旅人―― ブライダル・ガーデン②
部屋の戸口に上品な雰囲気の老婦人が姿を見せた。この女性も着物を着ていない。洋装でいる。服の裾丈は真衣子のそれより長いものの、はやり足を見せている。…………。
老婦人は穂波に会釈して、ベッドに近づいた。
「家内のとわ子です」
秋彦氏が夫人を紹介してくれた。
穂波も会釈を返し、
「ご迷惑をおかけしました」
そろそろと体を動かして床に素足をつけ、立ち上がった。白髪の秋彦氏が自分とほぼ同じくらいの背丈であることに気づいた。
とわ子夫人がベッドサイドの小抽斗から何かを取り出した。
「お寝みになるのにご窮屈かもしれないと思いまして、外させていただきました」
サスペンダーだった。穂波が礼を言い、それをズボンに付けていると、背後に立つ真衣子が言った。
「このシャツ。背中のところに刺繍が入ってますよね。漢字三つが組み合わさったデザインの」
その声には、かすかに、緊張の響きがある。
「どうして、これ、着てらっしゃるんですか?」
「どうして――?」
「これ、買ったんですか? ネットのフリマですか?」
「……買ったものではありません」
「おなかが空いていらっしゃるでしょう」
とわ子夫人が聞いてくれた。
「いえ」
じっさい、空腹ではなかった。喉が渇いているだけだった。
「遠慮なさらずに」
「お気遣い、ありがとうございます。あの……私は、どこかで行き倒れ一歩手前のような、そんな状態にでもなっていたんでしょうか?」
「行き倒れだなんて」
秋彦氏が夫人と顔を見合わせ、苦笑した。
「ただの熱中症ですよ。クリニックの先生もそうおっしゃってました」
真衣子がことばを挟んだ。
「堂本さん、櫻醉苑の庭先に蹲ってて」
オウスイエン。さっきも耳にした、と穂波は思った。自分の筆名を連想させる音韻ではあるが、鷗水園、あるいは央水園だろう。翁睡苑かもしれない。名称が何であれ、今日の午後、自分はそこにいた。どんな場所なのだ?
「オウスイエンとは、何ですか? どんな所なんですか?」
答えてくれたのは秋彦氏だった。
「望月櫻醉の住居を保存したものです」
住居……保存……。
穂波の足裏から床を踏む感覚が消えた。
「櫻醉苑は堂本ブライダル・ガーデンの一部になっています。なんというか……奇跡的な場所ですね。関東大震災の被害も空襲もまぬがれたというのは」
「望月櫻醉さんは、あたしの曽いお祖父ちゃま、じゃなかった、曽い曽いお祖父ちゃま」
真衣子が微笑んだ。
心臓が跳ねた。この娘は何の話をしているんだ?
「はい。真衣子の高祖父にあたる人です。家内と私の祖父です。家内と私はいとこ同士でして。――望月櫻醉の実名は堂本穂波といいます。偶然にも、あなたと同姓同名です」
秋彦氏が言う。
「堂本さんが着ていらっしゃるシャツのことですが――」
そう話しはじめたのは、とわ子夫人だった。
「真衣子がうるさくお尋ねして、ご不快に思われているかもしれませんが、実は、主人も私も気になっておりまして。ご存じでしょうか、お背中のその刺繍は背守り縫いと呼ばれるものです。祖母が私の父に同じものを遺してくれていまして。同じ、というのは、デザインのことですが」
秋彦氏が夫人のことばを引き取った。
「穂と彦と雪の漢字を巴に組んだモチーフを、祖母はほかの衣類や小物類にも刺繍しています。ずいぶんたくさんこしらえたようですので、そのうちのいくつかが、何かの理由でよそさまへ渡った可能性があります。モチーフのデザインだけ、誰かがコピーしたのかもしれません」
「可能性っていうか」真衣子が言った。「それしかないじゃない。そう考えないと、わけわかんない」
「話のつづきはリビングで」
秋彦氏が言った。




