7スパイなキッド
「いつまでそうしているのだアリス」
「お兄様」
四人の前に穏やかな様子のレイヴィが現れた。
「ルーカスに食べて貰おうと昨日から張り切ってクッキーを作っていただろ? 早くテーブルへ案内しなさい」
レイヴィとルーカスは同い年ということで、爵位の差に関係なく仲が良い。
元より親同士がとても親しいらしい。
でなければどちらか一方の出自が不明瞭な娘達を婚約者候補になどしないだろう。
公爵家にはなんのメリットもないどころかデメリットしかない。
いくら親しいとはいえ、両方の娘を候補にして他の家の娘との縁談を断っている状況というのは、若干違和感を覚える。
「そうでした。ルーカス様、私の作ったクッキーをどうぞ召し上がって下さい」
「アリスが自ら作ったのか?」
「ええ。令嬢が厨房に立つなどはしたないとお兄様にはいつも叱られてしまいますが、私は大好きな方達に美味しいお菓子を食べて頂きたいです」
屈託のないアリスの笑顔には癒し効果があるらしい。
ルーカスは切れ長の目を細め、レイヴィも仕方ないなと優しく苦笑している。
「えっと、リオも一緒にどうかな?」
少し控えめにアリスが切り出した。
ディアナの後ろで退屈そうにしていたリオは、話題を振られて微かに肩を揺らす。
その場の全員が自分に注目していることに対して動揺したようで、オロオロしながらディアナへ縋るような眼差しを向けた。
そうすることで、必然的に注目はディアナに移る。
アリスは小動物のようにビクビクしながら注目される彼女へ上目づかいを向けた。
「ディアナは……私の作ったクッキーなんて、食べたくない、よね?」
「アリス、あいつを誘う必要などない」
冷たく打ち捨てたレイヴィの言葉に、ルーカスの顔に微かな驚きが浮かぶ。
元々仲が良いとは言いがたい兄妹であるが、彼が以前訪ねた時はここまで関係が冷え切ってはいなかった。
「お兄様……確かにディアナには家畜の餌以下だと最初に焼いたクッキーを笑いながら足で踏みつけられましたが、でも徹夜して最初のより上手なのが焼けましたし」
そのようなもったいないオバケに祟られそうなことは勿論しないが、相変わらずアリスの口から語られるディアナの鬼畜っぷりに感心する。
「呆れて物も言えないとはこのことだな。お前に同席する資格はない」
それはディアナにとっても望むところだ。
今のレイヴィやアリスとお茶をしたいと思える人間がいるならば、それは特殊な性癖の持ち主だろう。
「アリスの作った物を口にするなんて絶対にごめんですわ」
意地の悪い笑みで言い放った。
ほんの少しだけ、本心である。
アリスのお菓子は正直美味しくない。
とはいえ不味くもないのだが普段から伯爵家でプロの作る物だけを口にしてきた身としては、彼女の手作りは面倒なものだった。
粉っぽいし固いし甘ったるい。
ディアナは前世から素人が手作りで振舞うお菓子を苦手としていた。
家庭で揃う限られた道具と材料、浅い知識による腕前から弾き出される完成度は推して知るべし。コメントに寄せられる期待の眼差しが辛いというものだ。
「それではご機嫌よう」
ルーカスへの挨拶も済み一仕事終えた気分で退散しようとする。レイヴィの憎々しげな視線は無視だ。
「待って! リオは甘い物好きでしょう? 一緒に食べましょう」
(あ、そうだった……)
引き止めるアリスの言葉にリオが誘われていたことを思い出した。
しかし足を止めることなく歩き続ける。
勿論声をかけられたリオも当然のようにディアナの後を追う。
そのまま三人が見えない距離まで来て、ディアナはクルリと背後を振り返った。
「リオ、貴方アリスのクッキーを食べていらっしゃいな」
「え!? 何をおっしゃっているのですか姉様」
思ってもみなかったディアナの言葉に目を白黒させて驚く。
「いいことリオ。貴方は将来この伯爵家でお兄様の右腕として働くのよ。ルーカス様やお兄様と良好な関係を築くに越したことはないの。勿論アリスともよ」
「でもっ僕は姉様にあのように辛く当たるお兄様は嫌いです! ルーカス様はもっと嫌い!」
こちらに縋り付き何度も首を横に振る聞き分けのないリオにディアナはほとほと困る。
「久しぶりに甘いクッキーを食べられるチャンスなのよ?」
