落ちる配達員と鏡の死角
隠し通路を抜けた先は、王城外周の荷受け所だった。
朝の王都は、まだ完全には目を覚ましていない。けれど、城壁沿いの搬入口だけはすでに忙しく、食料箱や医療用の木箱が次々と運び込まれている。
僕はその流れの中へ、ひどく怯えた顔で紛れ込んだ。
手首には、外したはずの拘束具をもう一度つけている。今度は本当に閉じていた。ただし、鍵穴の内部へ細い針金を一本仕込んである。必要なら、三呼吸で外せる。
懐には逮捕命令の原本。
その表紙には、王家の古い印が浮かんでいた。
これを王城記録院へ届ける。それがガウェインとの約束だった。
被疑者の僕が、被疑事実を証明する命令書を正式な配達物として運ぶ。
普通なら、誰も信用しない。
だが王立輸送ギルドの配達物には、受取人以外が封を開けてはならないという規則がある。王家の命令書なら、なおさらだ。
僕は入口の受付台へ近づいた。
「あ、あの……配達です」
わざと声を震わせ、何枚かの伝票を床へ落とす。
受付の男が、面倒そうに眉をひそめた。
「ここは城内便の受付だ。行き先を確認しろ」
「す、すみません。記録院宛てで……王家印つきの原本です」
僕は懐から命令書を取り出した。封を開けず、表面だけを見せる。
男の顔色が変わった。
「王家印……」
「受取人は、記録院長。配達経路は、東荷受け所から中央文書門を通過」
口にした瞬間、自分でも驚いた。
伝票に書かれた通行経路を、目で読むより先に理解していた。どの門を通れば検査が少なく、どの門の前で足止めされるか。頭の中で城壁の構造が、古い作戦図のように浮かんでいる。
配達員としての経験で説明するには、少し正確すぎた。
受付の男が、僕の手首を見た。
「その拘束具は?」
「ぼ、僕は逮捕命令が出ているので……でも、配達物を先に届けろと」
男は困った顔で、命令書と僕を見比べた。
「逮捕対象が、王家の原本を持っているのか?」
「はい。だから、届けないと僕が困るんです」
受付の男は、しばらく黙った。
その時、荷受け所の入口で馬車が止まった。
追手だ。
四人。重装備が二人、軽装が二人。歩幅が揃っている。執行官の正規部隊に見せているが、最後尾の一人だけ足音が半拍遅い。
荷物を持っていない。
配達員のふりをした監視役だ。
僕は、わざと伝票を一枚拾い損ねた。
紙が風にあおられ、監視役の足元へ滑っていく。
彼が反射的に拾った。
その手袋の指先には、黒い粉が付着している。
地下運河の荷台に残っていたものと同じだった。
待ち伏せだった。
あらかじめ情報を得ていたのか、出口の痕跡だけで経路を読んだのかは判断できない。
「対象を確認した」
監視役が、低く言った。
周囲の執行官がこちらへ向かう。
受付の男が立ち上がった。
「ここは城内便の受付だ。命令書の受取人以外は、配達物に触れるな」
「対象は逮捕命令を受けている」
「逮捕の話は知らん。配達物の通行権は有効だ」
思わぬところで、規則が僕を守った。
受付の男は、僕へ通行札を投げた。
「中央文書門へ行け。そこで記録院へ回す」
「で、でも、追われています」
「王家印つきの配達物を止めた方が問題だ」
僕は通行札を受け取り、何度も頭を下げた。
「す、すみません、ありがとうございます!」
背中を丸め、足をもつれさせながら歩き出す。
内心では、追手の位置を数えていた。
右後方に二人。左の荷箱の影に一人。正面の文書門近くに、別の待ち伏せが一人。
正規の通行札を持っている以上、彼らは僕を止める時に理由を必要とする。命令書に触れれば、配達規則違反になる。だから、正面の二人は通行札を確認するふりをして、僕を文書門の内側へ誘導するつもりだ。
そこなら、王城の記録と僕の身柄を同時に押さえられる。
通行札には、通過した門と時刻が自動で刻まれる。僕が正規の配達経路を通れば、王城側にも新しい移動記録が残る。
逆に、追手が許可区域を越えて僕へ触れれば、彼らの魔力印も記録される。
逮捕する側が、誰の命令で、どの時刻に動いたのかを残すことになる。
僕は、逃げるためだけに走るのではない。
追わせることで、彼らの存在を記録へ引きずり込む。
僕は、わざと中央の道を外れた。
「そちらではない!」
門番が怒鳴る。
「す、すみません! 地図が苦手で!」
僕は荷箱の間へ入り込んだ。
