跳躍をし続けている人間なのかもしれない。

 ぼくとしては、このすべてが夢で、というか、今までのすべての現実が一種の夢で、催眠状態によって、夢がやっと現実のルールとやらにしばられるのをやめて、夢らしく振舞いだしたのだと、そう思いたい。

 とにかく、累計して、いったい、どれくらいの間、自分が立ち上がれなかったのか。その質問については、もう完璧にわからない。

 これほど精神が限界に近づくまでに移動してきた時間の合計は、たぶん長くて二年くらいだったと思う。

 でも、このあとの不登校期間のせいで、記憶が完全にぐちゃぐちゃになってしまった。

 一回目の時間移動と、その次くらいは記憶にあるが、それ以降は、うすらぼんやりとしたかすみの中にある。思い出せないし、よくわからないし、そもそも、「覚える」という行為を、当時の自分ができていたか、うたがいを持っている。

 つまり、「覚えたけれども、思い出せない」じゃなくて、そもそも、「頭の中に思い出を入れることができなくなっていた」のだと思う。

 覚えている力の崩壊。

 ストレスを感じると、記憶にもちょっと障害というか、ある種のダメージがある、という話を聞いたことがある。それは、防衛機制としての忘却や記憶の抑圧なのかもしれないが、いやなことを思い出しにくかったり、そもそも、ストレスを感じていたあたりの時代の記憶が思い出しにくかったり、そういうことが、あるそうだ。

 ぼくのも、そうなのかもしれない。

 だけど、あるとき、ふと、ぼくは立ちあがることができた。

 ずっと寝ていたから、気力が回復した、というのもあるんだと思う。

 ほんのちょっとだけ、何かしらのやる気、のようなものが出た。

 疲れ切っていた人がしっかり休むと、気力が回復してくるときがあるらしい。もちろん、それは全然本調子なんかじゃなくて、そこで完全回復したと勘違いして、またがんばりすぎると、すぐにぶっ倒れることになるそうなのだが。

 やる気のようなものがちょっとだけ出てきた、そのときのことは、ちゃんと覚えている。

 夏だった。何年生の夏かは、確認していなかった。

 やる気が出たついでに、散歩に出た。

 そして、思ったのだ。

 このまま、違う世界に行きたいと。

 よく知っている世界で、よく知らない世界。

 平行世界の、どこかひとつに飛びたいと。

 子供のころ、街にある角をひとつ曲がったら、そこが異世界につながっているかもしれない、と感じることがたまにあった。

 そういう感覚は、大きくなってからは、あまり感じていなかったけれど、そのときは、今までにないくらい強く、生まれてから初めてなんじゃないかというほど強く感じた。

 角を曲がると、本当に異世界に行ける。

 異世界に行ける感じがする、という「感じ」があまりにも強すぎて、「行ける感じがする」ではなく、「行ける」としか思えない。

 そんな精神状態に、なぜか一瞬、なった。

 次の角を曲がると、そこは秋だった。


 文芸部の部室は、部室棟にある。

 部室棟とは、部活のために建てられた、特別な校舎だ。今、校舎といったが、つくりは本当の校舎ほどしっかりしているようには見えないので、その呼び方は不適切かもしれない。

 多くの運動部は、体育館やグラウンドの近くに更衣室があり、そこが部活のための部屋として扱われている、という場合が多い。文化部と違って、部室の中で活動することがまずないので、更衣室ぐらいしか部屋を使うことがないのだ。よって、部室棟は、実質上、ほぼ文化部棟といっても、あまり差し支えないようなところだった。

 ついでにいえば、たとえば化学部などは、放課後の化学室を部室として使用できるので、部室棟には、そういった部屋を使えない種類の活動をしている文化部が主に生息していることになる。

 そのためか、部室棟には、化学部などのよく見る部活も、もちろん入っているが、ちょっと変わった文化系の部活も、割合入っている印象を受ける。

 ぼくも、この部室棟に入るのは、ほぼ、はじめてだと言ってよい。

 禁止されているわけではないが、用事がないと、部室棟の中に入ることはめったにないし、ましてや、部屋の中まではなおさらだ。

 お金をかける必要性が、校舎と比べて低いからだろう、部室棟に入ると、全体的に古臭く、ぼろい感じを受ける。鍵のかからないドアを開けると、教室の半分くらいの広さの部屋が、ぼくを迎えてくれる。

 茶色の長机を二つあわせたもの。少しの椅子。両側の壁をかざる、本とファイルのぎっしりつまった本棚。窓際のデスクトップパソコン。

 ゆったりとした空気が流れている。

 しかし、そのゆったりとした空気を、まっぷたつに引き裂くように、正面の壁にこんな文章が躍っている。歴代のだれかが書いた詩なのか、ぼくらの年代のものなのか、ぼくは知らない。


「世間」

 日本人には神がいないとか、日本人は無神論者だとか、多神教だとかいうが、他の社会と同じく、世間という神を信じる一神教徒であり、そして世間が神である。

 そして、もちろん、神は殺さなくてはならない。


 マジ、ロックだな、って思う。超クール。アナーキー。

 そう、そして、ここが文芸部の部室だ。

 つまり、ここが、ぼくの部室、ということ、らしい。

 らしい、というのは、この部活に入った覚えが、ぼくにはまったくないからだ。

 あの時間移動、角を曲がったら秋に到達していた時間移動のあとで、すぐにぼくは家に戻った。そのとき着ていた服は私服だったから、いずれかの休日にタイムスリップしたと考えたのだ。

 実際に、その推理は当たっていて、二年生の秋に飛んだということがわかった。

 飛んだ。

 今回ばかりは、そう言っても、そう間違いではないだろう。

 時間移動できると確信していた。

 妙な確信があって、まるで歩き出すように自然に、ぼくは時を超えた。

 ともかく、状況を把握するために、自分の部屋を捜索した。

 描きかけのスケッチブックなどはなかったから、美術部に入っているわけではなく、帰宅部なのだろうと結論付けたのだが。

 机の上に、妙なものを見つけた。

 文芸部の部誌だ。

 妙な予感があった。

 だって、こんなもの、時間移動中にも、その前の高校生活でも、一度たりとて、自分の机の上で見たことはなかったのだから。

 そして、その部誌の執筆者欄で、ぼくは見た。

 自分の名前を。

 ――そこから、ぼくがしたことは、とりあえず息をひそめることだった。

 まず、回復した、というのが、ぼくの気のせいで、まだまだ本調子ではないのだとすれば、またがんばりすぎると、寝たきりになってしまうと思い、はやる気持ちを抑えて、時間を過ごしたという面もある。

 それから、これが理由としては一番大きいかもしれないが、ぼくはこの世界のことをよく知らないし、おそらく、今まで経験したどの世界とも違うはずだと思ったから、かなり警戒していたのだ。なにせ、文芸部に所属しているのだ。美術部でも帰宅部でもない。そんな経験は一度もない。つまり、ここは秋で、今は二年生の秋で、そして、この平行世界は、ぼくの知らない世界だった。

