4章 覚醒
叶わぬ夢など、見る価値もない。夢を追いかけるのは子供だけ。夢を見ているとバカにされる。
バカにされるくらいなら、いっそ消してしまえばいい。そうして大人になるのだ。
大人は子供の夢を壊し、夢を見る存在『子供』を夢を壊す存在『大人』に変えていく。
サンタクロースは何歳まで信じていただろうか。大人になっても信じている人は少ないだろう。
それは何故か。
大人が子供の夢を壊したからだ。隠し通すことができず、あるいは無意識に壊している。
サンタクロースがいないことを知ったとき、ひとつ大人になったねと言っているのは、夢を壊した罪悪感を軽減させる為だ。
夢を壊すことが大人なのだとしたら、私は大人にはならない。
熱い。体が焼けるようだ。
心臓に火が灯り、全身に沸騰した血を届けているような。身体に力がみなぎる。
これは、なんだ?俺の身体に何が起こった…?思い出せない。
側にはサエナが、眠っているようでスヤスヤと寝息を立てている。黙っていると可愛いのに、残念なやつだ。
そしてもう一人。何故か俺の身体の上で眠る少女。
不思議な色の髪だ。緑がかった金。少なくとも、俺は見たことがない。
触れる。くすぐったそうに身を捩る。可愛いとは思う。
しかし、何かが違う。
この娘を女性として見れない。
そう、これは家族に抱く感情である。女性であっても家族をそのような目では見ない。
これは、その感覚に近いのかもしれない。
「ふにぁ!?」
チアキは勢いよく身体を起こした。上に乗っていたモノが奇声を上げているが無視。
「おい、いつまで寝てる。起きろ」
そう言って、サエナを揺する。前にこれの反対のようなことがあった気がする。
「ん…ん!?な、何!?」
「おい、落ち着け。何寝ぼけてんだ」
「アレ!?あの『光』は!?」
相当寝ぼけている様子だ。チアキはこれまでとは違い、優しい表情でサエナを見た。
「案外寝起きは悪いんだな」
「何言ってるの?それよりあの『光』は?」
サエナは相変わらず意味不明な言葉を話している。
「なんだ?俺は『光』なんて見てないぞ?」
「うそ!?あなたも見たでしょう?あなたと彼女が突然、光り出して!」
何を言っている?しかし嘘をついているようには見えない。
「それは、私が説明してやろう」
そう言ったのは、眠ったままであるはずの少女。腰に手をあて、サエナより少し大きい胸を反らす。
「あ、あなたは《太陽の一族》よね?」
「さあ?そのはずだが」
久しぶりに目を覚ましたというのに、今日は朝ご飯食べたっけ、みたいな調子で言う。普通はもっと驚くはずだろう。いや、普通ではないのか。
「それで?『光』ってのはなんだ?」
チアキはどうでもよさそうに聞く。実際どうでもいいんだろう。
「そう、あの光のことだったな。あの光は、そう、目には見えないけれどそこにあるもの。感じられるものだ」
「いったいそれは何なのかしら?」
サエナはとても気になるようで、食い気味に問う。
「そう焦るな。何、考えれば分かることだ。そう、私とこやつは…」
サエナは息をするのも忘れ、次の言葉を待った。チアキはまるで興味なさそうに。
「私とこやつは、惹かれあっているのだ!」
「「は?」」
この幼女は何を言っている。チアキが惹かれている?そんなはずがない。さっき会ったばかりだと言うのに、ありえない。
現にチアキとサエナは、すっとんきょうな言葉を共に出していた。
「私とこやつは、心を交わし合った仲なのだ。なんだその目は!」
《太陽の一族》とは全てこんな感じなのだろうか。いや、違うだろう。
「待て、俺たちは今会ったばかりだよな?」
「そうだ。それがどうした?」
やはり、こいつはおかしい。《太陽の一族》が全ておかしいとは思わないが、こいつは確実におかしい。
「まあいい、それで光について説明しろ」
「いいんだ…」
呆れた声をあげるサエナ。
「お前はともかく、なぜ俺まで光ったんだ?」
少女は自信たっぷりという表情で、手を腰に当てながら聞いている。
しかし見た目が幼女なので、偉そうにしているバカな娘にしか見えない。
「それはな。私とお前の間に『契約』が成立した証だ。心を経由してチカラを受け渡したときに、抑えきれなかったエネルギーが光となって目に見えただけだ」
契約?心を経由?チカラ?
この幼女は何を言っている。まだ寝ぼけているのか?