追手も、通行札の効力が及ぶ範囲を越えて追ってくる。つまり、彼らの権限が及ぶ区域を自分で明らかにすることになる。
背後から、魔導弾が荷箱へ当たった。
木片が跳ねる。
周囲の作業員が悲鳴を上げた。
「城内での魔導具使用は禁止だ!」
門番たちが一斉に振り返る。
追手は、撃った者を隠すために動きを止めた。
僕はその隙に、文書門の横にある細い搬入口へ滑り込む。
扉の内側で、フィーナから渡されていた小さな通信石が震えた。
『中央文書門の二つ先に、記録院へ続く配達昇降路がある。そこで待って』
現世の通信だった。
「フィーナ、子どもたちは?」
『診療所へ移した。三人とも生きている。ただ、リオがあなたの後を追おうとしている。眠ったまま、何度も「ミレア」と呼んでいるわ』
「止めてください」
『言っている。でも、あなたが戻ると約束したから』
返事が詰まった。
必ず戻るとは言えない。
それでも、戻ると言った。
通信が切れる前に、別の音が混じった。
紙を擦る音。
続いて、フィーナの息を呑む声。
『ユーリ、命令書の裏に何かある』
僕は足を止めた。
「何が?」
『表面の古い封印が、別の文字を隠していた。魔力を当てると……』
通信石の向こうで、彼女が読み上げた。
『崩壊するビル』
心臓が、強く跳ねた。
その言葉は、この世界の誰かが偶然選んだものではない。
前世の最後に見た建物を指す言葉。
僕が爆発の中で死んだ場所を、現在の世界の命令書が知っている。
『その文字列だけ、封印の魔力が異常に強い。誰かが、後から隠したみたい』
背後で、扉が開いた。
追手が搬入口まで来た。
「文字を抜け」
監視役の声がした。
「紙はいらない。その言葉だけを消せ」
僕は、息を止めた。
彼らが欲しいのは、逮捕命令でも古代兵器の情報でもない。
崩壊するビルという、たった六文字の記憶だった。
僕は通行札を握り、配達昇降路の蓋を開けた。
王城の地下へ落ちる直前、懐の命令書が熱を持つ。
古い王家の印の下で、隠された文字がもう一つ浮かび上がった。
――特務の犬。
追手が手を伸ばす。
僕は蓋を閉じ、王城記録院へ向かって落下した。
落下の途中で、何か柔らかいものに受け止められた。
僕は、積み重ねられた古い書類袋の上へ転がった。袋が破れ、乾いた紙片が雪のように舞う。
王城記録院の地下だった。
頭上の配達昇降路は閉じられている。追手がこちらへ降りてくる気配はない。通行札が反応し、昇降路の扉を一時的に封じたらしい。
僕は起き上がり、懐の命令書を確かめた。
無事だった。
古い王家の印も、隠された文字も消えていない。
周囲には、天井まで届く記録棚が並んでいた。中央の机に座る初老の書記官が、眼鏡越しに僕を見ている。
「配達物は?」
「こ、これです」
「受領人を確認する」
「記録院長宛てです。封は開けられません」
僕は命令書を差し出さず、両手で抱えたまま頭を下げた。
書記官が不機嫌そうに立ち上がる。
「ここまで運んで、渡さないのかね」
「受取人以外に渡すと、僕が配達規則違反になります」
書記官の背後にある受領台が、淡い青色に光った。
命令書の印に反応したらしい。
だが、光の形がおかしい。
受領台の中央から伸びた細い線が、命令書ではなく、机の下へ向かっている。
僕が一歩下がった時、通信石が震えた。
『ユーリ、聞こえる?』
「フィーナ?」
『今、廃診療所の裏にある旧搬送庫を調べている。あなたが運んだ命令書と同じ魔力波長が、別の印章装置から検出されたの』
「同じ印を、もう一つ作れる?」
『正確には、同じ波長を再現する装置よ』
フィーナの声に、わずかなためらいがあった。
『私は、魔力波長が印章の持ち主を示すと思っていた。だから、古い王家の印が本物なら、命令も本物だと……』
「違った?」
『波長は、本物と同じにできる』
受領台の光が強くなった。
机の下から、薄い金属板がせり上がる。板の中央には、小さな印章が固定されていた。周囲に刻まれた魔導線が、命令書の王家印と完全に同じ波長で脈動している。
書記官が驚いて後ずさった。
「そんな装置は、記録院にはない」
「では、なぜ受領台の下に?」
僕が訊くと、書記官は答えられなかった。
装置の先端から、薄い魔力膜が伸びる。
命令書の表面へ触れようとしていた。