 だが、正直にいえば、自分が文芸部に所属しているということについては、あまり意外性はなかった。将来やりたい仕事なんて、本音をいえば何一つないぼくだけれど、それでも何か物語をつむぐのは価値のあることだと思っていたし、文章を書くのは嫌いじゃない。実際に、そんなことはできるわけがないと思って、ささやかな挑戦すらしていなかったけれど、もしきっかけがあったのなら、文芸部に入って、何かを書いてみるというのは、自分にしては、そんなに奇抜な思い付きではない。

 そして、今、その文芸部に、ぼくは一人の女の子と座っている。

 ここ数週間ほど、息をひそめて学校生活を送ってみて、文芸部についてわかったことがいくつかある。

 まず、この文芸部は、火曜日の定期会合以外は、基本的に自由行動であること。次に、部長だけが毎日この部室にやってくること。そしてこの部長は、なかなかに信用できる人物であること。ついでにいえば、火曜日以外は、あまり人が集まらないこと。

 そして、ぼくは、今、部長の二人きりで、文芸部室にいる。

 秋山愛。

 それが文芸部部長の名前だ。

 文芸部の部長だが、本人は理系。

 髪は、かなりの短髪。どれくらい短いかといえば、男の子がする短い髪、と同じくらいに短い。つまり、ショートカットというよりは、短髪。スポーツをがんばっている運動部の女の子の中にも、これくらい短い子もいるが、部長は、運動は苦手らしい。得意科目は物理と数学で、ぼくとはまったく得意教科がかぶらないタイプ。思ったことはすぐに口に出す性格に思えるが、実は思慮深いところもあるのかも。ぼくよりも頭半分くらい背が低い。全体的に、ちっこい体形。成績は、かなりいい方。

 今までに繰り返してきた高校生活で、会った記憶がない人物だ。

 部長は、ミステリとサイエンスフィクションを書いていて(うちにはミステリ研究会はないので、文芸部にすべて執筆系部活動は吸収されている)、選択科目である芸術科目では、音楽を選んでいる。

 とことん、生活が交わらないな。今までの時間の繰り返しの中で会わなかったのも納得だ。

 いや、ミステリやサイエンスフィクションや音楽が嫌いというわけじゃないのだ。ただ、本ならぼくは児童文学かファンタジーを選んで読むことが多いし、音楽はそんなに聞かない。中学校までは、音楽の話題にまったくついていけなかったレベルだ。ついていく気もなかったのだが。高校に入っても、まともに聞いたのはスピッツくらいしかない。

 しかし、それなら、秋山愛は自分と会わない人間なのか?

 答えは、明らかにノーだ。

 この適度な距離感、つまり、自分とは適度に離れているということ、それが心地よい。

 自分と違うからこそ、一緒にいて楽しいという場合もある。

 そして、人間として、信用できると考えている。

 人間として信用できるかどうかは、ぼくにとって、とてもとても大事なことだ。

 どれくらい大事かといえば、どんなに恋している相手であっても、人間として信用できないのならば、告白もしないし、付き合ってと言われたとしても断るくらいに大事だ。

 もちろん、こんな短い間で人間が信用できるかどうかなんてわからないというのも、もっともだし、ぼくもそう思う。だから、ぼくは人を見る目がなくて、間違えてしまっているのかもしれない。しかし、それでも、ぼくは自分が正しいと思った道をゆきたい。

「部長」

「ん? 秋山さんでいいって言ったじゃないか。だいたい同学年だぞ」

 名前を覚えるのが苦手なぼくは、部長と秋山さんを呼ぶことで、この問題から逃れようとしている。でも、最近は覚えてきたので、秋山さんと言ってもいいんだろうな。

「ぼくが、タイムトラベラーだと言ったら、どうする?」

「そりゃあ、私の小説かなにかに影響でも受けての発言?」

「いや、ぼく、先輩の小説、読んだことないから」

「そんなわけないだろ。いったい、何年、一緒に部活やってると思ってる。そもそも、君を部活に誘ったのは、私だろーが」

 そうなのか。

 それは、初めて知ったな。でも、説明はつく。

 小説を書くことにそこそこの興味はあったが、自分で選んで入るとは思わなかったんだよな。

「いや、ぼくが部長と一緒に部活をやっているのは、ここ数週間なんだよね」

 んー、と頭を軽く押さえて、秋山さんがうなる。

「つまり、数週間前にタイムスリップしてきたっていいたいのか?」

「そう」

「じゃ、本物、というか、オリジナル、というか、もともとこの時代にいた君はどこにいったんだ?」

「いや、それは……ちょっとよくわかんない」

 そう、それは、ぼくもけっこう疑問に思っていたところだった。

「わかんない?」

「その、もともといた時代から、こっちに来て、同じ時間に二人の人間がいるってわけじゃないんだ」

「というと?」

「未来の記憶を持ったまま、過去に時間を移動できると考えてほしい」

「うーん、つまり、一年後の未来から、記憶だけを持って、こっちに来た、みたいな?」

「そう、基本イメージとしては、そういう風に、体は移動しなくて、心が移動すると思ってほしい。でも、ぼくの場合は、もうちょっとややこしい」

「ややこしいということは、未来から過去に来たというわけじゃないんだ?」

「うん」

「じゃあ、どういうこと?」

「平行世界を移動してる、みたい」

「たとえば、君が文芸部に入っていない平行世界の高校三年生から、君が文芸部に入っている高校二年生に移動する、みたいなこと?」

 サイエンスフィクションを読み込んでいるからか、それとも純粋に頭の回転が速いのか、理解が速い。

「そう、まさにそれ」

「やり方は?」

「え?」

「やり方だよ。未来においてそういうタイムマシンが発明されたか、君が作ったか手に入れたかして、君の意識を過去に飛ばす、そういうことが起こったのか? それとも、何か別のやり方が?」

「ジャック・フィニィ、知ってる?」

「催眠術か!!」

 急に、秋山さんの興奮度が、がくんとはねあがる。

「フィニィ式の時間移動か、こいつはいいな、ロマンチックだ。あれか、『ふりだしに戻る』だな、あれを読んだんだろう、いい趣味してるよ、まったく」

 こっちに近づいてきて、ばんばん、と背を叩く。

「いやあ、しかし、フィニィなら、短編集に入っている『愛の手紙』が私は一番好きかなあ。『ゲイルズバーグの春を愛す』は、もう読んだ? タイムトラベルものでいうなら、マイナス・ゼロなんか、かなり好きだが」