「つまり、どういうことだ?」
「うむ。私のチカラをお前に受け渡した、ということだな」
《太陽の一族》のチカラがチアキの中に?それって大丈夫なのか?
サエナも同じことを思ったようで「大丈夫なの?」と聞いている。
「分からん。前例がないのでな。とにかく、こやつの記憶が少しだけ削れているな。それで光を忘れているのだろう」
チアキの記憶が消えている?確かにそう言われれば納得できる。
しかし、その場面以外の他に忘れていることはなさそうだ。
「やはり、このチカラは危険なんじゃないのか?それに、お前はチカラを受け渡してもいいのか?」
「私には使えんのだ。眠りにつくときに、エネルギー回路を遮断してしまった。今このチカラを使えるのは、私と心を交わしたお前だけということだ」
なるほど、それでチアキにチカラを受け渡したということか。チカラを使えないのなら、宝の持ち腐れだ。
しかし、それはチアキにも同じことが言え、今のチアキにはチカラが使えないそうだ。
「お前はまだチカラを使いこなせないが、確実に私より上手く使うことができよう」
そう言って、少女はチアキの胸に片手を当てる。
「この熱を感じるか?これは魂の温度だ。ここに魂が宿っていることを強く意識しろ」
少女が触れたところが仄かに温かくなる。これは魂の温度というより人の温もりのような気がするが、まあいい。
胸の中の魂を意識しつつ、少女の言葉に耳を傾ける。
「そう、そしてその魂をより具体的にイメージしろ。それでチカラは使えるはずだ」
魂のイメージ。
チアキの魂のイメージは『炎』。命を燃やし、人を明るく照らす。ゆらゆら揺れて、安定しない。しかしそこには必ずあるもの。
チアキの魂のイメージは『炎』だ。
「お前のイメージはそれか。よし、契約成立だ」
胸の温かさが全身に巡る。胸の辺りに魂の存在を確認できる。確かな熱力を持って、チアキの身体に魂が宿った。
「こ、これは…これが《太陽の一族》のチカラ…」
「うむ、その通りだ。そのチカラを私のために使え」
「何か変わったのかしら?」
サエナは一人蚊帳の外は癪だったらしく、疑問を口にした。
「まあ、見てみれば分かる。ちょうど来客のようだしな」
そう言って少女は、ひとつしかない入り口に視線を送る。
「グァァァァアア!!」
この声、間違いない!最悪の来客者『ベイクベア』だ!入り口をふさぐように立っているので、ここから逃げることは難しいだろう。
「おしまいよ…こんな狭いところでベイクベアと遭遇するなんて…」
「諦めるのは早い。こやつのチカラを使えば、どうということはない。やってしまえ」
チアキは分かっていたように、護身用の短剣に手を伸ばす。
チアキが軽やかな音で剣を抜いた。
剣は燃えていた。
柄の部分より上が燃え盛っていた。その光景にサエナは驚きを隠せない。
「はぁぁっ!」
チアキは大気を切り裂きながら、ベイクベアに突撃。モービルのモーター音のような音を立てながら、炎の軌跡を残す。
チアキがベイクベアの眼前に迫る。ベイクベアはそれを叩き潰そうと、腕を振り上げる。
しかし、その腕が振り下ろされることはなかった。
「グガァァァァ…!」
振り上げた腕をチアキが切ったのだ。剣は炎に包まれることで切れ味が上がっているようで、ベイクベアの硬い体毛ごと腕を焼き切った。
「す、すごい」
サエナは感嘆するしかなかった。普通ベイクベアは、十人以上で狩る大型肉食動物だ。それを一人で相手し、圧倒するチアキはもはや恐怖する次元だ。
あっという間にベイクベアを片付け、辺りに香ばしい香りが漂う。ベイクベアは焼くと一番美味しいのだ。
「こいつ、美味そうだな。食えるのか?」
いつの間にか『炎』は収まっている。チアキは剣を戻しつつ聞く。
「骨と毛以外は、大体食べられるわよ。それより、さっきのは何?」
食べられる食べられないよりも『炎の剣』について説明してもらわないと、納得がいかない。
「それについても、私が説明してやろう」
またもや少女が胸を反らす。
「先の炎は《太陽の一族》が持つ、記憶をエネルギー源とし擬似的かつ小規模な核融合反応を起こしたものだ。記憶を物質化したときに余ったエネルギーを、光と熱として利用したということだな」
「えっと、つまりどういうことだ?」
全く理解できなかったチアキは、もっと簡単な説明を求める。
「まあ簡単に言えば、記憶を燃料として燃やしているということに近いな」
