五月の海―― 測距儀⑤
艦橋がにわかに騒がしくなった。
本郷以外の将校たちが西南方向に目を凝らしている。
「笠置だ!」
「千歳だ!」
「音羽に新高も!」
索敵に出ていた巡洋艦が戻ってきたらしい、と穂波は気づいた。
『斎門、どこにいる?』
『おまえの頭上だ』
穂波は空を見上げた。何も見えない。
『北北西の方向だ』
教えられて、振り返った。
息をのんだ。巨大な漆黒の鳥がゆったりと羽ばたいている。どこかの峰々の蜃気楼かと見まがうほどだった。
『鳥の姿は俺じゃない。俺もそばを飛んでいるが、そこからでは見えないはずだ。――ちょっと見えるようにしてやろう』
ごく小さな火球のようなものが現れた。金色から徐々に赤く、やがて緑色に変化し、すっと消えた。
『確認できたな?』
『ああ』
漆黒の鳥の威容が視野を圧してくる。
この圧倒的に巨大で神秘的な鳥と遭遇するのは初めてではない。穂波はそんな気がした。いつどこで出会ったのだったか?
『この鳥は何なんだ? おまえの仲間か?』
返事は、なかった。
◇
白装束の二人が去ったあとも、蛇は草陰に潜んでいた。方向感覚が失われていて、動けずにいたのだった。
奇妙なことが起きた。さっきそこから下りてきた、というよりすべり落ちた樹の幹を、這いのぼらずにはいられなくなった。強い磁力に似た力に引き寄せられていた。
蛇は動いた。幹を這いのぼった。てっぺんまでのぼりきったところで、麻痺していた嗅覚が戻ってきた。――それだけではなかった。おのれを樹上まで引き寄せた不可思議な力が、おのれのなかへ入りこんでくるのがわかった。
(これはどういうことじゃ? 何やら……力が漲ってきたような……! 不思議じゃ。この力は何ぞ? 何ぞ?)
南中した太陽がやや西へ傾きはじめたころ、蛇は梢を離れた。ふたたび黒い影となって、穂波の匂いの痕跡を追った。
(われは、もう何も恐れはせぬわ。今度こそわれのものにするぞえ。われに約束された恩寵を)
◇
強く吹きつける風の方向が目まぐるしく変化する。
本郷は両足を左右にわずかに開き、完全に不動の姿勢でいる。それでいて、肩に力が入っているふうでもない。穂波は、この泰然自若を絵に描いたような連合艦隊司令長官のそばに立って、呼吸を合わせるかたちになっている。
やがて。
左舷の南方向に巨艦が次々に姿を現した。
派手な艦隊だな、と穂波は思った。黒い艦体に黄色の煙突。バルチック艦隊の塗装は風変りだった。大和帝国海軍の連合艦隊が黒っぽい灰色の塗装で統一しているのとは対照的だった。陣形も変わっている。二列縦陣? いや……三列縦陣だろうか? 何かの理由で陣形を崩してしまい、一列縦陣に戻す前に本郷の艦隊と遭遇してしまった、ということなのか?