 怒涛の勢いで話し出す秋山さん。

「マイナス・ゼロ?」

 知らない単語が出てきたので、聞いてみると、即座に反応が返ってくる。

「広瀬正だよ! 日本のSF作家だ。知らないの?」

 そんな熱力学の第二法則を知らないの?みたいな勢いで聞かれても困る。

 そちらの常識は、こちらの非常識かもしれない。

 これは。

「知らない」

「本棚にあるから、気になったら読んでみるといいよ」

「うん」

「それはともかく」

 場を仕切りなおして、秋山さんが言う。

「証拠は?」

「証拠、か……。やっぱり、そうくるよね」

 だが、はっきり言おう。

「秋山さんに対して、直接示せるような証拠はない」

「おお、ないのか」

 残念だねえ、と、別にさほど残念でないような口調でいう秋山さん。

「でも、間接的になら証明できる」

「ほう?」

「美術の先生、いるでしょ?」

「ああ、柚木先生ね」

 秋山さんは、なぜか顔が広く、かなり多くの学生と教職員の名前を知っている。名前を知っているだけじゃなくて、実際に話もしているみたいだ。

「それが?」

「今までの時間旅行で、けっこういろいろなことを知った。それは、この世界のぼくが知りえない情報だと思う。もちろん、知らないうちに、柚木先生とぼくがグルだったという可能性だってあるのだけれど、それなりに強い傍証になるとは思う」

「ふむ……」

 あごに手をあてて、少し考えこんだあと、秋山さんは立ち上がる。

「じゃ、行こうか」

 突然のセリフに、頭がついていかない。

「行くって、どこに?」

 すると、今度は、ぼくのセリフに、秋山さんがきょとんとする。

「いったい、何を言っているんだ、君は。柚木先生のところに決まっているじゃあないか」


 秋山部長は、即行動の人なのか。ぼくから見ると、アドレナリンでも過剰分泌されているんじゃないかというくらいの勢いで、行動している。

 ぼくなら、興奮状態にないと、こんなことはできないだろう。

 秋山さんは、文芸部室の鍵をしめて(部長がカギを持っていることが、毎日部長が部室に顔を出す一番の理由なのかもしれない)、美術室へと向かっていく。

 美術室に入ると、何人かの知り合いに声をかける。

 懐かしい顔ぶれだ。南七瀬もいる。

 ぼくは、にっこり笑う。むこうは、ちょっと戸惑ったようだけど、微笑み返してくれた。

 ちょっと戸惑ったのは、少し悲しい。そして、微笑み返してくれたのは、うれしい。

「柚木先生って、いる?」

「ああ、今、準備室の方にいるはずだよ」

 秋山さんの友だちか知り合いなのだろう、近くにいた人に声をかけると、美術準備室のとびらのほうに歩いていく。

 こんこんこんこん、と、しまっているドアをノックする。

「運命が、四度、扉をたたく、ってね」

 ベートーヴェンの「だだだだーん」は、運命がドアをノックする音らしい。あの音と同じように、ノックは四階が礼儀なのだそうだ。少なくとも、ヨーロッパでは。

「はい、おはいり」

 柚木先生の声だ。

 ひさしぶりのその声に、ぼくはリラックスするような、懐かしくて泣きそうになるような、そんな不思議な気分を味わった。

「やあ、流川くんに、秋山さんだね」

 柚木先生は、ちゃんとぼくのことを覚えていてくれた。

 副担任だから当然なのかもしれないけれど、やっぱりうれしい。

「いったい、どうしたのかな?」

 肩まである波打つ黒髪を、後ろの方にかぎあげながら、先生は言った。

「はい、実は、ここにいる流川くんが、自分はタイムトラベラーだと言い出しましてね」

「ちょ、ちょっと、なんかその言い方だと、ぼくがおかしい人みたいじゃないか」

「そうかな? うん、でも、おかしい人と思われても仕方ないような行動をしているんじゃないかな、実際のところ? もちろん、私は、君がおかしいとは全く思っていないけど」

 確かに、突然、自分はタイムトラベラーなのだという男がいたら、正直、ちょっとびっくりしちゃうよね。

「それで、流川くんは、私、秋山には、タイムトラベルを証明できないけれども、先生、柚木先生に対しては、証明できるというんですよ。ですから、証明してもらおうと思って、こうしてやってきたわけなんですが、時間、大丈夫ですか?」

「う、うん、そうだね、まあ、大丈夫だよ、すごく長くなるんでなければ。証明って、何をやるのかわからないけど」

 話した内容よりも、話すときの勢いに気圧されたのか、少したじろいだ様子で、柚木先生は答えた。

「じゃ、流川くん。証明してくれたまえ」

 芝居がかった仕草で、腕をふって「どうぞ」というように、柚木先生の方を指し示す。あの、執事さんがやるようなしぐさだ。

 ぼくは、咳払いして、話し始めた。

「えっと。先生は、確か、海外の人とやりとりするのが好きでしたよね? インターネットを使って交流していると聞きました。――その、つまり、こっちの世界に平行世界を時間移動してくる前の、話ですが」

「…………」

 ぐっ、と柚木先生の体全体が、若干こわばるのがわかった。

「どうぞ、続けて」

「バスク語の音楽が好きで、エスペラント語ができます。ベルリンに留学していたことがあります」

「………いまのところ、間違いはないね」

 柚木先生が、緊張した面持ちで言う。

「ま、私としては、それが柚木先生の演技かどうかは判別できないわけですが、柚木先生としては、わりと信憑性が高いということですね」

 秋山さんが指摘する。

 確かに、秋山さんの視点からでは、柚木先生が本当にびっくりしているのか、それとも、びっくりしているフリをしているだけなのか、その判別は不可能だ。

「それから、柚木先生は、フリーゲームが好きです」

「!」

 これには、明らかにびっくりした顔をした。

 秋山さんも、柚木先生の表情の急激な変化に、多少なりとも衝撃を受けたようだった。

「それは、だれにも、言ってない、わたしの趣味だよ……」

 ぼそっ、と柚木先生が言う。

 よかった。この世界は、ぼくが文芸部に入っていたりして、今までに経験してきた世界とはかなり違うみたいだから、他の人の趣味も違う風に変わっているんじゃないかと不安だったのだ。

「ということは、柚木先生は、流川くんがタイムトラベルしてきたと信じる、というわけですか?」

「うん? う、うーん、正直、別の説明ができないか、今考えているところだけど、まあ、思いつかないよね。テレパシーとかなら、説明もつきそうだけど、やっぱりそれも超常現象だしね……」

 まだ、先ほどの衝撃から立ち直っていないのか、ぼそぼそと、ひとりごとのようにしゃべる柚木先生。

「そうですか。先生が信じるというのなら、私も信じましょうか」

 ちょっとだけ考えてから、秋山さんは一礼する。

「先生、どうもご協力ありがとうございました。また、なにかあったら連絡します」

「う、うん。わたしも、いっぺん、流川くんとはちゃんと話してみたいかもね……心の整理がついたら。うん」

 柚木先生が、ほのかに笑う。

「なにか、流川くんがしてほしいことがあったら、何でも言ってくれ。タイムトラベルしてきた理由がなんなのか知らないが、何かを防ぐことだったりしたら、協力したいし」

「あ、いや、これは事故みたいなものなんで、大丈夫です」

「事故!?」

 秋山さんが、おどろいたような声をあげる。

「それって、大丈夫なのか?」

「うん、まあ、実は時間移動のコントロールができなくてさ」

 一瞬、部屋が、しん、となる。

「その、最初は、高校三年生のときに、高校一年生に戻ろうと思ったんだ。それはちゃんと成功して、高校一年生に戻れたんだけどさ。あとは、勝手に時間移動が始まってしまって、高校三年間の中を、ランダムに移動するようになっちゃたんだよね」

