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「連れがドタキャンして、悪いなぁ」
「いえ、お待ちしておりました。佐山佳代様。お連れ様は体調不良とのこと、お大事になさってください」
ゲストハウスの受付で私を迎えたのは、フクロウみたいな目の青年だ。
私はここに来る前に美容院で染めた金髪ショートヘアの頭をちょいと下げる。
彼の名札に「鳥海心」とフルネームが書いてある。
「鳥」か。
やはり私の直感は冴えている。彼の癖のある髪が鳥の巣のようにも見えてきた。
もう七十二歳になる私からみると、彼はおそらく私の半分も生きていない。三十代くらいに見える、まだまだうら若い心くんは静かな声で言った。
「ゲストハウス、アクアマリンでは体調不良の場合、キャンセル料を頂いておりませんのでご安心ください」
全額支払いも覚悟していた私は、情のある対応にほっとした。チェックインの手続きを済ませると、心くんが部屋へ案内してくれる。
「こちらへどうぞ」
心くんは白のTシャツと細い黒ズボンというシンプルな服装が似合って、スタイルが良い。彼もそうだが、令和の若い子たちはなぜかみんな、死んだ旦那よりよほど男前でシュッとしている。なぜ時代でこうも体型が変わるのか、不思議だ。
「リビングやキッチンもぜひ自由に使って、お楽しみください」
「綺麗なところやなぁ」
「新築なのでピカピカです」
心くんが設備を手で示しながらやさしく微笑む。こんな若い子に礼儀正しく接してもらえるのも旅の楽しみのひとつだなと思うと、ドタキャンされて沈んでいた気持ちが少し上がる。
彼の後ろについて吹き抜けの広く清々しいリビングルームを歩きながら、大きなガラス窓の外を見つめる。
「晴れてたら、もっとええ景色やろうなぁ」
窓の外は灰色の海と曇天だ。
岡山県瀬戸内市にあるアクアマリンは、瀬戸内海に面した景観が売りの美しいゲストハウスである。海沿いにある紺碧色の建物は高級ヴィラのように品が良い。
窓から海に手が届きそうな体験に惹かれて、友だちと二人旅をするつもりでここを予約した。
けれど、一緒に来るはずだったはーちゃんは来られなかった。
心くんには体調不良と言ったが、本当は違うのだ。
「明日は晴れの予定ですから、青い海を楽しみにしていてください。あ、手を貸しましょうか」
七十を超えたら、足腰のどこかは痛くなる。ゆるやかな螺旋状の階段を一歩先に上る心くんが、歩みの遅い私を振り返って、心配そうに手を差し出した。だが私は、その手を取らない。
「このくらい平気や。せやないと、この歳で旅なんてでけへんよ」
「そうですか、失礼しました」
「でも、気を遣ってもらえるのは嬉しいんやで」
「でしたら次も、お節介な申し出だけはさせてください」
心くんがふわりと笑うと、黒目がちなフクロウの目がやわらかく細くなる。曇り空を押しのけて光が差すように彼の笑顔が輝いて見えた。
「あんたの人柄だけで、このゲストハウスがこれから流行るって確信したわ。私の直感は当たるで」
「本当ですか? ここを始めてまだ半年なので、そう言ってもらえると自信になります」
肩をすくめて少し照れたように微笑む心くんの好感度は抜群だ。彼を苦手だと思う人の方が少ないだろう。
彼に個室の中まで荷物を運んでもらった。どこも真新しく、青い海の底のような紺碧の壁紙に高級感がある部屋の中を眺める。やわらかそうな純白のシーツが敷かれたベッドが二つ、海に面する大窓からは海と空だけが見える。私はすぐに窓に寄って窓に手を当てた。
「ええ部屋やなぁ」
「ありがとうございます。潮風が苦手でなければ、窓を開けるとさざ波の音が聞こえますよ」
「心くんのやさしい声がすでにさざ波やわ」
茶化してみれば、穏やかな笑い声が返される。
「ふふっ、佐山さんは面白いですね。もしおひとりでお時間を持て余してしまうようなら、リビングでもぜひ寛いでください。僕で良ければ話し相手になりますよ」
