第7話:口誓/あまいあまいひと口
【登場人物】
レオ / 処刑された元聖白教の異端審問官。黒髪に翠と金の目。黒い外套。ダラクローンと契約し、堕落のダンジョンで人々を解放する。
ノクス / ダラクローンの眷属。銀髪ボブに黒いゴシックドレス。ダンジョンの根幹を担っている。滅ぼされた魔法文明の魔法使いで、祈跡使いの聖白教の堕落を支援する。
アウレリア / 金色髪の聖女。聖白教オルドリア教区(王国の教区)と北の白塔をつなぐ聖務連絡官。
【設定】
堕落のダンジョン / 神聖連合国の一国、グレイヴァルド王国の郊外地下に作られたダラクローンのダンジョン。欲望を満たすために、魔力によるダンジョンルームが仮設→生成され、人々を堕落させていく。
影のトンネルを抜けた先。
アウレリアが降り立ったのは、冷たい牢獄でも、拷問部屋でもなかった。
そこは、柔らかなランプの光が灯る、清潔な石造りの『とある一室』だった。
「ここは……?」
彼女は呆然と周囲を見渡す。
薄暗さに反して、ただよってくるのは……カビの臭いではない。
焼きたてのスポンジケーキと、甘いバニラの香りだ。
「ようこそ、アウレリア」
私は彼女の正面に立ち、両手を広げた。
「レオナルド様……あっ」
私の背後には、小さなワゴンが置かれている。
彼女はそれを見つめた。
そこには——彼女が夢にまで見たであろう、「本物の甘味」が山と積まれていた。
つややかな光沢を放つ苺のタルト。
濃厚なショコラケーキ。
粉砂糖をまとった焼き菓子。
ベリーのムースケーキもある。
聖白教の教義が『悪魔の誘惑』と断じた、極彩色の宝石たち。
「あ……」
少女の視線が釘付けになる。
ゴクリ、と喉が鳴る音が、静寂な部屋に響いた。
「ノクス、ルールの説明を」
「はい、旦那様」
影にひかえていたノクスが一歩進み出る。
彼女は事務的な口調で、しかしアウレリアの目を真っ直ぐに見て告げた。
「ここでの“堕落”——戒律の破棄は、貴女様の自由意志に基づきます。食べるも、食べぬも貴女様次第」
「自由、意志……」
「はい。必要なのは、貴女様の口による契約への同意……『口誓』のみ」
ノクスは淡々と、しかし決定的な一言を付け加えた。
「そして、ここでの行為は一切、『記録には残りません』」
アウレリアの肩が震えた。
「それってどういう……?」
「貴女の行動はあらゆる記録に残らない……つまり、これはあなたの今の立場を歪めるものではありません。貴女を貶めようとするものではないということです」
記録に残らない。
それはつまり、聖務連絡官としての立場も、本国への報告義務も、すべて忘れていいということだ。
「さあ、選べ……アウレリア」
私はワゴンから、ひと際美しいショートケーキの皿を手に取り、彼女の鼻先に差し出した。
「あの干からびた角砂糖に祈り続け、枯れていくか。それとも、ここで本当の自分を解放するか」
「わたし、は……」
私はショートケーキをそのまま口に運ぶ。
皿にのせず、フォークも使わずに頬張るという背徳。
彼女の視線がさまよう。
理性と本能の、最後の戦いだ。
彼女は自身の制服の胸元を、握り潰すほど強く掴んだ。
「だめ、です……わたしは、聖白教の……連絡官……」
「まだ自分を騙すのか? 君の体は、もう正直に叫んでいるぞ」
また口に運び、咀嚼し、嚥下する。
ケーキの甘い香りが、彼女の理性の壁を溶かしていく。
「アウレリア……願うんだ。神にじゃない、君自身の人生に。君自身の心に。なにより……君自身に!」
「レオナルド、様……ッ!」
彼女の瞳から涙があふれた。
それは悲しみの涙ではない。
決壊の涙だ。
「誓います……! わたし、は……!」
彼女は叫んだ。
「甘いものが……食べたかった……!!」
——契約成立。
「堕落のダンジョンへ、ようこそ」
その瞬間、ダンジョンの魔力が彼女を包みこんだ。
私は無言で、ケーキの皿とフォークを彼女に手渡す。
彼女は震える手でフォークを握り、真っ白なクリームとスポンジを掬い上げ——口へと運んだ。
一口。
たった一口だ。
「んッ……!?」
彼女の動きが止まった。
目が見開かれ、そして——とろりと溶けた。
「あ……甘い……」
脳髄を焼くような糖分の奔流。
我慢に我慢を重ねた彼女にとって、それは劇薬にも等しい快楽だった。
彼女の体から力が抜け、その場にへたりこむ。
同時に、変化が起きた。
シュルル、と音がして、彼女の髪を縛っていた堅苦しい三つ編みが解けた。
黄金の髪が波打ち、彼女の顔にかかる。
片目を隠すような、艶めかしいウェーブヘア。
さらに、白を基調としていたシスターローブが光に包まれ、再構成されていく。
現れたのは、肩と背中を大胆に露出した、黒と金を基調とする優雅なドレスだ 。
「……ふふ」
アウレリアが顔を上げた。
そこに、かつての鉄仮面はいなかった。
頬を紅潮させ、潤んだ瞳で私を見上げる、一人の『少女』がいた。
「美味しい……美味しいよぉ、あなた様ぁ……」
私への呼称が変わった。
「わたしぃ、聖白教の教義よりも、こっちのほうが大切だったんだぁ……
声色も、事務的だったものから、蜜のように粘度のある甘い響きへと変わっている。
「そうか。これが……本来の、君の……アウレリアの姿か」
「そうだよ。ねぇ……もう、我慢しなくていいんですよねぇ? ……全部、あなた様のせいなんだからぁ」
本来の彼女は年齢よりももっと幼い……隠して殺し続けていた幼い頃の自分なのだ。
それを今、さらけ出した。
隠していた真の自分を。
アウレリアは猫のように私の足にすがりつき、頬を擦り寄せた。
「愛しています……わたしの共犯者様。これからは、わたしのすべてをあなた様に捧げますぅ」
完全に、堕ちた。
……かに見えた。
違う。
これが彼女の本性だ。
抑圧の枷が外れ、私への歪んだほどの愛情があふれ出した姿。
「あぁ、いい子だ。存分に味わえ」
私が彼女の頭を撫でた、その時だ。
「素晴らしいですね」
ノクスの声。
ズズズ……と、ダンジョン全体が低く唸り、壁の一部が歪み始めた。
「旦那様、報告します」
ノクスが冷静な声で告げた。
「アウレリア様の堕落……解放を確認。トリガー条件を達成しました」
「トリガー?」
「はい。欲望の魔力が充填されたのです。これより、報酬として——ダンジョンに新たなエリア『秘密のお茶会』が自動生成されました」
壁がスライドし、新たな通路が現れる。
その奥からは、ここよりもさらに芳醇な、焼き菓子の香りが漂ってきた。
「なるほど……。誰かを深く堕とせば、人物に深く封じられていた欲望という名の魔力が流れこみ、ダンジョンが拡張される仕組みか」
私はニヤリと笑った。
糧食……これからダンジョンを拡大させ、人々を堕落させるには食べ物が必須だ。
あの『秘密のお茶会』には菓子だけではない……無限の糧食が供給されるというわけだ。
私の腕の中で、アウレリアがうっとりと囁いた。
「……もっと、食べてもいいのぉ……? あなた様……」