「それは――かなり、やばいんじゃないか?」

 秋山さんが、心配そうな顔を見せる。

「うん、つい最近まで、そのために精神的に参ってたんだ。でも、ゆっくり休んでいるうちに徐々に回復してきてさ。もう一度、なにかやってみようって思って、もう一度、今までとは違う世界に行きたいって思ったら、本当に行ける確信が出てきて、そうしたら、この世界についたんだよ。そういえば、今までは、眠ったときに時間移動してたけど、この世界に来たときは、起きて、道を歩いて、角を曲がったときだったな」

「うーん、と。つまり、そのコントロールできない能力を、コントロールして、元の時代に戻りたいっていうのが、君の目標なわけか?」

「元の時代に戻りたい……かどうかは、ちょっとよくわからないな。元の時代っていうのが、もうわけわかんなくなってるし。でも、最初の時間移動でたどりついた高校一年生には、戻ってみたい気もする。でも、少なくとも、自分の能力はコントロールしたいよ。だって、この高校三年間から、出ることができないんだから」

「出ることができない?」

「その、時間移動をしても、中学生に戻ったり、大学生になったりはできないんだよ。大学生は、体験したことがないんだけども」

「ちょっといいかな」

 今まで黙っていた柚木先生が、ひかえめに手をあげる。

「どうぞ」

「流川くんが、タイムトラベルを発動させる条件、っていうのは、なにかあるの?」

「それは、私も聞きたいね」

 二人に見つめられて、若干、緊張する。

 そういえば、人と話すのも、ずいぶんと久しぶりだったな。久しぶりだと、やっぱり緊張してしまう。

「えっと、催眠術というか、自己暗示で、タイムトラベルするんですよ。自分は、あの時代にいるんだーって強く思って、寝て、起きると、その時代に行ける……」

「さっきも言っていたけど、それじゃあ、起きているときに移動したという、今回の時間移動は、例外的なわけだ」

「うん、かなり例外。しかも、すごく自己暗示がうまくいっていたみたいで、時間移動ができる確信が強くあった。できないわけがない、っていう感じの」

 ぼくの話を聞いて、うんうんとうなづいて何かを考え込む秋山さん。そのまま、しゃべらずに、「続けて?」というように、手ぶりで示す。

「えっと、基本的に、そうやって、意識してタイムトラベルする、はずだったんですけど、なぜか途中からコントロールが効かなくなってきて、寝たら勝手にタイムスリップしちゃうようになっちゃって」

「最初にコントロールが効かなくなったのはいつなの?」

「え、そ、そうだな、はじめての時間移動で、高校一年生に戻れたんだけど、その高校一年生の夏に、別に時間移動をしたくもないのに、なぜか高校三年生に飛んでしまった。それが、はじめてコントロールが効かなくなったときだな」

 思い出したら、また気分が沈んできた。

「ふうん。ちなみに、その高校三年生っていうのは、君が一番最初にいた、時間移動する前の世界の高校三年生だったの? それとも、時間移動したあとでたどりついた高校一年生の延長? あるいは、全く別の世界?」

 秋山さんは、サイエンスフィクションを読んで、こういう思考には慣れているのだろうか。さっきから、ぽんぽんぽんぽん質問を繰り出してくる。思ったことをすぐに口に出しているだけかもしれないけど。

「ああ、一番最初の、時間移動する前の、まともな世界の延長線上だったよ」

「コントロールが効かなくなったあとは?」

「あと、っていうのは?」

 ちょっと秋山さんの言っていることがわからなくて、聞き返す。

「あー、つまり、時間移動のコントロールが効かなくなったあとで、高校三年間をランダムに移動していた、って言ってたじゃないか。そのとき、君はどういう世界にタイムスリップしていたんだ? やっぱり、時間移動する前の、まともな世界の時間軸上だったのか?」

「あ、ああ、そういうことか。うん、たぶん、そうだよ。寝込んでいたときもあったから、確実には言えないけど、別に美術部にいたような形跡を見つけた絵かいはなかったはずだし。時間移動する前の、ふつうの世界の時間軸上に移動していたはず」

「なるほどね。ということは、やはり時間移動という超常現象が起こる前の世界が、いわゆる『基準世界』というわけだ」

「基準世界?」

「私が今作った言葉だけど、一番最初の世界、こいつを基準世界として、時間移動したあとは、しばらくすると、この基準世界に立ち戻るようになっているんじゃないか? 世界の強制力か、君の頭の中にある反超常現象回路そうさせているのかはわからんが、時間移動しても、その基準世界のどこかに、なかば強制的に、少なくとも非意識的に、戻らされている気がするんだが」

 時間移動をしても、基準世界に戻ってしまうようになっている?

「それは、言われてみれば、そうかもしれない……」

「ちょっと待ってくれ。でも、それなら、なんでランダムな時間移動が起きるんだい? 基準の世界に戻ったなら、もう時間移動が起きる必要性はないんじゃないかな。だって、もう戻っているわけだし」

 柚木先生が口をはさむ。

 秋山さんとは対照的に、あまり口は開かないが、しっかり考えているという雰囲気が伝わってくる。じっくり考えて、数日後でも気になったら質問するというタイプなんじゃないだろうか。もしそうなら、ぼくといっしょだ。

「それは、わたしも、はっきりとしたことは言えませんが。というか、今まで言ったことも、しょせんすべては理論的な仮説にすぎないのですけれど、そうですね、結局、流川くんは、基準世界に戻りたくないのでは?」

 基準世界に戻りたくない。

 そのセリフは、ちょっとぞっとするくらい、腑に落ちた。

「それ――当たってるかも」

「え?」

 よく聞こえなかったのか、秋山さんが聞き返す。

「秋山さんの、その仮説、当たってるかも。ぼく、基準世界って好きじゃなくてさ。いやなこともあったし、それだけじゃなくて、ううん、むしろそれよりも、楽しいことがなかったんだよね。いいことがなかったっていうか。空虚だったんだよ。あの三年間。だから、やり直したくってさ。だから、基準世界に帰りたくないから、時間移動を繰り返しているっていうのは、あり得る話かもしれない」

「ごめんね、よくわからないんだけど、どうして、基準世界がいやだと、ランダムに時間移動をすることになるのかな」

 柚木先生が、おずおずと口をはさむ。

「あー、つまり、世界の強制力的な何か、あるいは脳内の反超常現象回路は、超常現象なんて起きなかったかのように動き、時間旅行をなかったことにしようと、流川くんを基準世界に帰そうとするのですが、無意識化で流川くんは抵抗し、高校三年間のどこかに自分を飛ばして、青春をやりなおそうとしている、的な話ですかね」