「へぇ、心くんがわざわざ?」
「ゲストハウスは、ゲスト同士も、オーナーの僕とも距離が近い、そういう場所なので」
やわらかくそう言って、風呂の使い方や、ゲストハウスでは食事を提供していないことなどを手短に説明してから、心くんは部屋を出て行った。
静かに閉まったドアを見つめて、うんうんと感心してしまう。
「どこからどう見てもええ子やわ」
彼のおかげでやさぐれた気持ちが少しほぐれた。備え付けのポットで湯を沸かして緑茶を淹れた。二人掛けソファに一人で座り、静かな波を見ながらゆっくりと熱いお茶をすする。
「はーちゃんも来ればよかったのになぁ……心くんのこと、二人で言い合いたかったわ」
海に向かって独り言が増える。
もう三十年来の友だちのはーちゃんから昨夜、スマホに電話があった。施設の小さなワンルームで、私は彼女からの電話に出た。旅行鞄に荷物を詰めているところだった。
「もしもし、はーちゃん? 用意は順調か?」
私の問いかけに彼女は小さな声で答えた。
「佳代ちゃん、あのな、言いにくいんやけど……明日、行かれへんわ」
「え、どないしたん? 体調悪いんか?」
「いや、そのな……」
荷物を詰める手を止めて、小さなキッチンの向かい側にあるベッドに腰かける。彼女の声を待つ。言い淀んだはーちゃんがやっと口を開く。
「自信がなくなってしまってん」
「自信? 何の?」
「旅行に行く自信」
「……どういうこと?」
私とはーちゃんは元職場の同僚で、彼女は私より三つ年下だ。四十歳頃に職場で出会い、同じ兵庫県尼崎出身であることをきっかけに意気投合した。今でも私たちは尼崎に住んでいる。
退職してからも定期的に一緒にランチや旅行をする仲を続けてきた。いつも仲良くやってきたつもりなのに、急に旅行に行く自信がないというのはどういうことか。
「私がなんか嫌なことしてしもた?」
「そんなんちゃうねん。わたしこの前、転んで怪我したやろ? もう治ったはずやのにな、あれからたまに動けんくらい急にしんどくなることがあるって話してたやろ」
はーちゃんはヘルニアを患っていて、その治療中に転んだことでさらに悪化して手術にまで至った。けれどそれはもう一年も前のことだ。今では普通に生活していると報告を受けている。彼女は続けた。
「旅行に行ってな、急に体調不良になったらどうしようって考えて……佳代ちゃんに迷惑かけるのも嫌でな」
「もし旅先でたまたま体調崩したってそれは仕方ないことやんか。兵庫から岡山やで? 近いんやから、行ってみたらいけるって」
「うん、そんな遠くないのわかってる。そうやと思って、何回も考えたんやけど……でもやっぱり自信ないねん」
足腰は弱ってきたとはいえ、私ははーちゃんと比べれば健康体だ。彼女の不安を頭では理解できている。
けれど、そこで折れてほしくなかった。
「……そんなん言うてたら、どこも行かれへんようになるで?」
「せやな、そうやと思う……」
この歳になってくると気持ちで負けてしまったら、本当にもう出かけられなくなってしまう。彼女の声はどんどん小さくなってしまう。
「でもごめんな、佳代ちゃん。今回は行かれへん。キャンセル料は払うから、悪いけど一人で行ってくれる?」
はーちゃんが泣きそうな声でそう言うので、私はそれ以上、説得できなかった。はーちゃんとの旅行をまだ諦めたくないのは、私のエゴだろう。体調への不安は、私には解消してあげられない。
「わかった。ほんなら一人で、ええとこ泊まって来るわ」
「うん、楽しんできてや」
彼女が少し笑ってくれたので、ケンカせずに電話を切ることができた。けれど、ワンルームの小さな天井を見上げて大ため息をつく。
「あー……はーちゃんもかぁ……」
こうやって、友だちからドタキャンをくらうのは初めてではない。
同じことがここ三年で五回はあった。
私が歳を重ねるごとに、友だちももちろん老いていく。
