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『偽りの封印と灰色の伝票』 ~元特務潜入員の配達員は、改ざんされた記録で巨悪を暴く~  作者: NN
未受領票と灰色の羽根編

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抜けない鎖と来るなという案内

 取調官が古い照合札を机へ置いたまま、扉の外へ出ていった。


 机へ置かれた札は、帝国の一般的な照合札ではなかった。


 表面には現行の入国台帳から写した、ユーリ・クロムウェルの名、王国籍、入国時刻がある。裏面には薄い金属片が継がれ、崩れた建物の輪郭と、意味を失った英字の符号、死亡扱いの記録が刻まれていた。


 表は帝国の行政記録。裏は第零技術局が後から添えた機密付記だ。札の角には帝国警備隊の印の上へ黒い継ぎ目が重ねられている。第零局から照合権限を預かった取調官だけが扱う、一枚に見せかけた二重の記録だった。


 白い灯りだけが残る。


 拘束具は金属製だった。魔力を流せば締まり、力を込めればさらに締まる。無理に外そうとすれば、手首の魔力線を乱して失神させる仕組みだ。


 僕は動かなかった。


 机の上にある照合札へ触れたい気持ちはあった。だが、触れれば指紋と魔力の両方が残る。何を見たのかを、相手へ教えることになる。


 取調官は、僕の反応を見るために札を置いていった。


 取調官の言葉だけが、頭の中に残っていた。


 この世界で、僕は生まれた時からユーリ・クロムウェルだった。家族も、幼い頃の記憶も、物流局で怒鳴られてきた履歴もある。誰かと入れ替わったわけではない。


 それなのに、帝国の記録板には死亡確認がある。


 死んだ人間が、同じ名前で生きている。


 前世の記憶と、今の記録が一つの机に並んでいる。


 その組み合わせが、偶然とは思えなかった。


 扉の向こうで、鍵が回る。


 取調官ではない。足音が二つ。片方は重く、片方は荷車の小さな車輪を引いている。


「医療箱の届け先が、ここになった」


 外から男の声がした。


「取調区画への搬入許可はない」


「許可証はある。中身は、炉熱による魔力焼けを抑える冷却薬だ」


 兵士たちが言い争っている。


 僕は、持ち込んだ医療箱の一つを思い出した。


 表向きは、保守作業員用の冷却薬。


 だが、受領先は研究都市内の警備診療所になっていたはずだ。取調区画へ届ける指示は、誰かが途中で書き換えたことになる。


 扉の小窓から、見慣れた灰色の法令板が見えた。


 ガウェインだ。


 その隣にはフィーナがいる。彼女は荷車の封印を見て、冷たい顔をしていた。


「帝国の特例輸送規則、医療箱の受領場所が変更された場合は、変更命令の発行者と時刻を記載する必要がある」


 ガウェインが言った。


「記載がないなら、搬入者は違反にならない。違反になるのは、変更を行った者だ」


「この箱は、取調区画へ運ぶ必要がある」


「なら、受領者を記録しろ。誰が受け取る?」


 返事がない。


 フィーナが封印札を指先で弾いた。


「この箱の冷却薬は、開封後三十分しか効力を保ちません。ここで止めるなら、薬が無効になった責任を受領側が負うことになります」


「脅しているのか」


「鑑定結果を説明しています」


 ガウェインが扉へ近づく。


「ユーリを拘束したまま医療箱を持ち込むなら、担当配達員を受領立会人に指定してください。彼はこの箱の内容と封印を知っている」


 僕は息を止めた。


 配達員を受領立会人にする。


 それなら、拘束区画へ荷物と一緒に入れることができる。


 そして、配達員は荷物を届けるまで、受領場所と経路を確認する権利を持つ。


 白色灯の向こうの光景が、ゆっくり重なった。


 封鎖区域へ入る救援車両。


 車両の側面に貼られた認証札。


 武装した警備員が道を塞いでも、救援物資の搬送許可だけは拒めない。僕は運転席から降り、認証番号と受領先を読み上げた。