 青春をやりなおそうとしている、と言われると、なんだかすごく恥ずかしい。

 たぶん、顔が赤くなっている。

「あれ? 顔赤い? なんで? 青春をやりなおそうとしている、みたいな言い方、デリカシーっていうか思いやりにかけていたかなぁ?」

「ちょっとね」

 ずけずけとものを言ってくる態度、正直、嫌いじゃない。信用できる人だなと感じたのは、この性向も理由だ。でも、ぼくは、絶対にこういう人には、恋なんてしないだろうと思う。ある種の思慮深さがないから。でも、そのかわりに、すばやい頭の回転を持っている。ぼくは、ちょっとだけうらやましい。

「ははっ、すまんすまん。というわけで。流川くんの未練を断ち切れば、そういう時間移動はもう起こらないかもよ?」

「未練、か……」

 なんだか、そういう言葉だと、自分が幽霊になった気さえしてくるな。

「あと、私には、まだ疑問があるよ」

「どんな疑問?」

「うん。これは、なぜランダムな時間移動をするのか、という疑問の裏返しなのだけど、そもそも、なんで現在は移動せずに留まっていられるのかということ」

「それは――うーん……」

 なんでだろう。

「いちおう、私なりの仮説はあるよ。さっき、ランダムに移動するときに、そのせいで精神が参ってしまっていたけど、ちょっと回復してきて、そのおかげでこっちの世界に来れたって言ったじゃない? つまり、精神の安定度というか、精神状態の上下によって、時間移動能力は、少なくともある程度、影響を受けるんじゃないだろうか。そもそも、催眠術や自己暗示で時間移動をするというのは、精神に関わる能力みたいだしね。自分の意志の影響を受けないと言う方が間違っているんじゃないだろうか」

「なるほど。でも、最初にランダムに移動しはじめたのは? そのとき、別に精神的に参っているとは思わなかったけど。精神が安定していると、その時代に定着しやすくて、精神が不安定だと、いろいろなところに飛びやすいんじゃないかっていう仮説を秋山さんは言っているんだよね。だったら、最初にランダムに飛ぶのは変じゃない?」

「ストレスに気づいていなかっただけか、それこそ、世界の強制力と君の意志とのせめぎあいの結果だとか。――まあ、これはあくまで仮説だから。なにかのヒントになればとは思うけど、私の仮説が、正しい原理を把握しているとは、必ずしも思わないよ」

 そうだ。所詮は、秋山さんの仮説、想像にすぎない。

 でも――――。

「でも、なんとなく、未練があるとかいうのは、わかる気がするよ」

「お、ホント?」

「うん、少なくとも、それだけは、そんなに的外れじゃない気がする。時間移動の原理とやらは、正直、よくわからないけど。でも、あの三年間を超える時間移動ができないのは、なにか未練がある、やり残したことがあるからだっていうのは、しっくりくるんだよ。最初の時間移動の動機が、やり残したことがあるっていうことだったんだから」

「じゃあ、やり残したことをやるしかないな」

 秋山さんの言葉に、ぼくは、真っ白な空白に直面したような気分になってしまう。

「うん………」

「どうしたんだい?」

 柚木先生が、心配そうに声をかけてくれる。

「いや……正直、未練が何か、やり残したことが何かって、自分でよくわからないんですよね。ああいう高校生活は送りたくなかった。でも、どうすればいいのかわからないし、何をしたいのかもよくわからない。自分が求めているものがわからないんですよね」

 美術準備室に、沈黙が落ちる。なぜか、その沈黙は、やわらかい感じがした。二人が、どことなく共感の微笑みのようなものを浮かべていたからかもしれない。

「ふふっ、じゃあ、考えてみるといいんじゃないかな。考えて見つかるものでもないかもしれないが。考えて見つかる感じじゃなかったら、私も探すのを協力しよう。それに、もしかしたら、君のやりたいことは、まだこの世に存在していないものかもしれないしな」

 ぼくのやりたいことは、まだこの世界に存在していないかもしれない。

 それは、とてもロマンチックで、とても救いのある話だった。

 結局、その日は、そのまま会話が終わり、ぼくたちは美術準備室を後にした。柚木先生は、ぼくに連絡先を教えてくれ、困ったときは、いつでも連絡してくれていいよと言ってくれた。その電話番号は、ぼくが過去に暗記した番号と同じで、それがぼくを安心させてくれる。

 美術準備室から、文芸部室に帰って。

 秋山さんが、口を開く。少しだけふせた顔に、西日が当たっている。

「だけどさ、本当に、今までいた『流川くん』は、いったいどこに行ってしまったんだろうな」

 秋山さんが、少しだけ深刻そうな顔をして言う。

「君はさ。時間移動をしていると言ったけど。実は、観測していない、観測できていないだけで、微妙に違う平行世界に、毎日寝るたびにジャンプしている、という可能性もある。そういう小さなジャンプでは、変化を感じられないだけなのかも。もっとも、それは、君だけじゃなくて、万人に起きていることなのかもしれない。でも、本物の『流川くん』は、いったいどこにいるんだろう。いや、君も本物なんだが、この世界の私からすると、本物は『あの流川くん』だからさ。君がまた時間移動をしたら、本物の『流川くん』は、ひょっこり帰ってくるんだろうか。そうしたら、その間の記憶って、どうなっているんだろう。私はさ、あの『流川くん』のこと、けっこう好きだったんだよ。恋愛感情というよりは、友情的な意味でさ。だから、会えるものなら会いたいし、私と過ごしてきた高校一年生の記憶も取り戻してくれなきゃあ、困るんだよ」

 ぼくは、何も言うことができない。そのとおりだな、と思うから。

「本当に、そうだね。ごめん」

「なんで謝るの?」

「いや、ぼくがここに来ちゃったせいで、元いた人が弾き飛ばされたのかな、と思ってさ」

「うん……」

「でも、そういうこと考えると、ぼくはやっぱり、元の時代に戻った方がいいのかもしれない」

「そう、だね。もし、そうなら、オリジナルの『流川くん』に私はまた会いたいよ」

「そうだよね……でも、正直、うらやましいな」

「なにが? うらやましい?」

 秋山さんが、心底不思議そうに首をかしげる。

「そんな風に思ってくれる人が、この世界のぼくにいることがさ。そういう相手は、ぼくのもともといた世界ではいなかったからね」

 そのとき、不思議なことが起こった。

 ぼくは、人に、自分の思っていることを話すのが苦手だ。秋山さんは、思っていることをすぐ話すように見えるが、ぼくは真逆で、思っていることを全然話そうとしない。話すのにものすごく抵抗がある。自分の心を見せたくない。