記憶を燃料に?それって大丈夫なのだろうか…
「ねえ、燃やしちゃって大丈夫なの?」
サエナも同じことを思ったらしく、少女に質問する。
「問題ない。確かに記憶は燃やした分だけ消えるが、大したことはない。日常生活に支障をきたすほど、消えないだろう」
少女が言うには、先のベイクベアを倒したときくらいだと、昨日の夜ご飯が分からなくなるくらいだそうだ。それくらいなら問題ないだろう。
「《太陽の一族》のチカラってすごいな…たったそれだけであれだけ強力なチカラが使えるんだからな」
「まあな。使い方さえ間違えなければ、この世界に敵は無いだろう。このチカラはその者が背負った運命の重さに比例して強くなる。よって、お前はもっとも強い、というわけだな」
「そうか…まあ、おかげで強くなれたんだ、感謝する。さて依頼も終わったことだし、さっさとこんなところ出て行くかあ〜」
「待て。お前、どこに行くつもりだ…?先ほど言ったであろう。『私のために使え』と」
そんなことを言っていたかと先の会話を思い出しながら、チアキは嫌な予感がした。
「私の目的のため、お前には私についてきてもらおう」
やはり。こういうときの予感は当たるのだ。
「嫌だね。俺には俺の目的があるんだ。お前なんかに付き合ってる暇はないんだ」
チアキはそう言って、再び歩き出した。
「ではひとつ。お前と私は、それはそれは深〜いところで繋がっている。お前が死ねば私は死ぬし、私が死ねばお前は死ぬ。そして今の私はお前にチカラを渡しているので、無力だ。この意味が分かるか?」
「…脅しってわけか」
「その通り。お前が死にたくないのなら、私をそばに置いておくのが一番安全だな。なにせ、お前は私のチカラを持っているのだからな!」
少女の言っていることは筋が通っている。ただ、チアキは面倒事は嫌いだ。少女の目的が面倒なものであれば、手伝いはしないだろう。
「で、一応聞くがお前の目的は何だ」
「うむ。各地で眠る《太陽の一族》を救出し《地上の天国》への鍵を開くことだな」
「なに!?《地上の天国》だと!その鍵を《太陽の一族》が握っているのか!?」
チアキはしまった、と思ったが、そのときには少女の顔は悪人のように歪んだ笑みを浮かべていた。
「そうだ。《地上の天国》について詳しく知りたければ、私のチカラになってくれるな?」
「くっ…!仕方ない、チカラになってやろう…」
チアキは痛いところをつかれたという表情で、しぶしぶ了承した。
「で、《太陽の一族》を助けることになんの意味がある。詳しく聞かなければ、手を貸さないぞ」
どんな内容なのかを聞かずに手を貸すような、バカはこの時代にはいない。
「そうだな…今、この世界を治めている『二大国』は知っているな?」
「《軍事国家ルナティア》と《商業王国ソレスティア》よね?」
ずっと黙っていたサエナがここぞとばかりに声をあげる。
「そうだ。その二大国がどうしてここまで他の国よりもチカラがあると思う?」
「それは赤道直下の国だからだろう。最も太陽光で発電効率が高いところだからな」
この時代の電気の供給は太陽光発電により賄われている。それでも旧時代より太陽のエネルギーが弱まり、発電効率は落ちている。しかし、赤道直下であればある程度の発電が望めるのだ。
「それもあるだろう。しかし、それだけではここまで大きな差にはならなかっただろう。そこには《太陽の一族》が関係している」
「《太陽の一族》が?どういうことなの?」
「《太陽の一族》の膨大なエネルギーを使って電気を作り、国力増強を図ってきたのだ。非人道的な方法でエネルギーを搾取し、《太陽の一族》の精神が崩壊するまで利用されている」
「な、なんだと…」
チアキにとってもサエナにとっても、衝撃的であった。
『二大国』に対しては好印象を持っていたわけではないが、決して悪い印象を抱いていたわけではない。
しかし少女の言葉が本当なのであれば、はいそうですかで済まされる話ではない。
「どれくらいの《太陽の一族》が囚われているんだ?」
チアキがおそるおそる聞く。少女は重々しく口を開けた。
「《太陽の一族》同士であれば、大体どこにいるか、何をしているのかが分かるのだ。そして今、『二大国』に囚われている《太陽の一族》はざっと100人。今生きている《太陽の一族》のほとんどが『二大国』によって囚われているということだ」
