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第2話:堕落日記

【登場人物】


レオ / 処刑された元聖白教の異端審問官。黒髪に翠と金の目。黒い外套。ダラクローンと契約し、堕落のダンジョンで人々を解放する。


ノクス / ダラクローンの眷属。銀髪ボブに黒いゴシックドレス。ダンジョンの根幹を担っている。滅ぼされた魔法文明の魔法使いで、祈跡使いの聖白教の堕落を支援する。


【設定】

堕落のダンジョン / 神聖連合国の一国、グレイヴァルド王国の郊外地下に作られたダラクローンのダンジョン。欲望を満たすために、魔力によるダンジョンルームが仮設→生成され、人々を堕落させていく。


「——お待たせいたしました、旦那様」


 ノクスの声と共に、ワゴンが運ばれてきた。


 その瞬間、鼻腔をくすぐったのは、暴力的なまでに芳醇な『香り』だった。


 アブラの甘い匂い。


 煮こまれた肉の野性的な獣臭。


 そして、香辛料の刺激。


 バターの濃厚な香り。


 清貧を旨とする聖白教の食卓では、決して嗅ぐことのできない「夜の匂い」だ。


「……こいつは凄いな」


 テーブルに置かれた皿を見て、私はゴクリと喉を鳴らした。


 『ニンニクのきいたハラミとサーロインのステーキ』。


  ステーキがのる鉄板の表面には黄金色の脂(あぶら)の膜が張り、湯気と共に濃厚な香りを立ち上らせていた。


 『特濃デミグラス・タンシチュー』。


 深皿の中で、褐色のスープがグツグツと音を立てている。


 スプーンを入れるまでもなく分かる。


 中には、トロトロになるまで煮こまれた牛タンが、ゴロゴロと沈んでいるはずだ。


「聖白教典・第1810禁忌。『日没後に、脂の浮いた獣肉を食してはならない。それは魂を重くし、祈りの翼を折る悪魔の糧なり』……でしたか?」


 ノクスが涼しい顔で、スラスラと禁忌の条文を暗唱する。


「ああ、その通りだ。私は異端審問官時代、この匂いを漂わせた屋台をいくつも取り締まり、鍋をひっくり返させてきた」


「なんと。食べ物を粗末にするとは」


「全くだ。……今の私なら、過去の自分をギロチンにかけるね」


 私はスプーンを手に取った。


 震える手で、褐色のスープと肉塊をすくい上げる。


 時刻は深夜二時。


 聖白教徒であれば、水一杯ですらためらわれる「禁欲の時間」だ。


「——いただきます」


 神ではなく食材に祈る。


 初めての経験。


 私は一気に、その『悪魔の糧』を口へと運んだ。



 ——爆発。



 口の中に広がったのは、圧倒的な「旨味」の洪水だった。


 濃厚なソースが舌に絡みつき、脂の甘みが脳髄を直撃する。


 肉は噛む必要すらない。


 舌の上でホロホロと崩れ、繊維の奥から肉汁があふれ出してくる。


「…………ッ」


 声が出ない。


 ただ、アツい塊が食道を通って胃袋に落ち、空っぽだった体が内側から燃え上がるのを感じる。


 生きている。


 血液が巡り、細胞が歓喜の声を上げている。


「いかがですか、旦那様」


「……ああ。美味い」


「……じゅるり」


「なぜ君がじゅるりを……君が作ったのではないのか?」


「作りましたが、こんなに上手くできるとは……しかし」


 ノクスはひと呼吸おいて続けた。


「早く食べ物に関するダンジョンルームを拡張したいですね」


「欲望の力が強いほど、ダンジョンルームに影響するのだったか?」


「はい」


「それなら、問題ない。聖白教の信者なら誰もが強く思っている感情だ」


 私はスプーンを止めることなく、夢中でシチューをかきこんだ。


 そして持ちかえてナイフとフォーク。


 またスプーン。


 ああ、いそがしい!