 合法輸送は、正面から閉じた場所へ入るための鍵になる。


 鍵は、扉を壊すためではない。


 扉を開ける理由を、相手の規則の中へ置くためにある。


 僕は手首の拘束具を見た。


「この医療箱を、僕が届けます」


 扉の外が静かになった。


 ガウェインが、わずかに目を細める。


「ユーリ、条件を言え」


「受領者を記録すること。箱の封印を、受領時まで誰も触らないこと。配達経路を伝票へ書くこと」


 僕は、扉の小窓へ顔を近づけた。


「それが守られないなら、配達できません。僕が荷物を持っていたことだけが、違反の証拠にされるので」


 気弱な配達員らしく、声を少し震わせる。


 だが、言葉の順番は間違えない。


 警備隊は僕を逃がしたくない。


 だからこそ、医療箱の受領を拒否できない形にする。


「受領者は、取調区画の監督官だ」


 兵士が答えた。


「名前は?」


「監督官で十分だ」


「帝国法では不十分です」


 ガウェインが即座に返した。


「責任者の名前がなければ、受領記録が成立しない。成立しない受領記録を根拠に、配達員を拘束し続けることもできない」


 兵士が法令板を覗き込む。


 ガウェインは、条文の該当部分を指で押さえていた。


 正しいかどうかだけではない。


 相手が反論するには、別の条文を持ち出さなければならない。別の条文を持ち出せば、命令書の不備を自分たちで認めることになる。


 フィーナが、僕の視界へ入る位置で小さく指を動かした。


 封印を見ろ。


 僕は医療箱の札を見た。


 正規の白い封印の下に、薄い黒線が一本だけ重なっている。これは第零局の監視線ではない。セリアが使う、短距離通信の妨害を示す印だった。


 通信が、近くで切られている。


 セリアがこの取調区画を包んでいる。


 僕が気づいた瞬間、耳の奥で小さな音がした。


 軽く二回。


 セリアからの合図だ。


 通信石を直接使えば、帝国の監視に拾われる。だから医療箱の封印を通じて、短い振動だけを送っている。


 外の状況は分からない。


 ただ、脱出できる隙間を作っていることだけは伝わった。


「分かった。配達員を一時的に移送する」


 警備隊の女が折れた。


「医療箱の受領を終えるまで、拘束は継続する」


「構いません」


 僕は立ち上がった。


 拘束具の鎖が鳴る。


 僕の配達鞄は兵士が持ち、医療箱はガウェインが押す。フィーナは法令板と鑑定具を抱えている。


 取調区画の奥には、荷物を受け渡すための小さな配達口があった。


 人が一人、ようやく通れる大きさだ。


 警備隊の兵士が鍵を差し込む。


 その時、通信妨害が一瞬だけ強くなった。


 白い灯りが消える。


 完全な暗闇ではない。


 医療箱の封印が、淡い青色を放った。


 僕は拘束具の鎖を、配達口の荷物固定金具へ引っかけた。


 鎖が伸びきり、兵士の手元が止まる。


 ガウェインが医療箱を横へ滑らせた。


 箱が扉の内側へ入る。


 僕は箱の側面へ肩を当て、配達口の向こうへ体を滑り込ませた。


「止まれ!」


 兵士が魔導射出器を構えた。


 だが、配達口の向こうは医療保管庫だった。箱の封印が開けば、冷却薬が失われる。魔導具を使えば薬を壊す可能性がある。


 兵士の指が止まる。


 その一瞬で、僕は保管庫の反対側にある搬出口へ走った。


 前世の救援車両で、封鎖区域へ入った時と同じだ。


 武器ではなく、荷物の通り道を使う。


 搬出口の扉を開けると、地下駅へ続く階段があった。


 通信石が一度だけ震える。


 セリアの声が、途切れ途切れに届いた。


『北……地下駅……来るな……』


 警告か。


 それとも、別の意味か。


 僕は階段の途中で、壁に刻まれた結び目を見つけた。


 三本の線が交差し、最後の端だけが内側へ折れている。


 シアンの結び目だ。


 その下には、短い文字が刻まれていた。


 来るな。


 背後から、警備隊が保管庫へ入ってくる音がした。


