♪ Nostalgia 15 ♪
さざなみのような闇……それは、音の無いざわめきに変わり……、人々の歓声と情熱とうねりに変わる。私達はほとんど全周を観客に囲まれている感覚に陥る。此処は『MORRIGNA』のドームツアーの二ドームめ。客席と、架けられた屋根の隙間から覗いた、夕焼けの色が美しい。『時よ止まれ、お前は美しい』って言おうかと思ったりする。でも時はよく止まっていたりする。時よ止まれと言おうか、と思う前なんかがそう。時間が私達の頭上を流れてるわけじゃない。私達の中を流れて行く。
私達は、しばしばこうして、普通のアイドルのライブもやる。これも『アイドル』である為に大切な事だからね。普通のライブは、カラダとココロの疲労もちゃんとインプットされているから、一回やるたびに極限まで消耗する。ツアーの最中には私も憂鬱になることはある。憂鬱とハイのまだら模様のトンネルみたいなのがツアー中の率直なところだけど、そんなMCはお客さんの前では入れない。カラダとココロを感じるコトは、普通のアイドルの醍醐味だ。物質がリアルタイムで削られる様子が私やファンのカラダにドーパミンを撒き散らす。
シホは天才だから、ライブするごとに元気になっていく超人だけれど、三界麻美はたまにステージの袖で心底ウンザリしている。だけどこれはカラダとココロのレベルにすぎない。私がウンザリしているわけじゃない。カラダやココロが疲弊してるなら、疲弊した儘で、舞台に放ってやるのも、私の役割だ。私達を支えてくれるバックダンサーの方々や、PAや音響の方々や、運営や観客の方々には、心からの敬意を払ってね。
シホに比べると、カラダ的にもココロ的にも凡庸この上ない私は、だけど、ステージに出て行くと、ファンにとって魅力的な憂いや瑞々しさや、憑依されたような半狂乱のパフォーマンスを見せたりする所がいいんだって、ネットに書かれていたりする。
うん、それはたぶんね、実際のところはね、憂鬱だったり、弱気だったり、疲弊してたりするだけなんだよー。でも、重さを隠す事はないよ。重い儘にステージに転がり出るのさ! 普通のカラダとココロが、「でもがんばっちゃうよ!」って気張っても、演舞はゴミカスになっちゃうからね。
だいたい全部の『普通』の演舞の動機は、カラダとココロの内側のレベル。「私は死ぬんだ。カラダとココロは消えるんだ」っていう、ニンゲンの一万年来の無意識の恐怖の累積、この恐怖がプールされた場所を液肥にして、『普通』の全部が生えて来ている。この情報帯の中から情報を捏ね繰り回しても、必ず、ロクなものはできないって、私達は知っている。
『アイドル』が『普通』と違うところは、私はロクなものを作ろうとはしていないってコトだ。私は何もしない。造ろうとも変えようとも思わない。憂鬱なまま、凡庸なまま、ステージへ踏み出してしまう。どうせ自動でカラダは動くようにできている。もしくは、自動で動かない。動かなくてもいい。そしたらシホがフォローしてくれるでしょって思ってる。
私は三界麻美を在るが儘にふるまわせる。
三界麻美の武器は、ステージの上で輝く思いやり。場面や雰囲気をキリッと切り替える力。丁寧さと真面目さの結晶。客を包み込む天性のあたたかさと優しさ。
対してシホは、鋭さと、天才と、怜悧さと、深遠さ、魔性。演舞のスケールは、三界麻美とは歴然とダイナミック、かつ瞬発力も異次元。スタイルや、見てくれ、それはもちろんあるけれど、何より自動的に無数のカラダとココロを集めちゃう神氣を持ってる。超常の力で、魔力。観客はシホのカラダの表現を見ているようで、本当の処は、シホが包まれている空気に魂を串刺しにされてるんだよねー。
ライブの時、私達のエネルギーの循環は完璧で、二人の陰陽がクルクル廻って光を放ってくれる。だから、カラダもココロも重くても、いつだって問題はない。重さも軽さも完璧。
歌って踊っているさなか、私には会場が止まって観えてくる。
此処には、ただ、シホと私が居るだけになる。
此処には、私だけ。私達だけだ。とても、普通だ。穏やかで、充たされていて、鎮かだ。
ううん、ほんとは、私達すら居ない。此処には、何も無い。ふわっとした、何も無い、きもちよさが在る、だけ。