今生きている《太陽の一族》は、確認されているだけで108人。そのうちの大半が『二大国』によって非人道的なエネルギーの搾取が行われている、というのだ。
「それが本当なら黙っていられないな。それに《地上の天国》への鍵は《太陽の一族》が握っているんだろう?なら話は早い。俺がこのチカラを使い『二大国』をぶっ潰して《太陽の一族》を救出。これでお前の目的は終わりだ。で、《地上の天国》への鍵を開け、俺は目的を達成。簡単な話だ」
『二大国』をぶっ潰すのを簡単だというチアキだが、先のベイクベアとの戦いを見て冗談には聞こえなかった。
「ふっ。話のわかる奴は好きだ。早速だが、ここから南に…」
少女とチアキはこれからの話を始める。サエナはまた一人取り残され、考えていた。
この二人についていき、旅をすることはできないだろうか、と。
しかしサエナが足を引っ張るのは確実。サエナにチアキのようなチカラはない。こんな者を連れていってくれるとは思えない。
サエナは結局、言い出すことができず、とりあえずジェイドのところへ行くことになった。
チアキと少女がいなくなりサエナ一人の部屋の中は、先ほどまでの暖かさを感じることはできなかった。
「ご苦労さん。あんたなら目を覚まさせることができると思ったよ」
ジェイドは自分の目に狂いはなかったと、自信満々にだった。
「これで貸し借りはチャラ。モービルも返してもらえるんだな?」
「ああ、もちろんさ。《太陽の一族》が街の地下に眠っているなんて知られたら『二大国』が黙ってないからね。助かったよ」
今回の依頼にはそういう意味があったのか。一人納得したチアキはサエナに目を向ける。
地下室からずっとだが、サエナは妙に落ち着かない。言いたいことがあるが言えない、といった様子である。
ジェイドはそんなサエナを見て、意地の悪い笑みを浮かべた。
「それでだな。もうひとつ依頼を頼んでもいいか?」
「…内容による」
「ふむ、そうだな。ある旅に夢を見ている少女を連れていって欲しいんだが」
「ジェ、ジェイド様!?」
「ん?どうしたサエナ?」
「どうしたもこうしたもないです!何故私を連れていかそうとするのですが!?」
「いや?お前の名前など出していないが?」
ジェイドはしてやったり、という顔でサエナを見る。サエナは顔を真っ赤に染め、顔を伏せてしまった。
「どうだ?連れていってもらえないか?」
ジェイドはチアキに話を戻す。
「…本当はこんなクソ女、連れていきたくないんだがな。ジェイドには恩がある。あんたの頼みなら断れないな」
チアキもまた、意地の悪い笑みを浮かべ、トマトのようにみるみる赤くなっていくサエナをからかった。
「ありがとう。この通り面倒な奴だが、よろしく頼む」
「ああ、だが俺はこいつを守らないといけないからな。こいつが死ぬと、俺も死ぬらしい。だからクソ女まで守る余裕はないぞ」
「何をバカなことを!私が守られる?あなたが私に守られるの間違いではないかしら?」
トマトから復活したサエナは大口を叩く。
「ふっ。あくまで私の発言は否定しないのだな。やはり旅に出たいと思っていたのだな。稼いだ金を全く使わないので、おかしいと思っていたのだ」
「ジェイド様にはなんでもお見通しですね…」
ジェイドにはサエナが今の生活に不満を抱いていたことがバレていた。そして旅に出たいと思っていたことも推測されていたのだ。
「さあ、正式に依頼が成立したところで!お前のモービルだがな、言ったかもしれないが最新版にチューンアップしてある。車庫に置いてあるので、持っていけ。お前たちの幸運を祈っている」
そう言い放ち、チアキ達を部屋から出す。最後までイケメンすぎる長だ。
ジェイドの言葉を受け、複雑な表情を浮かべるサエナ。
しかし、その表情の裏には未知への期待と喜びが隠しきれていなかった。
「よう、サエナ。聞いたぜ」
車庫で待っていたのはサエナの幼なじみ、ベルであった。
ベルは車庫の管理の仕事をしているのだろうか。顔を汚し、手にはモービルの手入れに使う道具を持っている。
「そう、私は旅に出るわ。しばらくここに戻ることはないと思うわ」
いつものようにバカにされると思っていたサエナだったが、ベルの言葉は意外なものであった。
「そうか。シエナさんとお前の母さんは俺に任せろ。何も心配することはねえ」
「べ、ベル?頭でも打ったのかしら?」
「ちげえよ!ただ、お前の本気が伝わっただけだ。それに長の依頼だ。サエナの家族を助けてやれ、とな」