 でも、なぜかそのときは、ぽろっ、と、不覚にも、不用心にも、あるいは油断して、なぜかしら、思いもかけずに、言葉が出てきた。

「つらかったな……」

 自分で言って、びっくりした。

 思わず、自分で自分の口を押えてしまうくらいに。

「そんなにつらかったの?」

「うん」

 自分がつらいと認めるのはつらい。

 自分がつらいと認めなければ、本当はつらくならないみたいに、ぼくはどこかで思ってる。

 そんなことないのに。頭が認めなくても、つらいものはつらいのに。

「大丈夫だよ」

「何が大丈夫なのさ」

 ぼくは、大丈夫だと思えなくて、秋山さんに反論する。

 すぐに反論できるなんて、珍しい。いつもは、相手の言うことも一理あるのかな、と思って、じいっと考え込んで、反論なんてすぐには出てこない。

「これは祈りだよ。論理的意味はない。だから、大丈夫だよにも論理的な意味はない。でも、祈りとしての意味ならある」

「詩人だね」

「文芸部部長ですから」

「こんなことになるのなら、お母さんのおなかの中で自殺しておくんだった……そんな気持ちになりそうだ」

「ウザったいこと言うけど、そんなこと言ったら、お母さんが悲しむよ」

「でも、それが正直な気持ちなんだ、ぼくは自分にはもう嘘をつきたくない」

 ぽんぽん、と頭をなでてくれる。

「心配するな。私もついてるぞ。柚木先生だっている」

 そのまま、手をにぎって、励ましてくれる。

「――――ありがとう」

 それだけで、世界はまだ捨てたものじゃないって思える。

「いいってことよ」

 ふ、と手が離れて、それだけでさびしさを感じてしまう。

「しんどいときは、一緒にしんどい気持ちになってあげる」

「ありがとう」

「あんたは、あれだな、私の知ってる、オリジナルの流川くんより、ずっとしんどそうだ」

 ぼくは、思わず笑ってしまう。

「きっと、この世界のぼくは、幸せなやつだったんだろうなあ」

「おい、まるで死んだみたいな言い方をするなよ。返してもらわなきゃ困る」

「だね」

「そうだよ」

 思わず笑ってしまったからか、ほんのちょっとだけ心が軽くなった。

「さて。それじゃあ、いったい、これからどうしようか」

「どうする、って?」

「君の未練を絶つ旅に出かけないとだろ?」

「ああ、そうなんだよ。でも、未練がなんなのか、わからないんだよなあ」

「でも、一番最初の時間移動のやつは楽しかったんだろ?」

 それは間違いない。

「うん」

「じゃあ、そのときと似たようなことをすればいいんじゃないか? 似たようなことであって、同じことをやっても意味ないのかもしれないけど。一番最初のやつは、何が楽しかったんだ?」

 うーん。楽しかったのは、わかるけど、言葉にいざしてみようとすると、なかなか難しいものがあるな。

「言葉にするの難しいんだけどさ。やっぱり、みんなが優しくしてくれたからだと思う」

 そこから先が続かなくなっても、「言葉が出てくるまでいつまででも待ってるよ。ゆっくりどうぞ」と秋山さんが言ってくれる。秋山さんには、柚木先生とは別の種類の気安さがあるな。

「友だちとふつうに話せたり、お互いに笑いあえたり、好きな先生がいたり、好きな友だちがいたり、なんていうか、愛にあふれていた感じがする」

 そうなのだ。もっとうまい言い方もあると思うのだけど、本当に、「愛にあふれていた」感じがするのだ。

 愛する人たちがいたこと。学校に行くのが楽しみであったこと。

 話ができたこと。楽しい話ができたこと。技術的に上手に、という意味ではなく、「うまく」話せたこと。なにかがカチリとうまくはまるように、うまく話せたこと。

 美術室で、みんなで輪になってしゃべったこと。下校の時間までしゃべったこと。

 すごく楽しかったこと。ぼくの話をみんなが聞いてくれること。みんながぼくの話を理解してくれること。みんながぼくに話をしてくれること。みんなの話をぼくが理解できること。たとえば、いじめの話だって、みんながちゃんと受け止めてくれるから、暗くならずにそういう話もできること。

 何を話しても大丈夫だという感じがすること。きれいな空間だったこと。

 空間。そう、空間だ。

 だれかと話すから、すばらしいというよりも、あの空間で話したから楽しいという空間。その空間は、きっと、場所と、時間と、そこにいる人たちによって、作りだされるもので、何か特別なものなのだ。いろいろな要素がうまくかみ合わないといけないし、それは奇跡みたいなものなのだと思う。

 幸福な空間。

 ぼくは、高校三年間で、その幸福な空間と触れ合ったまま過ごしたい。

「なるほどなー、要するに、幸せな高校三年間を送りたいってこと?」

「うん」

「でも、抽象的だなぁ。具体的な目標があればやりやすいんだけど」

「……たぶん、幸福は具体的なものじゃないから。机みたいなものじゃないし、四月の二日に博物館でアイスを食べるということとも違うから」

「んー、なるほどね。そういう、具体的な話をしないところは、こっちの流川くんも同じだったな」

 そこで、懐かしそうな笑いを浮かべて、秋山さんは笑った。

「私は、具体的じゃない目標に進むのは苦手なんだ。だから、流川くんが少しだけうらやましい。具体的な目標に進むことがさ、奨励されている社会だけどさ。目標が、まだこの世に存在していないものだったら、具体的な目標をたてるより、全然具体的じゃない目標をたてたほうが、たどりつける気がするんだよなあ。いーぜ、秋山さんが協力してやる。なんか楽しいことをしよう。そんなにすぐに何かが変わるとは思えないけどさ」

「うん……ありがとう」

「ま、気長にやろーよ。あ、そうだ。時間移動の話、もうちょっと聞かせてよ」

 そのあと、時間移動の話を下校時刻までして、ぼくたちは家に帰る。

 秋山さんとは、帰り道が途中まで同じみたいだ。歩きながら、今まであったことを話していく。

「なるほどねぇ。面白いなあ」

 確かに、あまり類例がなさそうな話ではある。こういうの、秋山さんは好きなんだろうなあ。そして、ふと思いついたように、秋山さんは、話を変える。

「ところでさ、流川くん」

「なに?」

 秋山さんが、いたずらっぽい笑みを浮かべる。

「さっきの話だけどさ――、君、私とデートしてみる気は、ないかね?」


「革命家には優等生が多いらしいね。憎まれっ子世に憚るというが、実際のところ、不良は社会に取り込まれてしまい、真に社会に反抗し、改革し、革命を起こすのはインテリという傾向があるんだろうな。例外は多々あれ」

「いったい、何が言いたいんだよ、秋山さん」

「つまり、真に革命的なことをするのは、優等生だということさ。そう、たとえば、このような状況のようなことを企画するのはね」

 温水プールにぼくたちは来ていた。ぼくたち、というのは、秋山さん、七瀬さん、柚木先生。そしてぼくだ。

 みんなの水着姿がまぶしい。

 なんでこういうことになっているのかというと、秋山さんが原因だ。あのあと、二人でデートでもすれば青春っぽいし、未練も消えるんじゃないかと、詐欺師のようななめらかなトークで説得されたぼくは、秋山さんとプールに行くことにした。そうしたら、秋山先生以外の人も来ているのだ。びっくりする。柚木先生も来ているのは、きっとぼくの事情を知っているからだろうが、よく七瀬さんも連れてこられたな。先生を含む女子三人というのが、安心感を生んだのだろうか。

