旅人―― ブライダル・ガーデン①
まどろみながら穂波は闇のなかを泳いでいた。
両手で闇をかきわけて進んでいた。
足もゆっくりと動かしていた。
闇の濃さが少しずつ薄れ……
穂波は目覚めた。
「ああ、よかった!」
「お目覚めになられましたか」
眼鏡をかけた白髪の老人と、二十歳くらいの娘。見知らぬ二人がこちらの顔を覗きこんでいる。
「ご気分はいかがですか? 眩暈や吐き気、ありませんか?」
老人のまなざしはやさしげだった。
状況がのみこめず、いいえ、という簡単な一言が出てこない。
「だいじょうぶですか?」
老人にもう一度きかれて、穂波は「はい」と返事をしていた。自分がホテルの一室のような部屋にいて、清潔なベッドに横になっていることに気づいた。室内は薄暗い。枕辺にシェードの付いた電灯が灯っているだけだった。
電灯がついている――穂波は、はっとして、半身を起こした。
「今、何時でしょうか?」
四十八時間以内に帰る。彦乃に約束したのだ。急がなくては。
老人はズボンのポケットからシガレットケースを取り出した。
「そろそろ十時です」
「夜の十時? 五月二十七日の十時?」
「そうです」
あと二十四時間、と穂波は計算した。
だが、ここはどこなのか? ホテルの一室なのか?
「ここは……どこですか?」
「私どもの家です。櫻醉苑の近くですよ」
「オウ……スイエン?」
「あたし、あそこでバイトしてるんです。堂本さん、あそこで熱中症みたいなのになっちゃってて」
娘が言った。なぜか目が輝いている。
「どうして……私の名前をご存じなのですか?」
答えたのは老人だった。
「クリニックで先生から問診を受けられたとき、あなたがおっしゃったので」
「クリニック……問診……?」
「まだ少し混乱していらっしゃるようですね」
混乱。確かに。穂波は気分を落ちこませた。艦砲の撃ち合いが始まったあと何が起きたのか、思い出せずにいる。三笠の艦橋から海上へ引きずられ、いくつかの正体不明の力に翻弄されたような記憶があるだけだった。
穂波は同じ問いかけをするほかなかった。
「ここはどこなのですか?」
「ですから、私どもの――」
老人は顎をさすった。
「ここは都内です。港区芝」
芝!
安堵が穂波の体を軽くした。
「何か大変なご迷惑をおかけしたようです。申し訳ありません。私の家は近所です。近所、だと思います」
「えっ! そうなんですか?」
娘が弾んだ声を出した。
穂波は娘が妙な恰好をしていることに気づいた。娘は着物を着ていない。洋装でいる。――いや、洋装なのか? 穂波の目には奇異に映る。服の裾丈が短く、素足が見えているのだった。服の袖もえらく短い。どこの国の流行を取り入れたものなのか?
奇妙な音がした。老人のシガレットケースが鳴っているのだった。――いや、これはシガレットケースではないのか?
「失礼します」
老人は穂波に断ってから、シガレットケースに似た何かを耳に当てた。
「はい、堂本です」
驚いて穂波は老人を見た。老人は微笑んでうなずいた。
「今ちょっと取り込んでおりまして。後ほど折り返します」
小さな道具は老人のポケットに戻された。
「申し遅れました。私は堂本秋彦と申します。偶然にも同姓同士ですね。こちらは孫の真衣子です。――スマホはお持ちですか?」
「何ですか?」
秋彦氏は、たった今ポケットにしまった道具をまた取り出した。
「これ、使ってください」
「――?」
「ご家族に連絡なさっては?」
秋彦氏が差しだす道具を穂波はじっと見つめた。ただ「わかりません」と言っていた。その反応をどのように解釈したのか、秋彦氏は「そのうち思い出されるでしょう」と言って、それをひっこめた。