夫の介護に手を取られたり、はーちゃんのように自身の体調不良で思うように動けなくなったりと高齢者の事情は大体似通ってくる。
そうやって遠出ができない事情が現れ、それに対応するうちに体力が衰え、二泊三日なんてとても行けないと言われ、近場で会う頻度さえ落ちていく。
ため息をつきながら立ち上がり、荷造りの続きに取りかかる。はーちゃんはキャンセルでも、私は旅行へ行くからだ。用意をしながら、胃の底からやるせない気持ちがわき上がり、口から飛び出た。
「結婚しても! 友だちおっても! いつかはどうせ、おひとり様や!」
やけくそになりながら、畳んだパンツを鞄に放り込む。テレビを見ていれば、独身を貫くおひとり様急増についてのニュースが流れてくる。
昭和時代の主流に乗った私は自由恋愛で結婚。子どもを二人授かり、マイホームを購入して、夫とローンを返した。
私は今でいうおひとり様とは程遠いはずだ。
けれど、夫はうらやましいほどぽっくりと先立ち、娘二人はなぜか外国人と結婚して海外に住んでいる。年に一度、会うか会わないかの距離は、もうひとりと同じだ。
娘たちは慣れない海外で子育てと自分の仕事に奮闘している。もう孫たちも大きくなっているが、娘たちは働き盛りで忙しいのは言わなくてもわかる。
老いた母親が一人で寂しいなどと、口が裂けても言いたくない。
旅行鞄のチャックを締めて、布団に入ってスマホを見る。二ヶ月ほど前に、上の娘からきたラインを開いた。
『お母さん、日本は異常に暑いから熱中症気をつけてね』
こうやって、気にかけてくれる娘がいることには救われている。
けれど、電話するにも時差があり、気を遣わせるのも嫌なので、「大丈夫」と書いたスタンプを一つ送っただけだ。
「あんたらに迷惑はかけへんからな。がんばりや」
そう呟いてスマホを切り、真っ暗なワンルームで寝返りを打った。隣の部屋からは「佐藤さーん、おむつ替えますねー!」とスタッフの明るい声が聞こえてくる。
子どもに世話にならない信念を貫くために、私は一年前にサービス付き高齢者住宅に入居した。体が動き、頭も明瞭なうちに、家を処分し、娘たちに生前贈与も済ませたのだ。
サービス付き高齢者住宅は六十歳以上なら「まだ介護を必要としていなくても」入居でき、外出も自炊も自由。けれど、体調が悪くなったり、何かトラブルがあったときは、常駐するスタッフが助けてくれて、必要があれば介護に繋いでくれる。
向かうところ敵なしの高齢者の味方の住居なのだ。
「やめぇてぇー!」
隣の部屋の女性、九十歳の佐藤さんはおむつ替えが嫌いらしく、毎晩叫んでいる。スタッフさんの苦労を私は知っていた。
「佐藤さんも、スタッフさんもお疲れ様やでー」
また寝返りを打ってから、壁の向こうへとエールを送る。佐藤さんはもう挨拶もまともにできない。近い将来、私も佐藤さんのようになり生涯を終えるのだろう。
終の棲家に住み、あとはスタッフの世話になって死ぬのは決まった。
だからそのときまでは、友だちと楽しく遊びたいだけだ。
けれど、肝心の友だちたちは、生きているのに遊ぶことができなくなってきている。
友だちたちは何も悪くない。自然なことだ。
わかっているけれども、どうしても、私だけがひとりになってしまったかのようで、受け入れがたいのだ。
アクアマリンという爽やかな青色の名前のゲストハウスで海を眺めながら、ぼんやりしてしまっていた。湯呑みの中の緑茶はすっかり冷めていて、飲む気が失せた。
「心くんに……晩ご飯の店でも紹介してもらおうか」
せっかく旅行に来たのに、一人で海を見ているとどうしても内へ内へと思考が沈む。立ち上がり、姿見の鏡の前でふと足を止めた。
はーちゃんのドタキャンで鬱屈とした気持ちを励ますために、いつかやってみたかった金髪にしてみたのだ。半分やけくそで染めた見慣れない金髪ヘアの私が、そこにいる。
「ふはっ、似合わんわ」
自嘲気味に出た笑いを呑みこんで、部屋を出た。