「まあ、行動力は、認めざるをえないよね」

 顔が広いことは知っていたが、温水プールに先生まで参加させるって、どういう行動力だよ、本当に。ぼくには、絶対できない。

「ほれ。君の未練を解消して、さっさと成仏してしまえ。そんでもって、オリジナルの流川を返してもらおうか」

「ぼくを悪霊みたいに言うな」

 すっ、と後ろから秋山さんがぼくにくっついてくる。女の子の肌があたって、どきどきしてしまう。

「おい、やめろって」

「はは。エロスはタナトスを駆逐する」

 そんなことを言いながら、ぼそっと、ぼくの耳元でつぶやいた。

「いや、マジで私、オリジナルの君に戻ってきてほしいんだよ。好きだったからな。告白もまだなのに、君がいちゃあ告白も何もない。スタートラインに立てない」

「なっ―――」

「君が憎いってわけじゃあないぜ? ただ、こっちにも、全面協力する理由があるってことだ」

 そう言って、すっ、と体を離した。

「ま、私も、君の話を聞いてから、いろいろ考えてみたんだが、もし、ここが君の夢じゃなくて、実在する平行世界だったなら、君が元の世界に帰ったあとで、できたら連絡つけたいもんだよな。夢の中でなら、会えるのかな?」

「どう、なんだろうね……」

「この世界でのオリジナルの君は、いったい、どこにいるんだろうなあ」

 それは、本当に、わからない話だ。

「もしかしたら、さ」

「うん?」

「ぼくの仮説だけど、これはみんなで見てる夢なんじゃないかな。つまり、みんなで時間移動しているんだけど、気づいているのがぼくだけ、っていう可能性も、あるよね」

「――――そりゃあ、面白いな」

 まあ、でも、私は平行世界実在説を取りたいね、と秋山さんは言った。

「なんで?」

「だって、平行世界実在説じゃなくて、全員が時間移動してる説だったら、私の好きな人が、君と同一人物になっちゃうじゃないか」

 それは心外だね、と言う風に、肩をすくめる。ホントに、遠慮のない人だ。

「そうだ、流川くん」

「なに?」

 秋山さんは、話を切り替える。

「君は、この世界に元からいた、文芸部の流川くんじゃないと私は思うんだけどさ。それでも、小説、書いてみなよ。オンラインで公開でもしてみ? また、時間移動をしたときに、戻ってきたら、自分に見つけてもらえるかもしれないぜ。それに、書いているうちに、自分の気持ちがわかるようになってきたり、精神が安定したりしてくるもんなんだ。前、言ってただろ? 自分の気持ちがわかんないってさ。何か、書いてみるといいんじゃないかな。ハードル高そうなら、小説じゃなくてもいいからさ」

 たぶん、秋山さんなりの、アドバイスのつもりなんだろう。あんまり、そういうことをするタイプには見えなかったけど、それなりに心配してくれているみたいだ。きっと、その心配は、ここにいるぼくだけじゃなくて、オリジナルのぼくに対しても、向けられているのだろうけど。

 ぼくは、だれかに何かしてみたら、と言われると、基本的に、そっぽを向きたくなる性格だけど、この助言は、案外悪くないなって思えた。日記も書いていたし、何かを書くのは、悪くない。

「ねえ、時間移動したって本当?」

 すっ、と横から話に入ってきたのは、七瀬さんだ。

「え、そんな話……」

「愛から聞いたよ。面白そうだなって思って、ついてきたんだ」

「ほら、下校途中に話してくれたろ?」

 ぼくは、秋山さんには、大事な秘密は絶対にしゃべらないでおこうと思った。

「ね、ね。本当に時間移動してきたんならさ、なんか証明してみてよ。私とは、友だちだったんでしょ?」

 あいかわらず、きれいな顔だった。黒髪のボブカットが似合っている。

 体が大きいから、全体的に、いろいろと大きい。目のやり場に困る。

 それにしても、この世界では、ぼくとそこまで親しいわけでもないと思うが、このプールに誘って来てくれるとは、秋山さんの外交手腕に、若干の戦慄を覚えなくもない。それとも、知的好奇心が高いだけなのかな。

「そう……だな。苗字が嫌いだから、あまり苗字で呼ばれたくなくて、友だちには、できるだけ下の名前で呼んでもらうようにしてる、とか?」

「おお!」

 ぱちん!と手をならす。

「すごい! 流川くんには、その話してないはずなのに! そっか、じゃあ、これからは七瀬でいいよ。ほかには?」

「ほか? うーん、と……」

 記憶の糸を懸命にたぐりよせる。体感時間としては、けっこう前だからな……。

「化学が好き。サイエンスじゃなくて、ケミストリーの方ね」

「おお、それもあたり」

「中学校のときも美術部だった」

「正解っ」

 はしゃぐ七瀬さんとは対照的に、ぼくはどんどん言葉がでなくなってくる。やばい、これ以上、あんまり思いつかないぞ。一回目の時間移動後の世界では、けっこう仲良かったのに――。あ、でも、美術の様子ならわかるかも。

「こっちの世界ではどうか知らないけど、写実的な絵をよく描いてた印象がある」

 これは、思ったよりも大きな一撃だったらしい。

 七瀬さんが、目に見えて、動揺した、というか、びっくりした顔をする。

「へえ。まあ、美術部の友達に聞けば、そういうこと教えてくれるかもしれないけど。なんか、美術部に実際にいたっぽい発言だよね、それは本当に」

 うんうん、と七瀬さんは、一人で納得している。

「よかったら、今度、なんか描いてみてよ。『元美術部』なんだからさ」

 そう言って、ははっ、と笑う。この笑顔も懐かしい。

「うん。ひさしぶりに、なにか描いてみようかな」

「まあ、部員じゃない人に、うちの器材を使って、何か描かせるのは、あんまりよくないんだが。私も見てみたいのは確かだな。むしろ、兼部してもいいんだよ?」

 柚木先生が、話に入ってくる。

 スレンダーな体形で、いわゆるセクシーな体ではなく、モデルっぽい感じだと思う。でも、長い髪の毛が水に濡れて、若干、おどろおどろしい印象を周りに与えているため、あまりモデルには見えない。

「だめですよぉ! いつかこの偽・流川くんはこの世界から成仏して、オリジナルの流川くんが帰ってくるんだから。そのときには文芸部にがっちりいてもらわないと困ります!」

 秋山さんが、めずらしくはしゃいだ声で否定する。

「ははっ、それもそうだなあ。でも、一回くらい、君の絵を見たいというのは本当だよ。私が教えたみたいだし、平行世界ってものが本当にあるのなら、違う世界の私の弟子の太刀筋を見てみたいね」

「ははっ、そうですね。ある日の放課後使って、実演ってのも悪くないと思います」

 それにしても、この世界のぼくは、愛されているんだなあ。

 ぼくは、はじめて時間移動した、あの世界で、楽しい高校生活というものを初体験した。でも、友だちと遊びに行ったりはしなかった。楽しかったのは、学校だ。友だちと一緒に何かをしても、あまり学校にいるときほど楽しくなかったのだ。

