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五月の海―― 測距儀⑥

 バルチック艦隊は北北東へ進路をとっている。本郷が率いる連合艦隊は右舷をこちらへ向けながら、艦首を東からやや南へ向けて距離を縮めてくる。五千メートルを切ったあたりから、本郷艦隊の砲撃の命中率があきらかに高まっている。今、両艦隊は三千メートルも離れていない。


 旗艦スワロフの艦首で、チャイカは苛立っていた。今すぐにでもスワロフを離れて三笠の艦上へ飛びたい、と考えている。だが、それができない。三笠とその周辺の上空を魔獣たちに占拠させるという作戦が、うまくいっていない。さらに、Sutokuが強い風を起こしている。チャイカは三笠に近づけずにいた。


 戦闘の火蓋が切られてからずっと、チャイカは三笠の艦橋に目を凝らしている。奇妙だ、と感じている。なぜあの艦橋は被弾しない? 吹きさらしの艦橋上にいる本郷と将校たちは無傷でいる。どうしてだ? 被弾せずとも、砲弾の破片や破壊された装備の破片が、凶器となって飛び交っているというのに。


 なぜ本郷は、余裕の表情と姿勢で、大和帝国海軍のすべての将校たち、すべての兵士たちの先頭に立ちつづけていられるのだ?


 ……そうか。

 チャイカは思い至った。守護神がいるのだ。その姿がこちらから見えないのは、あの小賢しいサマルカンドからの流れ者が術をほどこしたからなのだろう。――あるいは、一時的に、あの流れ者の分身に仕立てられているのかもしれん。


 穂波、か。

 チャイカの口の端に笑みが浮かんだ。

 やはり、あの人間は手に入れておくべきものだな。


       ◇


 フルーリックの学生と聞いて、斎門はぞっとした。にせの穂波が大量に作られたのか? 甲冑に身を包んだ数千の兵士たちは、頭部をヘルメットでよろっているので、顔を確かめられない。


「穂波ではない」

 オクタヴィアからわずかに遅れて、フルーリックも現れた。魔剣を手にしている。斎門のそれよりさらにブレイドが長く、青白い光を放っている。

「三百年ほど前にこしらえた学生を再現してみた。勇猛果敢な兵士だ」


 フルーリックは魔剣を天に突き上げ、術を唱えると、一気に振り下ろした。甲冑兵士たちの軍団がチャイカの魔獣の群れに襲いかかった。


        ◇


 反撃を開始した本郷の艦隊は、敵艦が三笠に狙いを定めたのと同じく、旗艦スワロフを集中攻撃していた。

 風向きが変化していく。今、本郷の艦隊の砲撃を優位に導くかのように、西北から南東へ強く吹きつけている。


 穂波は空を見上げた。西北の空に、漆黒の巨大な鳥の姿があった。ゆったりと羽ばたいている。


 足首に何かが触れた。冷たく湿った何かだった。穂波は足元を見やった。素足に霧状の黒いものが絡みついている。それは見る見るかさのあるものへと変貌していく――と見てとったときはすでに遅く、穂波は艦橋から海上へ引きずられていた。


『穂波っ!』

 体内で斎門の右眼が怒鳴った。


        ◇


 穂波の異変を察知した斎門は、仲間たちに大声で告げた。

「緊急事態だ。ちょっとここを離れる。あとを頼む!」

 頭をぐっと下げ、急降下した。考えていることは一つだけだった。三笠の艦橋を無防備なままにしておけない。俺が守りに入らなくてはならない。


 斎門が三笠の艦橋に降り立つと、顕仁あきひとも急降下してきた。艦首をかすめるようにして飛び去っていく。

「顕仁! どこへ行く!」


        ◇


 穂波は声を発することができずにいた。いまや足首だけでなく胴体にも何かが絡みつき、恐ろしい力がこめられていく。腐った泥のような臭いが口中と鼻腔に押し寄せる。この状況で武器を手にしても無意味とわかっていたが、穂波は魔剣を思い浮かべた。次の瞬間、まばゆい光を放つ長剣を右手に握っていた。


「穂波よ、おまえはわれのものじゃ」

 低く暗い声が響いた。

「われはようやく気づいたのじゃ。おまえに近づく女どもを遠ざけるなど、無意味であるとな。迂闊であったわ。おまえを支配している魔の者がいる。その者からおまえを引き離さねば、おまえをわれのものにできぬ」

 

『穂波! 俺の声に集中しろ!』

 斎門が怒鳴る。


 穂波の視野を圧しつつ、上空から降りてくるものがあった。漆黒の鳥だった。大きく広げられた羽が黒雲のように覆いかぶさってくる。風が巻き起こる。鋭い嘴が迫ってくる。穂波は恐慌をきたした。体じゅうの血が逆流するような感覚に見舞われる。喉を喰い破られるのだ……! 遠のいていく意識のなかで、何かが喚くのを耳にしていた。


(うぬ)は何ぞ!? 手出し無用じゃ! 穂波はわれのもの! われのものじゃ! な、何をするっ! あああっ!』

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