 僕は拘束具の鎖を引きずりながら、地下駅の暗がりを見下ろした。


 来るなという案内が、罠なのか、救助なのかは分からない。


 ただ、シアンがここへ来るなと残した場所へ、僕は今、配達員として入ってしまった。


 地下駅へ下りる階段の途中で、拘束具の鎖が止まった。


 壁に埋め込まれた古い金具へ、鎖の先が引っかかっている。


 無理に引けば音が出る。


 背後から警備隊の足音が近づいていた。


 僕は階段の手すりへ手を置き、鎖を見た。


 金具は壊れていない。むしろ、拘束具の規格に合わせて削られている。誰かが、同じ形の鎖を引きずった人間がここを通ることを想定していた。


 偶然ではない。


 だが、シアンが僕を助けるために用意したとも限らない。


 黒曜の天秤は、救護路を兵器の運搬へ変えた組織だ。敵のために作られた仕掛けを、シアンが利用している可能性もある。


 僕は鎖を金具から外した。


 金属が擦れる前に、足元の床板を踏む。


 床板が沈み、階段の壁から白い魔力が流れた。


 拘束具の輪が一瞬だけ緩む。


 僕は右手を抜き、鎖を残したまま下へ走った。


 背後で警備隊が叫ぶ。


「止まれ! 配達員!」


 地下駅のホームは、古代炉の白い管を通すために作られていた。


 線路はない。


 代わりに、床の中央へ幅広い魔力溝が伸びている。かつて荷台を走らせていた溝らしく、両脇には古い積み下ろし場が並んでいた。


 灯りは三つ。


 一つは消えかけ、二つ目は青く、三つ目だけが白い。


 白い灯りの下に、布をかけた荷車が止まっていた。


 荷車の横に立つ老人が、僕を見た。


「その鎖を捨てろ」


「捨てると、警備隊に追跡されます」


「もう追跡されている」


「なら、捨てない方がいい」


 老人は、ほんの少しだけ口元を緩めた。


「配達員らしい答えだ」


 彼の腕には、黒曜の天秤ではなく、白い糸で縫われた古い腕章がある。


 地下住居で見た女と同じ、救護側の印だ。


 老人が指を二度鳴らす。


 荷車の下から、二人の運び手が現れた。彼らは僕を囲んだが、刃物を抜かなかった。


「灰羽を持っているか」


「持っています」


「敵へ渡した羽根ではない。子どもたちの荷車にあった方だ」


 僕は答えず、外套の内側へ手を入れた。


 灰羽を取り出す。


 老人の表情が変わった。


「本物を持ってきたのか」


「預かっているだけです。受取人を確認できていないので、渡せません」


「ここは、受取人を確認する場所ではない」


「なら、誰がこの羽根を受け取るのですか」


 老人は答えなかった。


 ホームの奥で、白い灯りが一度消えた。


 警備隊が階段を下りてくる音が響く。


「警備隊が来ます」


「ここは見つからない」


「来ています」


「見つかることと、入られることは違う」


 老人が床の魔力溝へ足を置いた。


 白い灯りが消え、ホーム全体が暗くなる。


 代わりに、荷車の車輪の内側だけが淡く光った。


 光は、ホームの奥へ伸びている。


「荷車を押せ」


 老人が運び手たちへ言った。


 布の下に、人の気配がある。


 子どもたちの荷車だ。


 僕が足を止めると、老人が低く言った。


「今ここで立ち止まれば、あの子たちも巻き込まれる」


 僕は荷車の後ろへ回った。


 拘束具の鎖が床を打たないよう、片手で持ち上げる。


 荷車が魔力溝の上を滑った。


 警備隊の灯りが、階段の下へ現れる。


「王国の配達員は、そこにいるな!」


 魔導具が起動する音がした。


 老人が僕の前へ出る。


「ここは帝国救護規則に基づく避難所だ。武装した警備隊が入るなら、身柄の保護ではなく、避難路への侵入になる」


「その避難所に、逃亡犯を隠している」


「逃亡犯ではない。医療荷物の配達員だ」


 老人は、僕の胸元にある伝票を指した。


「封印が残っている。配達を終えていない者を、帝国の許可なく別区画へ移すことはできない」


 警備隊の隊長が、階段の途中で足を止めた。


 また、法だ。