三笠に信号旗が揚った。黄色、群青、深紅、黒の四色からなる旗だった。国際信号でZの文字を表すと穂波も知っていたが、今日この場面で何を意味するかは、わからない。
参謀の一人と思われる中佐が本郷に近づいた。
「司令塔のなかへ入ってください」
本郷は首からさげた双眼鏡をちょっと覗いて、
「ここにいる。みな、塔のなかへ入れ」
参謀長と思われる痩身の少将が、ほかの将校たちに言い渡した。
「分散しよう」
艦橋には、司令長官の本郷のほかに、この少将と本郷に声をかけた中佐、少佐一人、少尉一人、少尉候補生一人、そして穂波が残った。
『Z旗が揚ったな』
ふたたび斎門の声が響く。
『戦闘準備に入れ、という意味だ。――穂波。測的係の背後に立て。おまえは、測的係が正確に数値を読み取れるように助けるだけでいい。沈着冷静さを乱す気が生じたら、摘み取れ。返事をしろ』
『了解』
『早く行け!』
穂波は本郷のそばを離れ、測距儀を覗いている将校の背後にまわった。階級は少尉だとわかる。
「距離八千五百メートル!」
少尉が大きな声ではっきりと告げる。
本郷は身じろぎもしない。
「砲術長!」
少将が少佐を呼び、話しかけた。レシプロエンジンの音がすさまじく、指示した内容は穂波には聞き取れなかったが、直後に、少佐は少尉と交代して測距儀を覗きこんだ。
「八千メートル!」
砲術長と呼ばれた少佐が告げる。
斎門の右眼が穂波の体内で踊った。
本郷は動かない。
さらに砲術長の少佐が声をはりあげた。
「右舷、左舷、どちら側で戦をなさるのですか!」
前を向いたままの本郷の右手がまっすぐ上に伸び、左下へ振られた。
すると、少将が、その痩身に似合わない力強い声で告げた。
「艦長! とおぉぉりかあぁぁじ、いっぱーい!」
「取舵ですかっ!」
一段下の第二艦橋から艦長がどなった。
「さよう! とおぉぉりかあぁぁじ、いっぱーい!」
つかのま、砕ける波の音だけが艦橋を支配した。
三笠の艦首が、信じられないほどの速度で左へ旋回していく。うねる波が三笠ほどの巨艦も揺さぶり、強い風が波しぶきを艦橋にまで吹きつけてくる。
『後続の艦隊もきれいに旋回しているぞ!』
斎門が珍しく甲走った声で言った。
穂波は、思わず知らず、力みを覚えていた。すべての艦隊が回頭を終えて一列縦陣の陣形が整うまでには時間がかかる。十五分か? 二十分か? 敵はほくそ笑んでいるはず――と思ったそのとき、
ゴーーーーーッ!
砲弾が空気を裂き、三笠へと向かってくる。
艦橋の誰もが微動だにしない。参謀と思われる中佐はノートを手にして、何か書きつけている。こんなときに!
第一弾は命中せずに、海中に没した。水煙が上がる。
ずしっ!
三笠が震えた。
敵の猛攻が開始された。
連合艦隊の回頭は終わっていない。
三笠への集中攻撃が始まった。外れる弾が多いが、命中弾も多い。
あっちこっちで火の手が上がる。砲弾のかけらが飛び交う。あっというまに二百発近くが撃ちこまれ、なおも敵の砲撃は止まない。
不思議なことに、艦橋は、海中に没した砲弾があげる水しぶきは被るものの、今のところ無傷のままだった。
敵前回頭は穂波が予測したより早く完了した。今、本郷の艦隊のすべてが、その右舷をバルチック艦隊三十数隻に向けている。――反撃が開始された。
◇
三笠の上空で、斎門は魔剣を振るっていた。顕仁はさらに上空で闘っている。
魔獣どもは旅山で遭遇したものよりさらに獰猛だった。大きな角を持つ牛の死骸に、ハイエナやジャッカルの死骸が継ぎ接ぎされたもの。それに巨大化の術がほどこされているのだった。
魔獣を相手にしながら、斎門はときおり眼下の三笠へ注意を向ける。艦橋は無傷だった。奇跡的に、一発の砲弾もくらうことがない。
奇跡。そうさ。穂波よ、おまえをそこへ送りこんだのは防御のためだ。俺の右眼の力をそこで発揮させるためだ。俺の右眼を飲みこんだおまえがそこにいるからこそ、三笠の頭脳が護られる。この日のために、この目的のために、おまえが必要だった。持ちこたえてくれ。ここを乗り切ったなら、休みをやる。半年……いや、一年。一年、自由にしてやる。
「サイモン!」
西の空にオクタヴィアが姿を現した。
斎門はあやうく魔剣を取り落としそうになった。
「これは何だ……!」
オクタヴィアは、甲冑に身を包んだ一団を従えていた。
「あたくしたちの魔獣です。フルーリックの学生たちです」




