第9話:悪臭の線(ルート)
【登場人物】
レオ / 処刑された元聖白教の異端審問官。黒髪に翠と金の目。黒い外套。ダラクローンと契約し、堕落のダンジョンで人々を解放する。
ノクス / ダラクローンの眷属。銀髪ボブに黒いゴシックドレス。ダンジョンの根幹を担っている。滅ぼされた魔法文明の魔法使いで、祈跡使いの聖白教の堕落を支援する。
アウレリア / 金色髪の聖女。聖白教オルドリア教区(王国の教区)と北の白塔をつなぐ聖務連絡官。普段は敬語を使う凛とした連絡官だが、ダンジョンの力で欲望が解放されてデレデレ?になってしまう。
【設定】
堕落のダンジョン / 神聖連合国の一国、グレイヴァルド王国の郊外地下に作られたダラクローンのダンジョン。欲望を満たすために、魔力によるダンジョンルームが仮設→生成され、人々を堕落させていく。
深夜のグレイヴァルド王国、王都。
その下街。
貧しい人々が暮らすこの区画には、独特の匂いがよどんでいる。
汚水の臭い、湿った木材の臭い、そして——隠しきれない『生活』の臭い。
「……ちょっとくさいねぇ、あなた様」
建物の屋根の上。
私の腕にぴったりとへばりつきながら、アウレリアが不機嫌そうに鼻を鳴らした。
彼女は今、黒のドレスの上に、闇に溶けこむための黒いフードを羽織っている。
アウレリアはまだ聖白教と縁を切ったわけではない。
信仰は捨てたが、職務としては変わっていないのだ。
顔を隠す必要はある。
まぁほどいた金髪が顔の片側を隠しているし、その上この様子……フードもあればわからないだろう。
普段からすると雰囲気が違う。
少し自由すぎるぐらいだ。
その下から伸びる手は、私のコートの袖を愛おしそうに撫で回している。
「臭いは我慢しろ。獲物が通る道だ」
「うん、わかってるよぉ。あなた様とのデートだもん、ゴミ溜めだって花畑みたいなものだよねぇ」
彼女は私の肩に頭を預け、クスクスと笑う。
相変わらずの耽溺ぶりだ。
だが、その目は笑っていない。
通りを見下ろす視線は、獲物を狙う猛禽類のそれだ。
「——来たよ。……あの『徴税官』が」
彼女が細い指先で指し示した先。
路地の向こうから、松明の明かりと共に、異様な集団が現れた。
武装した聖教騎士数名に守られ、中心をのし歩くのは、丸々と太った男だ。
王都の徴税官、ボルグ。
聖白教の神官服が悲鳴を上げるほどに膨張した腹。
脂ぎった顔。
彼は鼻をひくつかせながら、獲物を探している。
「……ここだ! ここから『不浄な油』の臭いがするぞ!」
ボルグが金切り声を上げ、ある一軒のボロ家の扉を蹴り開けた。
中から、老婆の悲鳴が上がる。
「お、おやめください! それは病気の孫のために……!」
「黙れ! 聖白教典において、日没後の獣脂の使用は禁じられている! これは没収だ!」
ボルグの指示で、騎士たちが家の中から小さな鍋を持ち出した。
中に入っているのは、ほんの少しの脂が浮いた、薄いスープだろう。
貧しい彼らにとって、それは数日分の栄養であり、命綱だ。
「お許しを……どうかお許しを……!」
「秩序を乱す異端者めが。神に感謝せよ、この場で処刑せぬだけ慈悲深いと思え!」
ボルグは老婆を蹴り飛ばすと、奪った鍋を大事そうに抱えこみ、中身を覗きこんだ。
その瞬間。
私は『視界強化』の魔法越しに、見てしまった。
奴が、鍋から立ち上る湯気を吸いこみ、下卑た舌なめずりをしたのを。
「……見たか、アウレリア」
「うん、見たよぉ。……気持ち悪い。あいつ、あのスープを『廃棄』なんてしないよ」
アウレリアが私の耳元で、呪詛のようにささやく。
「自分の屋敷に持ち帰って、夜中に一人で啜るんだよ。……『汚らわしい証拠品を、私の聖なる胃袋で浄化してやる』とか言い訳しながらね」
「腐っているな」
私は吐き捨てるように言った。
「まったくボルグ様は聖人だ」
聖教騎士のひとりが親しげに言う。
対するボルグもニヤついて返す。
「小隊長、貴様も聖人であろう」
「最もです。わーははは」
言いながらまた別の家に顔面をこすりつける。
「ここもだ」
そしてボルグはまた別の玄関を蹴り始めた。
「くくっ! ここからアブラの臭いがするぞぉ!」
「お待ちを! ワシはこれから仕事で」
「言い訳はいいわけなんだよぉ!」
そう言って丼ごと奪い取る。
どうやらヌードルのようだ。
