配達員の仮面
足音は七つ。
そのうち、敵意を持っているのは二人。
窓際の男は三秒後に右手を印章へ伸ばす。帳簿係の女は、さっきから同じ頁を三度めくっている。正面入口の衛兵は交代したばかりで、槍の石突きに新しい雪が付着していた。裏口の鍵は閉まっているが、蝶番の下に油が差されている。逃走経路として使える。
王立輸送ギルドの午後は、いつもと変わらない。怒鳴り声と走り回る靴音に、魔導台車の車輪が石床を削る音が重なる。荷札に刻まれた魔力が淡く光り、職員たちはそれぞれの担当箱を奪い合うように運んでいた。
魔導台車を維持できるのは、魔石と整備工を確保できる都市や軍の拠点だけだ。少し地方へ出れば、荷物を運ぶのは今も馬車と人の肩だった。
僕は、その中央で盛大に伝票を落とした。
「ひっ……す、すみません! すぐ拾います! 僕、またやってしまった……!」
腰を折って、床に散らばった紙をかき集める。
大半は、わざとだ。
ただ、最後の一枚だけは本当に指から滑った。前世の手順を知っていても、今の身体が同じ速さで動くわけではない。
紙が落ちた瞬間、周囲の視線が僕へ集まる。怒鳴り声を上げる人間は、怒りを向けた相手以外を見なくなる。視線が一つにまとまれば、周囲の動きが読みやすい。
僕の前を通り過ぎた男が、右足をわずかに引きずった。運搬係の制服を着ているが、靴底は雪道用ではない。窓際の帳簿係は、こちらを見ていないふりをしながら、右手の指を二度だけ机に打ちつけた。合図だろうか。それとも癖か。
そして、中央通路の奥。
王立輸送ギルドの統括部長、バレルは、怒鳴りながら僕ではなく、ひとつの木箱を見ていた。
「ユーリ! 何度言えばわかる! 荷物を運ぶだけの仕事もできないのか!」
「す、すみません……僕は荷物を運ぶことしかできないのに、その荷物すら……」
「口答えするな!」
「す、すみません!」
バレルの声が大きくなる。
その間に、木箱の横を通り過ぎた職員が二人。片方は箱の封蝋を見て、もう片方は見なかった。見た男の左手には、灰色の粉が付いている。
灰。
王都のギルド内で、雪国の鉱山から届いた箱に灰が付くこと自体は珍しくない。だが、その粉は木箱の表面ではなく、封蝋の縁にだけ残っていた。しかも、魔力の反応が通常の炉灰と違う。
僕は拾い上げた伝票を束ねながら、木箱を横目で見た。
送り主はグラキエス自治区の古代遺跡調査局。
輸送品目は、特産鉱石。
封印は三重。送り主、輸送ギルド、受取人。それぞれ異なる魔力波長を持つ正式な封印だ。
けれど、三重封印の一番下。
見えないように重ねられた灰色の薄膜が、ほんの少しだけ光を吸っている。
あれは鉱石の輸送箱に必要な封印ではない。
僕は、拾い集めた伝票の一枚をわざと逆さまにして、バレルの怒鳴り声に怯えるふりをした。
「はい、全部拾いました。すみません。僕、もう一度数えます」
紙の束を抱え、箱の横を通り過ぎる。
近づいた瞬間、木の内部から、ごく小さな振動が伝わってきた。
魔導具が動いている音ではない。
まるで巨大な氷の下で、冷え切った心臓だけが跳ねたような、低く重い響きだった。
「ユーリ」
背後から声をかけられ、僕は肩を跳ねさせた。
「ひゃいっ!」
振り返ると、シアンが立っていた。僕より少し背が高く、いつも通り人懐こい笑顔を浮かべている。手には焼きたての肉パンが二つ。ひとつは僕の分だ。
「昼飯、食ってないだろ。ほら」
「え、でも……僕なんかがもらっても……」
