第23話:本当の音
伊織の嗚咽。
それはやがて……静かに収まっていった。
どれほどの時間が経ったかわからない。
広間の燭台が揺れ、石床に伏せた伊織の背中が、ゆっくりと上下している。
深く、長い息の後。
顔を上げると、憑き物が落ちたような目をしていた。
泣き腫らした目だが、さっきよりずっと生きている。
「……すまない」
伊織が乾いた声でこぼした。
「飲もう。飲まないと、やっていられない気分だ」
「申し訳ありません」
ノクスが一礼しながら、困ったように微笑んだ。
「現在のダンジョンには酒類を生成する機能が未実装でして……。よく冷えたお水でもよろしいでしょうか」
伊織が半眼でノクスを見た。
「……マジか」
「マジでございます」
差し出された冷水のグラスを、伊織はまじまじと見つめた。
それから、覚悟を決めたように一気に飲んだ。
プハァッ、と盛大に息をつく。
「……水だな」
「水でございます」
「だよなー」
伊織が石床に腰を下ろし、膝を抱えた。
「まあ、いい」
伊織の視線が、遠いところを向いている。
私は何も言わず、待った。
「拙者は……本当の事が言いたかった! 今すぐ拙者の思いをすべてぶつけさせてくれ! 本当の思いを! 本当の気持ちを! 本当の感情を!」
——契約完了。
ドォォォォォォン、ダンジョンに轟音と揺れが響いた。
「堕落のダンジョンへ、ようこそ」
私が言うと、伊織はストン、と腰を下ろす。
そして泣いているのか笑っているのかわからない……複雑な表情を浮かべた。
なるほど。
これが『人』だ。
独特の時間が流れる。
ようやく……伊織はゆっくりと口を開いた。
「篠藤」
言葉があふれていく。
「育ての親だ。拙者が子どものころから、剣を教えてくれた爺さんだ」
伊織が語り始めた。
エィヴィスが結界を広げたのは、数年前のことだという。
最初は小さな規制。
朝の挨拶は笑顔で。
広場では常に笑顔で。
それがいつの間にか、笑顔でなければ消える、という絶対のルールになっていた。
「篠藤は不器用な爺さんでな」
伊織は冷水のグラスを両手で包む。
「笑顔を作るのが、とことん下手だったんだぜ。引きつった顔になるたびに、結界の祈力が光ってよ」
「ふむ」
「ある日、拙者が遠征から戻ったら、爺さんがいなかった。エィヴィスが言うには、素晴らしい昇進をした、だと」
伊織の手が、グラスを強く握った。
「笑えるか、そんな話が」
「……笑えない」
リュシエルが静かに答えた。
「……当然よ」
「でも拙者は笑ったぞ」
伊織の声が低くなった。
「素晴らしい昇進でしたね、って。笑顔でうなずいて、拍手までした。そうしないと、家臣たちが消えるからな」
静寂。
「ご主人ー」
夕霧が私の袖を引いた。
声が出ない、とでも言うような顔をしていた。
「……これ、ひどいですよー」
「ああ」
私も返す。
「ひどい話だ」
「明日は大鎧を……燃やせと」
伊織が続けた。
「聖魔大戦の英霊が纏った鎧だ。武国の誇りだ。笑顔のキャンプファイヤーの薪にして、住民全員で祝え、とよ」
伊織が自嘲するように口元を歪めた。
「拙者が自らの手で火を放つ。笑顔でな」
その時、広間の影が揺れた。
一人、また一人と、人影が増えていく。
エイレンの部下たちだ。
ダンジョンに収容された元守護騎士たちが、いつの間にか話を聞きながら集まってきていた。
気がつけば、伊織の周りに十人以上が車座になっている。
夕霧が小声で私に寄ってきた。
「なんだかお通夜みたいな空気になってきましたよー」
「……奇妙な光景」
リュシエルが広間を見渡した。
元騎士の一人が、伊織の肩を叩く。
「お前も辛かったな」
伊織が目を上げた。
「わかるぞその気持ち」
別の男が言った。
「オレたちも聖白教の規律に縛られてた。踊ってたやつとか、ただ鼻歌を歌ったやつとか……戒律を破ったやつを報告しろって命令されてよ、何度仲間を売ったか」