サエナはやはりジェイドには勝てないなと思った。
「そう、ジェイドさんには感謝してもしきれないわね…」
チアキはそんな会話には興味ないようで、足早にモービルを確認しに行く。
「こ、これは!」
そこにはジェイドの言葉通り、最新版にチューンアップされたチアキのモービルがあった。
何故かサイドカーまで付いているが…
「俺が完璧な状態に仕上げてやった。サエナにもしものことがあったら、タダじゃおかねえぞ。あとサエナには手を出すな」
「ああ、当たり前だ。あんなクソ女、興味なんてサラサラないね」
「はっ。それを聞いて安心した。さっさと行っちまえ。俺は忙しいんだ」
チアキとベルは短い会話を交わし、ベルは別のモービルの整備に取り掛かる。
「ほう、これがもーびるとやらか。初めて見たぞ」
少女は不思議そうにモービルの周りをグルグル回って、見ている。
「さあ、時間がもったいない。早く準備しろ」
一度サエナは家に戻り準備することになった。旅をするために常日頃から準備していたものを部屋の奥に置いていたのだ。
「ベル。姉さんと母さんのこと、頼んだわよ」
「言われなくとも。死ぬんじゃねぞ…」
ベルと少しだけ会話をする。しばらく会うこともないだろうが、ベルの対応はそっけないものであった。
家に着くと、病院にいるはずのサエナの母親がいた。元々身体が弱いサエナの母親は二人の子どもを産み、さらに弱ってしまった。今では一人で歩くこともできなくなってしまっている。
「サエナ、来なさい」
それでも言葉には母親の威厳を感じさせ、サエナを怯えさせるには十分であった。
「お母さん、あのね。私、ずっと旅に出たいと思ってたの。でもお母さんのこともあったし、なかなか決心できなくて…」
サエナはその場から動かず、母親に自分の気持ちを伝えた。
「私のことはどうでもいいのよ、サエナ。あなたが冒険家だったお父さんに憧れていたことは知ってたわ。ただ、お父さんと同じようにはなって欲しくないの。死ぬと悲しむ人がいるってこと、忘れないでちょうだい」
「サエちゃん、母さんは厳しいように思うだろうけどぉ、決して反対してるわけじゃないのよぉ。心配してるだけなんだからぁ」
「分かってる、姉さん。母さんのことお願いしてもいいかしら?」
「もちろん。いってらっしゃい、サエちゃん」
サエナは急いで準備を済ませ、チアキと少女のもとへ向かった。
「…サエちゃんも大人になったってことかしらぁ」
「何を言ってるの。子どものままなだけよ…」
シエナと母親は笑みを浮かべて、まだまだ幼い子どもを見るような目で見送った。
「遅い。さっさと出ないと日が暮れちまうぞ」
車庫からモービルを出し、今すぐにでも出発できるような状態のチアキは、準備に向かったサエナを待っていた。
「もう行ってしまおう。あんな奴、待つ意味などないであろう?」
「そういうわけにもいかない。で、どうして俺の後ろに乗ってるんだ?」
少女はチアキが跨るモービルの後ろに、ちょこんと乗っている。サイドカーには二人乗っても余裕があるくらいなのに、わざわざ後ろに乗る意味があるのだろうか。
「何を言っている。愛し合うものがこうして乗るのは当たり前であろう」
「はあ、そうなんですかねー」
そうこうしているうちに、サエナがやってきた。
サエナは、かっこいいと思っているのかやたらとゴチャゴチャした服を着ている。暖かそうではあるが…
「おまたせ。さあ行きましょ」
「ホント、遅いぞ。どうして女は準備が遅いんだろうな」
「いろいろあるのよ。私はこっちに乗らせてもらうわね」
そう言って、サエナはサイドカーに乗り込む。
「さて、もうやり残したことはないな?」
「ないわ。母さんと姉さんにもちゃんと言ってきたし。心置きなく旅に出られるわ」
「よし。じゃあ行くぞ!」
そう言ってチアキはエンジンをかける。勢いよく飛び出したモービルは、真っ白の世界に細い細い線を刻みつつ、まっすぐ進んでいく。
「そういえば、お前の名前を聞いてなかったな。なんて言うんだ?」
チアキは少女に問いかけた。
「私か?私の名前は…」
銀の世界に三人の旅人。
一人は《地上の天国》を求め。
一人は世界の全てを知りたいと願い。
一人は囚われの同胞を助けたいと祈り。
これからいつ終わるともわからない物語の始まりであった。
「私の名前は『リア』だ」
白銀の世界にその声は、降り積もる雪のように、確かに二人の記憶に残っていた。