第35話かなしみ夜曲
【哀しみ】
風さやか 雲ぽっかり
若いころは ただの空だったのに
いまは なぜか胸にひびく
庭の木々が ゆれている
昔は ぼくが揺らしていた気がするのに
いまは 木々に揺らされている
忘れたはずの名前が
風の音といっしょに 戻ってくる
思い出せないことも 思い出せることも
どちらも 少しさびしい
【悲しみ】
悲しみを 消す涙
テレビの音を 少し大きくする
悲しみを 誘う涙
古い引き出しを そっと開ける
着なくなった背広のポケットから
若い日の切符が 一枚
どこへ向かうつもりだったのか
思い出せずに 笑う
友の名前を 年賀状で探す冬
減っていく枚数に指先が 止まる
いろんな涙 こぼれぬようにしても
勝手に にじむ
【愛しみ】
風のはて 雲のはて 木々のはて
そして
涙のはてに 愛しみ
妻の笑い声が 遠くの部屋から 聞こえる
その声だけで
今日も 生きていてよかったと思う
転ばぬように
ゆっくり歩く帰り道
夕焼けが やけにやさしい
若いころのぼくも 不器用だったが
いまのぼくも たいして変わらない
それでも こんなにも世界が
愛おしく見えるのは
きっと いろんな かなしみを
抱いてきたからだろう
いろんな かなしみがある
七十六年分の 静かな かなしみがある
それでも 風は 今日もさやかで
雲は ぽっかりと 浮かんでいる




