第3話:堕落日記
【登場人物】
レオ / 処刑された元聖白教の異端審問官。黒髪に翠と金の目。黒い外套。ダラクローンと契約し、堕落のダンジョンで人々を解放する。
ノクス / ダラクローンの眷属。銀髪ボブに黒いゴシックドレス。ダンジョンの根幹を担っている。滅ぼされた魔法文明の魔法使いで、祈跡使いの聖白教の堕落を支援する。
【設定】
堕落のダンジョン / 神聖連合国の一国、グレイヴァルド王国の郊外地下に作られたダラクローンのダンジョン。欲望を満たすために、魔力によるダンジョンルームが仮設→生成され、人々を堕落させていく。
「——お待たせいたしました、旦那様」
ノクスの声と共に、ワゴンが運ばれてきた。
その瞬間、鼻腔をくすぐったのは、暴力的なまでに芳醇な『香り』だった。
アブラの甘い匂い。
煮こまれた肉の野性的な獣臭。
そして、香辛料の刺激。
バターの濃厚な香り。
清貧を旨とする聖白教の食卓では、決して嗅ぐことのできない「夜の匂い」だ。
「……こいつは凄いな」
テーブルに置かれた皿を見て、私はゴクリと喉を鳴らした。
『ニンニクのきいたハラミとサーロインのステーキ』。
ステーキがのる鉄板の表面には黄金色の脂の膜が張り、湯気と共に濃厚な香りを立ち上らせていた。
『特濃デミグラス・タンシチュー』。
深皿の中で、褐色のスープがグツグツと音を立てている。
スプーンを入れるまでもなく分かる。
中には、トロトロになるまで煮こまれた牛タンが、ゴロゴロと沈んでいるはずだ。
「聖白教典・第1810禁忌。『日没後に、脂の浮いた獣肉を食してはならない。それは魂を重くし、祈りの翼を折る悪魔の糧なり』……でしたか?」
ノクスが涼しい顔で、スラスラと禁忌の条文を暗唱する。
「ああ、その通りだ。私は異端審問官時代、この匂いを漂わせた屋台をいくつも取り締まり、鍋をひっくり返させてきた」
「なんと。食べ物を粗末にするとは」
「全くだ。……今の私なら、過去の自分をギロチンにかけるね」
私はスプーンを手に取った。
震える手で、褐色のスープと肉塊をすくい上げる。
時刻は深夜二時。
聖白教徒であれば、水一杯ですらためらわれる「禁欲の時間」だ。
「——いただきます」
神ではなく食材に祈る。
初めての経験。
私は一気に、その『悪魔の糧』を口へと運んだ。
——爆発。
口の中に広がったのは、圧倒的な「旨味」の洪水だった。
濃厚なソースが舌に絡みつき、脂の甘みが脳髄を直撃する。
肉は噛む必要すらない。
舌の上でホロホロと崩れ、繊維の奥から肉汁があふれ出してくる。
「…………ッ」
声が出ない。
ただ、アツい塊が食道を通って胃袋に落ち、空っぽだった体が内側から燃え上がるのを感じる。
生きている。
血液が巡り、細胞が歓喜の声を上げている。
「いかがですか、旦那様」
「……ああ。美味い」
「……じゅるり」
「なぜ君がじゅるりを……君が作ったのではないのか?」
「作りましたが、こんなに上手くできるとは……しかし」
ノクスはひと呼吸おいて続けた。
「早く食べ物に関するダンジョンルームを拡張したいですね」
「欲望の力が強いほど、ダンジョンルームに影響するのだったか?」
「はい」
「それなら、問題ない。聖白教の信者なら誰もが強く思っている感情だ」
私はスプーンを止めることなく、夢中でシチューをかきこんだ。
そして持ちかえてナイフとフォーク。
またスプーン。
ああ、いそがしい!
「罰も、神の怒りも無い。あるのは、空腹が満たされるという、充足だけだ」
「魂は重くなりましたか?」
「いや……むしろ、翼が生えた気分だ」
私は付け合わせの黒パンをソースに浸し、皿が綺麗になるまで拭って食べた。
最後の一滴まで、この「堕落」を味わい尽くすために。
◇
食欲だけではない。
私はリハビリと称して、聖白教が禁じたいくつかの『戒律』を次々と破っていった。
ある夜は、『音楽』だ。
私はダンジョンの倉庫から古い弦楽器を引っ張り出し、調律もそこそこに爪弾いた。
聖白教が許すのは、単調で眠くなるような賛美歌のみ。
だが、私が奏でたのは、かつて古代魔法文明で流行したという(ノクスが教えてくれた)アップテンポで情熱的な舞踏曲だ。
『悪いものを持ってみんな集まってこいよ♪』
激しいリズム。高揚する旋律。
『ハローハローハロー、今どれだけ堕落している?♪』
指先が熱くなる。心臓が早鐘を打つ。
『明かりが消えることは危険じゃない♪』
ノクスがそれに合わせて、無表情のまま座って手拍子を打つ。
『最高に馬鹿馬鹿しい気分だ♪ 感染していく♪』
「『音楽を奏でて熱唱してはならない』……でしたか。情熱的な音楽は、理性を曇らせると」
「逆だ、ノクス! 心が震える! 血が熱くなる! これが『罪』だというのなら、人間は生まれながらにして罪人だ!」
私は弦が切れるほどにかき鳴らした。
音の波に身を任せる快感。
それは、私の心が長い冬眠から目覚めた瞬間だった。
◇
そして、今。
記念すべき三度寝から起きた私はあくびをしながら立ち上がった。
風呂にも入ってないし、寝巻きだ。
髪も整えていないし、到底、人と会う格好ではない。
「第28631禁忌、大きな口をあけてあくびをしてはならない……か」
私はダンジョンの一室を訪れた。
ここにはダラクローンの祭壇があり、壁には星々が映る夜空のようなものが映し出されている。
宇宙だろうか?
恐らく魔力による幻影。
きらめく星々を見ながら、私は思考した。
(こってりした食事。心躍る音楽。甘い菓子。夜更かし。二度寝。風呂キャン)
ペン先を走らせながら、私は確信する。
聖白教が『堕落』と呼んで禁じたもの。
それはすべて——人間が“本当はしたかったこと”だった。
奴らは、それを『罪』という名の鎖で縛りつけ、管理し、支配してきた。
我慢することこそが美徳だと教えこみ、人から生きる活力を奪ってきたのだ。
(ならば、定義しよう)
私は祭壇にあった空白の本に書き記す。
『この堕落のダンジョンは、罰の場ではない』
聖白教のくだらない戒律に苦しむ人々が、本当の自分を取り戻すための、世界で唯一の避難所。
それが、私がここを作る意味だ。
残ったのは。
パタン、という残響だけ。
『ここは、“救い”の場である』
私自身の『リハビリ』は終わった。
星々の瞬き。
賞賛しているかのように輝く。
心身ともに充実している。
ならば、次は——誰かを招く番だ。
「ノクス」
「はい、旦那様」
ひかえていたノクスが、一枚の羊皮紙を差し出した。
そこには、私が事前にピックアップさせた『要注意人物』……いや、『救済対象』のリストが記されている。
「最初の『お客様』の準備だ」
私はリストの最上段にある名前を、指でトントンと叩いた。
かつての私の部下。
真面目で、有能で、そして誰よりも「甘いもの」に飢えているはずの女。
「——聖務連絡官、アウレリア・ネーヴ」
私はニヤリと笑った。
「彼女を堕とす。……とびきり甘いケーキを用意しておいてくれ」