「僕なんか禁止。食わないと、また運搬途中で倒れるぞ」
シアンは肉パンを僕の胸へ押しつけた。
彼は昔からそうだった。僕が怒鳴られれば間に入り、昼食を抜けば食べ物を押しつけ、僕が何かを隠していると、隠していることだけは見抜く。
「さっきの箱、何が入ってるんだ?」
何気なく訊ねると、シアンは笑った。
「ただの鉱石だよ。王都の貴族が欲しがる、珍しい石らしい」
左手の親指が、袖口の中へ消えた。
胸の奥で、冷たいものが沈んだ。
だが、僕は気づかなかったふりをした。
「へえ……僕には石の違いなんて、全然わからないなあ」
「お前は伝票の数字だけ見てればいいんだよ。難しいことは俺が考える」
シアンは笑い、木箱の前を通り過ぎた。
その時、箱の底から何かが落ちた。
灰色の羽根だった。
雪原に生きる鳥の羽根にしては、あまりにも硬い。薄い金属のようで、表面には細かな傷が刻まれている。
僕が拾い上げた瞬間、視界の端が白く弾けた。
雪。
燃える馬車。
遠くで誰かが叫んでいる。
『帰ったら、約束の場所へ行こう』
幼い頃の父の声だった。
僕は羽根を握りしめ、頭を一度振った。
王立輸送ギルドの石床。怒鳴るバレル。肉パンを持ったシアン。そして、眠ったまま脈打つ木箱。
羽根の裏側には、文字が刻まれていた。
――灰が降る場所で、門を開けるな。
古い軍用暗号だ。
十四年前に廃止された、王国軍の救援部隊だけが使っていた暗号。
僕は、灰色の羽根をポケットへ滑り込ませた。
その直後、ギルドの正面扉が開いた。
冷たい風とともに、王国憲兵の制服を着た男たちが入ってくる。先頭に立つ男の目は、怒鳴り声にも動じず、木箱だけでなく、床に散った伝票の乾き具合と、僕の指先に残った封蝋の粉まで一瞬で見定めていた。
普通の立入検査なら、最初に受付へ向かう。
だが、彼らは違った。
先頭の男が箱を見たまま、左手をわずかに上げる。後ろの二人が扉の左右へ散り、別の一人がギルドの裏口を確認した。残りは職員の顔を見ている。荷物の検査ではなく、人間の逃走を想定した配置だ。
誰かが、憲兵へ情報を流している。
僕は肉パンの包み紙を握り潰さないように注意しながら、視線だけを動かした。バレルは憲兵へ歩み寄ろうとしている。しかし右足が半歩遅れた。逃げたいのに、逃げれば疑われると判断している時の歩き方だ。
シアンは動かなかった。
動かないことを選んだのだ。
胸の奥で、古い戦場の感覚が一瞬だけ目を覚ます。敵の人数、味方の位置、最初に崩れる場所。必要な情報を並べれば、次に起きることは予測できる。
ただし、予測できることと、止められることは違う。
僕はまだ、何も知らない配達員だった。
いや。
知らないふりをしている配達員だった。
ならば、最初の一手は決まっている。
誰かが僕を犯人にする前に、僕の目で見たものを一つでも多く覚えておく。箱の傷、封印の順番、憲兵の靴底、そしてシアンが隠した左手。そのすべてが、あとで僕を生かす証拠になるかもしれない。
バレルの顔から、血の気が引いた。
シアンの笑顔が、一瞬だけ消えた。
僕は肉パンを抱えたまま、もう一度だけ気弱そうに頭を下げた。
その裏で、逃走経路を三つ、敵の人数を五人、封印箱を運び出すまでの時間を計算していた。
この時点では、まだ僕に疑いの目を向ける者はいない。けれど、箱のそばにいた僕が、最初に事情を聞かれるのは間違いなかった。
疑われる前に、見たものを覚えておく。最初に動くべきなのは、僕だった。