「罰も、神の怒りも無い。あるのは、空腹が満たされるという、充足だけだ」


「魂は重くなりましたか?」


「いや……むしろ、翼が生えた気分だ」


 私は付け合わせの黒パンをソースに浸し、皿が綺麗になるまで拭って食べた。


 最後の一滴まで、この「堕落」を味わい尽くすために。


          ◇


 食欲だけではない。


 私はリハビリと称して、聖白教が禁じたいくつかの『戒律』を次々と破っていった。


 ある夜は、『音楽』だ。


 私はダンジョンの倉庫から古い弦楽器を引っ張り出し、調律もそこそこに爪弾いた。


 聖白教が許すのは、単調で眠くなるような賛美歌のみ。


 だが、私が奏でたのは、かつて古代魔法文明で流行したという(ノクスが教えてくれた)アップテンポで情熱的な舞踏曲だ。


『悪いものを持ってみんな集まってこいよ♪』


 激しいリズム。高揚する旋律。


『ハローハローハロー、今どれだけ堕落している?♪』


 指先が熱くなる。心臓が早鐘を打つ。


『明かりが消えることは危険じゃない♪』


 ノクスがそれに合わせて、無表情のまま座って手拍子を打つ。


『最高に馬鹿馬鹿しい気分だ♪ 感染していく♪』


「『音楽を奏でて熱唱してはならない』……でしたか。情熱的な音楽は、理性を曇らせると」


「逆だ、ノクス! 心が震える! 血が熱くなる! これが『罪』だというのなら、人間は生まれながらにして罪人だ!」


 私は弦が切れるほどにかき鳴らした。


 音の波に身を任せる快感。


 それは、私の心が長い冬眠から目覚めた瞬間だった。



          ◇




 そして、今。


 記念すべき三度寝から起きた私はあくびをしながら立ち上がった。


 風呂にも入ってないし、寝巻きだ。


 髪も整えていないし、到底、人と会う格好ではない。


「第28631禁忌、大きな口をあけてあくびをしてはならない……か」


 私はダンジョンの一室を訪れた。


 ここにはダラクローンの祭壇があり、壁には星々が映る夜空のようなものが映し出されている。


 宇宙だろうか?


 恐らく魔力による幻影(ヴィジョン)。


 きらめく星々を見ながら、私は思考した。


(こってりした食事。心躍る音楽。甘い菓子。夜更かし。二度寝。風呂キャン)


 ペン先を走らせながら、私は確信する。


 聖白教が『堕落』と呼んで禁じたもの。


 それはすべて——人間が“本当はしたかったこと”だった。


 奴らは、それを『罪』という名の鎖で縛りつけ、管理し、支配してきた。


 我慢することこそが美徳だと教えこみ、人から生きる活力を奪ってきたのだ。


(ならば、定義しよう)


 私は祭壇にあった空白の本に書き記す。


『この堕落のダンジョンは、罰の場ではない』


 聖白教のくだらない戒律に苦しむ人々が、本当の自分を取り戻すための、世界で唯一の避難所(シェルター)。


 それが、私がここを作る意味だ。


 残ったのは。


 パタン、という残響だけ。


『ここは、“救い”の場である』


 私自身の『リハビリ』は終わった。


 星々の瞬き。


 賞賛しているかのように輝く。


 心身ともに充実している。


 ならば、次は——誰かを招く番だ。


「ノクス」


「はい、旦那様」


 ひかえていたノクスが、一枚の羊皮紙を差し出した。


 そこには、私が事前にピックアップさせた『要注意人物』……いや、『救済対象』のリストが記されている。


「最初の『お客様』の準備だ」


 私はリストの最上段にある名前を、指でトントンと叩いた。


 かつての私の部下。


 真面目で、有能で、そして誰よりも「甘いもの」に飢えているはずの女。


「——聖務連絡官、アウレリア・ネーヴ」


 私はニヤリと笑った。


「彼女を堕とす。……とびきり甘いケーキを用意しておいてくれ」


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