 けれど、今度は老人が同じ帝国法を使っている。


 救護路を壊した秤部と、第零局が、かつて守るために作られた規則に縛られている。


 隊長はしばらく僕たちを睨んだ後、魔導具を下ろした。


「配達員を引き渡せ。避難民と関係がないなら、ここで分ければいい」


 老人が僕を見る。


「引き渡すか」


「しません」


 僕は答えた。


「まだ配達の途中です」


 その返事を聞いて、荷車の下から小さな手が伸びた。


 子どもが、灰羽の端を指で触れている。


 羽根の魔力が、荷車の下へ細い線を伸ばした。


 白い灯りが、奥の壁に一本だけ点く。


 避難路が開いた。


 荷車は、その光の中へ消えていく。


 僕は老人へ訊いた。


「ここは、黒曜の天秤の施設ですか」


「昔はそう呼ばれていた」


「今は?」


「戻れない人間を、戻れる場所へ送るための駅だ」


 老人は、荷車の後を見送った。


「兵器の運搬に使われるようになってから、救護部門は表から消えた。だが、消えたのは名前であって、道ではない」


 僕は、壁に残った古い駅名板を見上げた。


 文字の一部が削られている。


 黒曜の天秤という名前の下に、別の文字が重なっていた。


 帰還輸送所。


「シアンは、ここにいるんですか」


 老人は、答える代わりにホームの端を見た。


 そこには、白い壁に刻まれた結び目がある。


 来るな。


 昨日から何度も見ている言葉だ。


「本人は、監視されている」


 老人が言った。


「黒い運び手にも、白い運び手にも追われている。ここへ来れば、駅の場所が知られる」


「だから、来るなと?」


「それだけではない」


 老人は結び目の下に、親指を押しつけた。


 三本線のうち、中央だけが沈み込む。


 壁の中から、小さな筒が滑り出てきた。


 老人は僕へ渡さず、足元へ置いた。


「シアンが残した。お前に渡せと頼まれたわけではない。だが、お前が来た時にだけ開くようにしてある」


「来るなと書いた本人が?」


「警告を、文字通りに読むな」


 白色灯の下の光景が、また揺れた。


 目立つ場所へ書かれた退避命令。


 敵に見せるための文章。


 仲間だけが、折り目や結び目の違いを読む。


 来るなという言葉は、監視者へ向けたもの。


 その下の結び目は、別の場所へ行けという指示だった。


 僕は筒を拾った。


 中には、薄い帳簿の切れ端が入っている。


 黒い紙に、古い支払いの記録が並んでいた。


 受取先は第零技術局。


 支払いの一つは帝国の技術結晶。


 もう一つは、王国の現在の王家では使われていない古い印だった。


 見覚えがある。


 灰羽に刻まれた三本線と同じ方向を向く、先王時代の救護院印。


 その印の横には、短い文字がある。


 共同研究費。


 救護路を兵器へ変えた取引先は、帝国だけではない。


 過去の王国側にも、同じ帳簿へ支払いを記した者がいる。


 僕が紙を裏返すと、シアンの左手の親指の跡が残っていた。


 彼は、もう隠していない。


 それが本人の証拠なのか、誰かに押させた偽の痕跡なのかは、まだ分からない。


 遠くで、警備隊が退く音がした。


 老人が、白い灯りを一つだけ点ける。


「その帳簿を持って、ここを出ろ」


「シアンは?」


「会うな。今は、会えば彼が死ぬ」


 来るな。


 その言葉は、僕を拒絶しているのではなかった。


 シアンが一人で背負い込んだ、危険の大きさを示していた。


 僕は本物の羽根と帳簿の切れ端を、別々の封筒へ入れた。


 救護路の避難所を出る前に、僕は壁の結び目をもう一度見た。


 白い糸の端が、帝国ではなく王都の方向へ折れている。


 黒曜の天秤の帳簿に、王国旧王家の印がある。


 シアンは、帝国へ潜入したのではない。


 王国と帝国の両方へ伸びる、もっと古い取引を追っている。


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