 でも、ここは学校じゃないのに、けっこう楽しい。学校にいるわけじゃないのに、楽しいのは珍しい。

 学校には、特別な空間があって、幸せな空間があって、そこにいるから幸せになれるんだと思っていたけれど。学校じゃなくても、そういう空間を作れることがあるんだな。それは、やっぱり、いろいろな奇跡的要素の奇跡的結合の帰結なのかもしれないけれど、それでも、この空間は美しい。

 それもこれも、この秋山さんのおかげか。

 ふと、思った。出ていかなければ、と。

 ここはとても楽しい。そして、この空間は、ぼくのために用意されたものだ。

 でも、この世界は、ぼくの本来いるべき世界ではない気がする。

 ぼくは、平行世界実在説には、実は懐疑的だ。むしろ、この世界も、全部、ぼくの一種の夢、ぼくの自己暗示による幻想的なタイムスリップだという意識がある。でも、それでも、この世界は、ぼくがいるべき世界というよりも、次にいくための、一種の休憩所、そうでなければ、助走のための滑走路に思えた。

「今日は、めいっぱい楽しもうかな」

 楽しんで楽しんで楽しんで。明日のことを考えなければ。ぼくは、行くべきところに行ける気がする。

「おう、その意気だぜ」

 秋山さんがニッコリ笑う。

「ま、あせらず気楽にいくさ」

 ぽんっ、と軽く先生の腕に触れる。温かい。

「さ、先生も、みんなも、入りましょうよ」

 ぼくの声で、みんながプールに入っていく。

 ぼくの声で、みんなが動く。こういうの、もしかして、はじめてじゃないか?

 他人から見たら些細なことかもしれないけれど、ぼくから見たら重大なことで、ぼくの気分は高揚する。本当に、今日は楽しくなりそうだ。

 結局、その日は、めいっぱい楽しんだ。

 みんなとの距離が、本当に縮まったように感じた。

 柚木先生も、七瀬さんも、秋山さんも。

 みんなが近くにいる気がする。

 ひさしぶりの水泳で、心地よく疲れた体を横たえて、ぼくはその日、まるで絹のすべり台をすべるように、とても気持ちのいい眠りに入っていった。


 その日は、珍しく寝坊した。

 もしかして、二度寝だったのかもしれない。

 電話が鳴った。ぼくは、その音で目を覚ます。

 やけにすっきりと目覚めた意識の中、受話器を取る。

「もしもし? 流川さんのお宅でしょうか?」

 この声。

 柚木先生だ。

「あ、もしもし、柚木先生ですか? ぼくです、流川です」

「おお、よかった。今日、美術部の活動二日目だけど、まだ来てないから。何かあった?」

「え? 何か、って……」

 沈黙。

「いや、その、昨日、君が言ったことのせいで、もしかして部活に来づらいんじゃないかと、わたしは心配しているんだが……」

「え、と、昨日、言った、こと?」

 妙な沈黙が流れた。

「ほら、その……君が、わたしに、その、告白的なやつをした、あれだよ」

 声をひそめて、柚木先生は言った。

 告白。柚木先生に。

 そんなことを言ったのは、数ある時間移動の中でも、たったの一回こっきりだ。

 そして、それを言ったのは、確かに、夏休みの美術部の活動が始まってから、初めての日だった。

「その、先生は。ぼくが時間移動をしてきた、って話、信じてくれているんですよね」

「え? あ、ああ、集中豪雨もあったしね」

 戻ってきたのだ。

 一回目の、時間移動した世界へ。南さんを七瀬さんと呼んでいた世界、ぼくが美術部に入った世界、秋山さんに会うことがなく文芸部には入らなかった世界、そして柚木悠里先生に、好きだと言った世界へ。

 なんだか叫びたい気分を抑えながら、ぼくは言った。

「違うんですよ……ぼくが、先生のことを好きだって言ったこと、全然関係ないんです。そうじゃないんですよ……ぼくは……ぼくは、帰ってきたんです!」

 ぽろぽろっ、と涙がこぼれる。別に、ぼくは悲しくも、感動もしていないはずなのに。それとも、気づかないだけで、ぼくは、本当は――。

「話しますよ。今から、学校に行って、何があったか、話します。いいですよね?」

「うん、わたしも、心配だからね」

 そういう先生の言葉は頼もしく。

 何もかもが大丈夫。そう言ってくれているみたいだった。

 

 翌日。

 朝、少し早めに来て、美術準備室に行く。

 そこで、軽くではあるが、今までの説明をした。柚木先生にとっては、一日しか経っていないかもしれないが、その間、自分がいろいろな時間に飛ばされていたことを話した。

 柚木先生は、ぼくの話を信じてくれたようだった。もっと詳しい話を聞きたいから、今度よかったらもっとじっくり話そうと言ってくれた。きっと、そうするだろう。

 そして、ぼくには、もう一人、会わなきゃならないやつがいる。


「おお、そりゃあ、信じがたいが、信じるしかないな」

 秋山愛が笑う。

 ぼくが知らなかっただけで、秋山さんは、ちゃんと学校に在籍していた。文芸部も、ちゃんとあった。ぼくと同じ、一年生だから、まだ部長ではなかったけれども。

「いやあ、びっくりしたねぇ、面識のない人から、急に、何を書いているかとかあてられるし、中学生のころに書いた恥ずかしいストーリーの内容とか、登場人物の名前を当てられるとか……正直、少し恥ずかしかったぞ」

 そう言って、顔を赤らめる。

 まだこの頃は長い髪ともあいまって、とても新鮮だ。

 こんな部長は見たことない。――いや、まだ部長じゃないんだけど。

 それにしても、また時間移動したときのために、秋山さんがいろいろ言っておいてくれて助かった。

 そのあと、軽く雑談をしたあと、秋山さんは言ってくれる。

「この部室、よかったらまた遊びに来なよ。歓迎する。私は、だいたいいつでもいるからさ。その話、面白そうだと思わない? 小説のモデルにしたいくらいだ。あ、いや、いやならいいんだ、そんなおびえた顔をするなよ。大丈夫だから。それにしても、君の絵も見てみたいな。小説の挿絵なんか、描くの悪くないと思わない?」

 確かに、そういうのも悪くない。

 手を振って、秋山さんと別れる。きっと、また会いにくる。

 ぼくは、部室棟から離れて、美術室へと戻っていく。


 七月の梅雨明けの日差しが廊下を照らすなか、ぼくは、美術室に戻りながら、ちょっとだけ、もの思う。

 もしかしたら、いつか、基準世界に帰ることになるのかもしれない。

 でも、今しばらくは、この夢のような世界で――。

 まだ、もうちょっと――。

 ぼくは、幸せな気持ちで、学校祭の準備のため、美術室の戸に手をかける。

 まだしばらくは、時間移動は起こらない。

 今のぼくは、あの街の道の角を曲がったときと同じくらいの強さで、そんなことを確信していた。

 つまり、明日は七月のままで、十二月にはならないのだ。

 だから、まだ、夏は始まったばかりだった。


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