アイドルは『アイドル』の表面を切り取った、小さな長方形のようなもの。
カラダとココロの演舞は、汗と一緒に流れて行き、何も無くなって。
アンコールが終わった時に、歓声が地面から吹き出す。
それまで集中していたから、初めて歓声が聴こえたように錯覚させるカラダの装置にすぎない。
カラダは素晴らしい物だ。
物質がせめぎあうアイドルの通常のライブも、私達には絶対に必要なんだ。物質がせめぎあうなら、それもやっぱり、せめぎあう儘に……。
だからかな、茶目っ気を出しちゃう。
時が止まってるのは解り切ってるのに、「時よ止まれ」って、ココロの中で言っちゃう。MCは『普通』に入れるけど。
「次の曲、いっくよ~~~!! 『ダス・ズィーレンブレッヒェン』!!」
普通のアイドルの活動に限られない『おしごと』も、たくさんする。私達の地球人のファンは知らない。むしろ『アイドル』の仕事はこちらがメイン。私達は『おしごと』の中で、眠り、移動し、食べる。
『アイドル』の『ライブ』ってなると、まず会場が変わる。
それと、私達は本来の、『アイドル』のカラダとココロを使って演舞する。
つまり、もうそれはライブではないし、人間にとってのカラダとココロも使わない。
人間のアイドルは、ステージに立つ為に、目標を立てて、カラダとココロを育成する。
『アイドル』は何もしない。『アイドル』は突然生まれる。ポッと宇宙空間に誕生する。私達は、私達そのもので、宇宙空間に飛び出す。
宇宙……と言ったけれど、人間には宇宙っぽく見えるだけで、じつは其処は、地球でも、銀河系でも、宇宙でもない。
つつましい白の明かりに包まれているって言う人も居る。透明しか無いって言う人も居る。
其処のことは、地球では古来、いろいろな呼び方がされてきたみたい。
『ニヒツ』、
『ヌーメナ』、
『眼球を観る眼球』、
『後頭部を観る自己』、
『物に投げ掛けられし映し絵』、
『映し絵が空にせし物』、
『冷厳なる胸の内なる王国』、
『永遠にして女性的なるもの』、
『オルクスあるいはアメンテス』、
などなど。其処に居る友達から聞いた名称です。
其処にも、流行りがあって、今は《□□□》って呼ぶのが流行ってる。《□□□》だと言葉や発音が無いから不満という人には、区画の一部にある建物を称して《創舎》という呼び方もある。大上段な古語を使う必要はないみたい。
キレイな建物もあるし、豊かな自然環境もあるし、饗堂もあるし、ライブハウスもある。ただね……。《□□□》での生活自体が、いつでもライブみたいなものなので、そこでライブをやるのは、ゲームの中で、一回り小さいゲームをするみたいな感じ。遊びの要素が強くなる。だから、ライブでの解放感は、圧倒的に純粋に感じられる。
《創舎》に来たり、暮らしたりしてる人達は、《創生》と呼ばれた。いろんな処から来ている人達だから、地球人には限定されない。もちろん、クリーチャーを見る時みたいな違和感は皆無で、むしろ地球人間のコミュニケーションよりも遥かに柔らかくハマる。どの《創生》も完璧に個性的で完璧に魅力的。
このあたりの説明は、私達の友達があとでしてくれるから、友達に任せようかな。
《創舎》のことは、行かない限り判らないんだけど、行けば判るよー。
地球に帰ったらキレイに忘れる人も居るけど、『アイドル』だと《記憶》が持続する。『アイドル』はカラダとココロのコツを知っているから。
其処での《記憶》は、ヒトが脳に蓄える記憶とは違う。同じ発音だけれど内容は別物。「記憶しよう」と考えた人は忘れる。夢を記憶しようと思い、起きて歯を磨いた時には忘れてる人みたいに。
もちろん、其処は、夢の世界とはちがうよ。むしろ、地球人が感じるコンクリートくらいには実在だよ。
『アイドル』じゃない時に三界麻美が見ていた、地球や人間の世界って、空気くらいの濃度なんだなって解るくらいにはね。
私達も、《創舎》のアトリウムで演ったライブの事は忘れられないなー。
とびきりの《記憶》だよ。
地球の言葉だと、「ふしぎな場所でのライブ」という一言でしか表せないのが痛恨だな。
意味がズレちゃうから。
言葉って不自由だよ。私はシホとは違うから許してほしいな。