狙いは原本の内容ではない。
隠された文字列――崩壊するビル。
膜がその文字の周囲だけを囲い込む。
「触らせるな!」
通信石の向こうで、フィーナが叫んだ。
僕は命令書を引いた。
魔力膜が紙を追って伸び、腕へ絡みつく。触れた箇所の文字だけが淡く浮き上がった。
崩壊するビル。
六文字が、空中へ抜き取られようとしている。
僕は書類袋を投げつけた。
紙の束が装置へ当たり、魔力膜が一瞬だけ乱れる。その隙に命令書を折り、文字列を内側へ隠した。
装置の印章が空打ちする。
青い光が散った。
「何をしている!」
書記官が叫び、机の横にある警報石へ手を伸ばす。
「その装置を止めてください」
「私が設置したものではない!」
「なら、止める理由はあるはずです」
僕は、装置の側面に刻まれた細い数字列へ目を向けた。
数字の配置は、地下運河の荷札と同じだった。大きな番号の横に小さな枝番が並び、最後の桁だけが空白になっている。
フィーナが通信石を通して言った。
『右側の蓋を開けて。魔力の流れを逆にする刻印がある』
「分かるんですか?」
『分かるのではなく、鑑定鏡で見えているだけよ。実際に触るのは、あなた』
僕は装置の右側へ回った。
背後で、地下昇降路の扉が揺れた。追手が上から降りようとしている。
僕は蓋の留め具へ指をかけた。
金属が熱い。
前世の研究棟で聞いた言葉が重なった。出力波長が同じでも、事故の原因まで同じとは限らない。見るべきは使用者と負荷、順番だ。
印の本物さだけでは、誰が装置を使ったかを証明できない。それがフィーナの盲点だった。
『王家印が本物かどうかだけを調べていた。でも、本物の波長を複製したなら、印の真贋では足りない』
フィーナの声に、悔しさが混じった。
『必要なのは、誰が装置を扱い、どの時刻に、どの負荷で印を作ったか。その三つを分けて調べることね』
「技術と使用者を、分ける」
『ええ。あなたは最初から、それを見ていたの?』
「見ていたというより……そうしないと、また同じことになる気がしただけです」
また、という言葉が口から出た。
あの時も、事故の記録は装置のせいにされ、保守員の手順は誰にも調べられなかった。
僕は、その時も誰かを疑う順番を間違えたのかもしれない。
「フィーナ」
『何?』
「この装置、印を作るためだけに使われていません」
『ええ。発令時刻と使用者の魔力を、別々に記録している』
「なら、使用者の記録を残せる」
『待って。装置の底に、熱の偏りがある。左側だけが新しい』
僕は、蓋の隙間へ指を入れた。
左側の金属だけが、まだ温かい。
誰かが直前まで装置を使っていた。
金属板の内側には、薄い記録片が差し込まれていた。魔力を流すと、使用時刻と作業者の指紋が浮かび上がる。
名前はない。
だが、左手の親指を内側へ折り込んだまま触れた時の、独特の魔力の偏りが残っていた。
シアンではない。
似ているが、最後の波が違う。
「別人です」
『シアンの模倣犯?』
「たぶん」
その時、昇降路の扉が開いた。
追手の魔導弾が飛び、記録棚の一角を吹き飛ばす。
書記官が机の下へ伏せた。
「記録院で魔導具を使うな!」
書記官が震える声で叫ぶ。
「ここは記録を守る場所だ。誰の命令であっても、記録を消すことは許されない!」
その言葉に反応し、棚の奥から古い封印がいくつも起動した。紙を燃やすのではなく、触れた者の魔力を記録するための封印だ。
追手の一人が、装置へ伸ばした手を引いた。
指先に、青い記録線が絡みつく。
「退け!」
「嫌だ。ここで誰かが記録を消したら、今度は私が証人になる」
書記官は震えながらも、警報石を押し込んだ。
王城全体へ、記録院の異常が伝わる。
僕は装置の底から記録片を抜き取る。
装置が、最後の一度だけ印章を動かした。
空中へ、古い王家の印が浮かぶ。
その中心に、製造番号が現れた。
帝国第零技術局の番号体系。
フィーナの声が、通信石の向こうで途切れた。
同時に、命令書の内側で魔力に定着していた六文字の縁が弾けた。黒い墨の粉が一文字分、紙面から剥がれ落ちる。
――崩。
六文字のうち、「崩」の一字だけが、記録の外へ抜き取られた。
敵は、文字を消したかったのではない。
誰がその言葉を知っているかを、探している。
僕は記録片を握り、王城記録院の奥へ走った。