「笑いながら仲間を見送るなんて、地獄以外の何物でもないだろ」
「あの白い連中のルールは本当にクソだ」
同情ではなかった。
同じ地獄を知っている者の声だった。
伊織が、元騎士たちの顔を一人一人見た。
見知らぬ者同士が、真剣な目で自分を見ている。
「……お前ら、何者だ」
「元聖白教の騎士だ」
男が答えた。
「今はこのダンジョンに厄介になってる」
「元信徒じゃねぇか」
「元な。このダンジョンにいるのはみんな同じさ」
男が肩をすくめた。
「お前と同じで、ここに来てから目が覚めた人間だ」
伊織がしばらく黙った。
それから、ゆっくりと息を吐いた。
「……そうか」
短い言葉だったが、その声から何かが抜けていくのがわかった。
一人で抱えていたものが、溶けていくような声だった。
◇
「よっしゃ!」
次の瞬間、伊織が勢いよく立ち上がった。
顔が変わっていた。
「卑屈な笑顔も、引きつった仮面も、どこにもないな」とエイレン。
その通り。
目が輝いている。
熱く、豪快で、少しガサツな、本来の武士の顔だ。
涙を乱暴にそでで拭い、広間中に響く声で叫んだ。
「皆の者、聞いてくれて感謝する! 今日はとことん飲むぞ! 遠慮するな、拙者のおごりだーー!!」
「いや、だからここお酒ないですしー」
夕霧が即座に呆れ顔で言った。
「そもそもご主人のダンジョンだから、お金なんていらないんですけどー」
元騎士たちがドッと笑い声を上げた。
伊織が
「そ、そうか! じゃあ気持ちだけだ気持ちだけ!」
と頭を掻きながら叫び、また笑い声が広間に溢れる。
ノクスが「水のお代わりはいくらでも」と澄ました顔で言い、さらに笑い声が重なった。
さっきまでお通夜のようだったこの広間が、嘘のように明るかった。
◇
ひとしきりの騒ぎが落ち着いて……エイレンが立ち上がった。
部下たちの輪の外から、ゆっくりと伊織の前に進み出る。
しかしその目に、昨日までとは違うものが宿っていた。
「完全に本来のお前になったな」
エイレンが言った。
「ようやく戦士の目になった。己は、貴様のその勇気を認める」
伊織が正面からエイレンを見た。
笑ってはいない。
真剣な目だ。
「おう」
伊織が答えた。
「明日は拙者も……今の気持ちのまま臨もうと思う」
「やってみせろ」
「見ててくれよ」
短い言葉だったが、そこに嘘はなかった。
私は口角を上げた。
「極上の実りに仕上がった」
伊織が私を見た。
「レオ殿、とやら。あんたは何者なんだ」
「ただのダンジョンマスターだ」
私は答えた。
「あの狂った神官が一番絶望する形で、キャンプファイヤーを塗り替えてやる」
伊織が、今夜初めて本物の笑みを浮かべた。
昼間の引きつった笑顔ではない。
腹の底から来る、武士の笑顔だ。
「面白ぇじゃねぇか」
◇
翌朝、響野の広場に人が集まりだした。
完璧な笑顔の住民たちが、エィヴィスに命じられた通りに集合している。
広場の中央には薪。
台座の上に聖魔大戦の大鎧。
澄んだ朝の空気の中……その漆黒の鎧が静かに光を吸っている。
私たちは広場の外れから、その光景を見渡した。
「ご主人ー」
夕霧が私の隣で静かに言った。
「始まりますねー」
「ああ」
伊織が一歩前に出た。
背筋が伸びている。
昨夜とは別人だ。
完璧な笑顔を纏いながら、しかしその目の奥に、消えない炎が宿っている。
「行ってくるぜ」
伊織が振り返らずに手をひらひらさせる。
「頼んだぞ」
「任せておけ」
伊織が広場へと歩いていく。
住民たちの笑顔の波が、その背中を飲み込んでいく。
エィヴィスが遠くで手を上げ、「待ってましたよぉぉ!」と叫んでいるのが聞こえた。
私はノクスに目配せした。
ノクスが静かに頷く。
さて。
この街の空気を、根こそぎ書き換える。




