五月の海―― 測距儀④
西から強い風が吹きつけ、大波が甲板を洗う。
眼下に二門の大砲と錨鎖を見下ろすこの場所は――?
「わかるな? 三笠だ」
穂波のすぐ横で、斎門が嬉しそうに言った。体内の右眼がしゃべっているのではない。
「俺たちは今、三笠の艦橋にいる」
艦橋には数人の将校たちがいて、その最前部に、目立って小柄な人物が立っている。言葉を発することなく、波濤を見つめている。
――本郷。
この人物が連合艦隊司令長官だということは、袖章など確かめずとも、穂波にもわかった。
レシプロエンジンが轟々と唸り、波が砕ける。伝令が忙しく駆け回る。にもかかわらず、三笠艦上の空気は、静謐といっていいほどだった。
「あと二時間ほどでバルチック艦隊と遭遇することになる」
斎門が言った。
「沖ノ島。初戦はその島の西側で起きる」
穂波は斎門を見た。
「どうしてそんな詳細なことまで――」
「どうしてわかるか? 両者がそう決めたのさ。エヴァンジェリンスキーが海図を睨んで場所と時刻を予測し、本郷の参謀もまったく同じ計算をした。エヴァンジェリンスキーの意思決定の情報は、フルーリックが伝えてきたんだが」
「あいつも参戦してるのか?」
「嬉々として、な。――ところで、沖ノ島ってのは神の島であるらしい。女人禁制とか。ここは祈るほかないな。神のご加護のあらんことを」
斎門は笑ったが、わざとらしかった。自分を元気づけようとしているようだった。その瞳は、いつもより赤みがかっている。
「穂波。今日はおまえに武器を持たせる」
斎門の右腕がさっと動いた。その手に、まばゆい光を放つ何かが握られていた。長剣だった。
「これは俺の剣だ。よく見ておけ。おまえは、必要な場面で、この長剣のことを思い浮かべるんだ。思い浮かべるだけで、これと同じものがおまえの手のなかに現れる。この武器は役に立つはずだが、これを手にすると敵に目をつけられやすい。敵とは、チャイカと……チャイカが送りこむかもしれない刺客のことだ。俺は別の場所で戦わなくてはならん。魔獣を相手にな。ここはおまえに任せる」
頼んだぞ、と言って斎門は艦橋の床を蹴った。穂波の目の前から消えた。
「斎門!」
◇
茶阿医師は暖炉のまえの肱掛椅子に腰をおろした。
「どうして私がここに現れたか、不思議に思っているだろうね。理由を知りたいというのであれば、そうだな、私は千里眼だから、と答えておこう」
「井戸の博士は――」
彦乃が何か言う前に、学生が口をはさんだ。
「名前を知った人間のことは、すべてお見通し」
茶阿医師が鋭い視線を学生に投げた。
「きみは黙っていなさい」
口調は穏やかだった。
「その頭のなかには要らぬ知識ばかりがつまっているようだね」
彦乃は言った。
「先生は、雪に何が起きたかも、ご存じですか?」
「ご存じとは、いえない。千里眼は撤回する。わかるのは、正体不明の邪悪な何かが子供の命を奪おうとした、ということ。そして、堂本君、きみの処置が正しい、ということ。見てごらん。毒が抜けていく」
彦乃は小さく叫んでいた。
打掛の縫い取りの紋様が黒ずんでいく、と見るうちに、黒い何かが紋様から分離して、細かい粒子となっていく。黒い粒子は窓の外へ消えていく。
「毒、だ。人間の化学者が研究しても正体をつきとめることはできないだろうがね。怨念。妄執。それらが変容したものだ。誰の怨念であり妄執なのか。それは私にもわからない。――うん? 堂本君、これは?」
茶阿医師が打掛の右袖をつまんだ。
穂波が刺繍したうさぎが真っ黒になっている。あきらかに、ほかの紋様より多くの毒を吸いだしている。
「穂波さま……! どうか雪を……雪を……」
涙があふれた。彦乃は打掛ごしに雪の背中を摩りつづけた。
茶阿医師が椅子から立ち上がった。両掌を重ね、重ねたまま片方の甲を下に向け、両腕を振り上げる。
バンッ!
雪の背中に茶阿医師の甲が打ちつけられた。
彦乃の膝に俯せになっている雪が、ドロリとした黒い何かを吐き出した。吐き出すと同時に、ふう、と息をもらした。
「雪……雪……」
泣きながら、笑いながら、彦乃は雪を抱きしめていた。
床に吐き出されたものも一瞬にして霧散した。




