第1話 海しか知らない人魚
海の底には、人間の知らない世界がある。
太陽の光が届く青い海。
虹色の珊瑚。
光るクラゲ。
歌う貝殻。
そして――人魚たちの街。
その世界で、一人の少女が暮らしていた。
名前は、ユニ。
「今日も海は綺麗!」
ユニは珊瑚の街を泳ぎ回っていた。
長い髪が水の中でふわりと揺れる。
魚たちがユニの周りを泳ぎ、珊瑚の間から小さな人魚たちが顔を出す。
「ユニ、またそんなところまで行ってる!」
「大丈夫!」
「昨日もそう言って迷子になったでしょう!」
「今日は迷子になってないもん!」
ユニは胸を張った。
――実際には、今どこにいるのか少し分かっていない。
なにしろユニは、海の外を知らない。
空も知らない。
街道も知らない。
お金も知らない。
靴なんて、名前すら知らない。
人間という生き物も、ほとんど知らない。
ユニは海の中だけで大切に育てられた。
いわば――
箱入り人魚だった。
「ねえ!」
ユニは泳いでくる魚に話しかける。
「今日のお昼は何かな?」
魚は答えない。
「……魚はしゃべらないか」
ユニは残念そうに呟いた。
そのときだった。
――ゴゴゴゴゴゴ……。
海全体が震えた。
「……?」
ユニが振り返る。
遠くの海が、突然紫色に光った。
「なに……?」
次の瞬間。
ドォォォン!!
海の底から巨大な魔力の柱が立ち上がった。
「きゃああああ!」
魚たちが一斉に逃げていく。
珊瑚が揺れる。
海流が逆巻く。
「な、何なの!?」
その中心にいたのは――
一人の魔法使いだった。
「しまった!」
魔法使いが叫ぶ。
「魔法の調整を間違えた!」
「今それ言う!?」
ユニが叫ぶ。
魔法陣がどんどん大きくなる。
「逃げて!」
「どこに!?」
「どこでもいい!」
「海の中なんだけど!」
ユニの体が光に包まれた。
「えっ?」
身体が浮く。
泳いでいるのに、前へ進まない。
むしろ――
どんどん上へ引っ張られていく。
「待って!」
ユニは必死に珊瑚を掴もうとした。
指先が届かない。
「誰か――!」
光がさらに強くなる。
最後にユニが見たのは、
自分が暮らしていた美しい海。
そして――
腰につけていた小さな青いポシェットだった。
ポシェットが、淡く光った。
「……え?」
その瞬間。
世界が真っ白になった。
「…………」
静かだった。
波の音がする。
ユニはゆっくり目を開けた。
「……ここ、どこ?」
見渡す。
青い海。
白い砂浜。
遠くには見たこともない巨大な森。
さらにその向こうには――
空に浮かぶ島。
「…………」
ユニはしばらく黙っていた。
「……島って、浮くの?」
もちろん答えはない。
ユニは起き上がった。
そして――
「……あれ?」
違和感に気づく。
いつもの尾びれがない。
代わりに――
「……足?」
ユニは自分の足を見つめた。
右。
左。
人間の足。
「…………」
数秒後。
「なんでええええええ!?」
ユニの叫び声が、異世界の海岸に響き渡った。
その頃――。
遥か彼方の王城。
巨大な水晶球が突然、青白く輝いた。
「……魔力反応!?」
王国最高峰の賢者が立ち上がる。
「観測不能な魔力です!」
「属性は!?」
「分かりません!」
水晶球の中に、一瞬だけ――
海岸に立つ少女の姿が映った。
賢者は息を呑む。
「……何者だ?」
誰も答えられなかった。
そして海岸では――。
「足って、どうやって使うの!?」
ユニが生まれて初めての一歩を踏み出そうとしていた。
しかし――
「……」
「…………」
「………………」
一歩目で転んだ。
「痛い!」
こうして。
海しか知らなかった箱入り人魚の少女――ユニの、
奇妙で素晴らしい異世界放浪旅が始まった。
ただしユニはまだ知らない。
この足に――
「8時間8分」という、とんでもない秘密が隠されていることを。