「姉様がご褒美に下さるお菓子の方がずっとずっと美味しいもん」
それはそうだ。だがそれはディアナの手柄ではない。普段から取り寄せているのが一般人ではとても手の届かない上級貴族御用達の有名な店のものというだけだ。
「それにアリスは僕らの敵です!」
「まだそんなことを……」
この弟がアリスを敵に回して命を落とすことだけは避けたいディアナ。
もう一度きちんと言い聞かせようとして、名案が浮かぶ。
「そうだわ。リオ、貴方アリスのところでスパイをなさい」
「……スパイ?」
やはりリオは男児である。
『スパイ』という何やらカッコイイ響きに興味を示す。
「そうよスパイ。アリスと仲良しのフリをして弱点を探るの。お兄様やルーカス様も騙す難しい任務よ」
眉間に皺を寄せ重々しく小声で語られる仕事内容にリオは目を輝かせて頷く。
しめしめと内心にんまりするディアナ。
「どう? 出来そうかしら?」
「僕やります! 姉様の為に頑張ります!」
「では貴方を今からスパイに任命します」
「はいっ!」
元気良く手を上げて返事をするお利口さん。
思わず崩れそうになる好相を引き締め「頼りにしてるわ」と告げると、一目散に駆けて行った。
単純過ぎる子分の背中を苦笑して見送る。
「さてと、私はどうしようかなぁ」
持て余した時間をどう過ごすか辺りをぶらつきながら考える。
このところリオのトレーニングに付き合い一人の時間というものを持っていなかった。
こんな時前世の記憶が戻る前の自分は何をしていただろうか……と考え、以前のディアナならば確実にアリスのお茶会を嬉々として引っ掻き回しに行っただろうと思い至る。
きっと手作りクッキーだって手が滑ったとか言いながら皆の前で床に全てばら撒いただろう。
今のディアナにとってげんなりする行動である。
そんなことをするくらいならば、まだ勉強でもしていた方がマシである。
大人しく部屋へ戻ると、家庭教師に勧められていた教材を開く。
将来伯爵家を追われた時、現在施されている教育はディアナの最大の武器となるだろう。
そう思うと俄然勉強にも力が入る。
調子が乗り始めた頃、コンコンと控えめなノックの音が響いた。
離れた場所にひっそりと控えていたディアナの部屋付きのメイドがドアを開けに行く。
「ディアナお嬢様。ルーカス様がお見えです」
メイドとしての教育の行き届いた感情の見えない声で告げられた内容に、思わず噛り付いていた机から勢いよく顔を離した。
「ルーカス様? ……お通しして」
ルーカスが自分からディアナの元へ出向いたことなど今まで一度もなかった。
というよりも彼女の方がルーカスへ積極的に纏わり付いていたのでその必要がなかったのだ。
だからまさかルーカスから訪ねてくるとは思いもしていなかった。
どこか信じられない面持ちで佇んでいる間に優秀なメイドはルーカスを部屋へ案内し、テキパキとお茶の用意をしてから退出してしまった。
「あの、どうされましたのルーカス様?」
お茶がセットされたテーブルにルーカスと向かい合って腰掛けたディアナは、戸惑いがちに尋ねる。
「いや、大した用事はない。ディアナが一人だけあの場にいなかったので様子を見に来ただけだ」
「まぁそうでしたの。お気遣いありがとうございます」
リラックスした様子でお茶に口を付けながら自然な口調で語るルーカス。
そんな様子にディアナは目を数度瞬かせる。
「あの後すぐにリオも来たのだが、ディアナはどうしたのか尋ねても挙動不審でな。それがどうにも気になったのだが、もしや勉強の邪魔をしたか?」
「いえ、丁度休憩を入れようと思っていたので。ところでリオの様子はどうでしたか? あの子お行儀よくしてましたか?」
その問いにルーカスはうーんと呻くように考える。
「どうだろうか……アリスのクッキーに文句を付けてレイヴィに叱られていたが」
「まぁ……」
「しかも文句を言いつつもクッキーは殆ど一人で平らげていたな。凄い量だったのでこちらとしては助かった……」
「まぁまぁ……」
「更に紅茶に砂糖を六つも投入した時は思わず恐れおののいてしまった」
「まぁまぁまぁ……」
次々と語られるリオの愚行に顔を引きつらせるディアナ。
明日のランニングは元から二倍の予定だが、それが一週間継続となることが決定した瞬間であった。