「こいつぁ……まったくの異端だ! こいつ! 処刑されたいか!」
「おやめください! おやめください!」
聖教騎士が凄んで、剣を抜こうとする。
住民は涙を流しながら謝った。
「仕方ないなぁ! こいつはもらっていくぞ!」
奴は信仰心から取り締まっているのではない。
ただの『食欲』だ。
他人の食事を奪い、それを貪ることに倒錯的な優越感を感じている、卑しい豚だ。
「助けてあげないのぉ? あなた様ぁ」
「まぁ、待てアウレリア。勘違いしてほしくないのは、我々は決して正義の味方ではないということだ。我々は堕落させるために存在しているのさ」
ボルグの一行は、満足げに次の家へと向かっていく。
その後ろ姿を見送りながら、私は静かに怒りを燃やした。
単純な悪党ならまだいい。
だが、神の名を騙り、弱者のささやかな幸福を踏みにじる偽善者は——私の『理想』には不要だ。
そして彼……徴税官ボルグの背後に魔力のダーツを投げる。
これによって彼の視界はいつでも同調可能になった。
私は怒りを抑えながら、低く、つぶやいた。
「ノクス」
「はい、ここに」
背後の闇から、ノクスが音もなく現れる。
「奴の巡回ルートの先……『第四区画の広場』に罠を張る」
「準備は完了しています。ダンジョンへの転移……コードネーム『屋台(YATAI)』を展開します」
私は頷いた。
奴の鼻面を引きずり回すには、やはりダンジョンしかない。
暖簾をくぐった瞬間、こちらの領域に引きずりこむ。
「作戦開始だ。……アウレリア、君の出番だぞ」
「はぁ〜い」
アウレリアがフードを脱ぎ捨て、艶然と微笑んだ。
「ねぇ、あなた様。あの豚が罠にかかったら……私も『ご褒美』もらえるよねぇ?」
「成果次第だ」
「んふふ、厳しいなぁ。でも、そこが好き」
彼女は私の顔に軽く頬擦りすると、猫のような身軽さで屋根から飛び降りた。
闇夜に金髪がひるがえる。
「さあ、おいで豚さん。……こっちに、とびきり『堕落』した餌があるよぉ」
私は去っていくボルグに向かって指を鳴らす。
すると魔力の回路がまっすぐ飛んでいき、彼の頬に当たった。
「見せてもらおう。彼の鼻息が荒ぶる様を」
◇
数分後。
ダンジョンから私は視界同調を発動させた。
見えるのは第四区画広場。
徴税官ボルグは、上機嫌だった。
『(今夜の収穫は上々だ。)』
彼の心が聞こえる。
スープが三つ、干し肉が二つ。
腹の中にはヌードル。
もっと食いたいもっともっと。
歌うようにそう思考した。
聖教騎士たちも満足した様子。
私はその姿を、ボルグの視界を通して見ていた。
徴税官の足取りは軽い。
帰宅後の秘密の夜食、いや浄化の儀式が楽しみで仕方がない。
そんな様子だった。
「ふん、愚民どもめ。欲望を抑えきれぬとは、なんと浅ましい……ん?」
ふと、彼の巨大な鼻がピクリと動いた。
風に乗って、奇妙な匂いが漂ってきたのだ。
それは、今まで嗅いだことのない匂いだった。
強烈な獣臭。
だが、不快ではない。
脳の奥底にある、原始的な食欲中枢を直接鷲掴みにするような、暴力的で、抗いがたい『旨味』の匂い。
「な、なんだ……この匂いは……?」
ボルグの足が止まった。
部下の騎士たちには気づけない、彼の肥え太った嗅覚だけが捉える悪魔の芳香。
「お前たちは先に戻っていろ。私は……少し見回りをしていく」
「はっ! ですがお一人では……」
「くどい! これは高度な聖務だ!」
ボルグは騎士たちを追い払うと、匂いの元へとふらふらと歩き出した。
路地の陰になっている場所。
彼の目に映るのは濃い霧。
そしてその中に立つ……一軒の古びた……屋台。
赤提灯が揺れている。
そして、その暖簾の隙間から、黄金色の光と、あの暴力的な香りが漏れ出している。
「……背徳の、匂い……」
ボルグはゴクリと喉を鳴らした。
しかし、彼は少し目を見開いた。
「だが、なんだ? これは……」
そうだろう。
怪しい。
あまりにも怪しい。
けれど、彼の足は止まらない。
彼は吸いこまれるように屋台に近づき……震える手で、暖簾に手をかけた。
「……検分、だ。あくまで、検分……」
一歩足を踏み入れる。
暗転。
フッ、と空気が変わった。
それを彼は感じたようだった。
王都の冷たい風が消え、湿度のある、温かい空気に包まれる。
そこはもう、路地裏ではなかった。
私の支配する、ダンジョンの『胃袋』の中だった。




