39 交錯の境域
イッロが力強く一歩踏み出すと、ウェヌースの視線が自然と向き、嫌悪の表情が一瞬で消えた。
その代わりに、まるで『何か?』と問いかけるように、微かに首を傾げた。
その変化に、イッロは一瞬の間を置き、冷静に胸の中で判断を下す。
ウェヌースが見せたその微妙な変化に、彼はただの感情の揺らぎではないことを感じ取っていた。
イッロは落ち着きを保ちながらも、堂々とウェヌースに近づいていく。
彼の背後では、弟妹や縁者たちが、何か起きたときにすぐに動けるよう息を潜めて静かに見守っている。
あと数歩で手が届く距離まで近づいたその時、イッロは足を止めた。
ウェヌースはそのまま動かず、イッロを無表情でじっと見つめている。
周囲の静寂を破るように、キューコの震える叫び声が響いている。
イッロは片手を持ち上げ、白磁の小瓶を指先で慎重に摘んだ。
「これは、志津火殿から預かったものだ」
と、静かな声で告げた。
ウェヌースはその言葉に反応することなく、わずかに眉を動かした。
イッロは見逃さなかった。
表情に何か、感情の機微を見留たのだ。
数歩前に出たイッロは、ウェヌースが手を持ち上げれば届く距離まで近寄った。
その瞬間、ウェヌースの表情がほんの少し緩んだ。
微かに笑みを浮かべ、次第にその顔には慈愛に満ちた眼差しに変わる。
イッロはその笑みの奥に潜む意味を探るように、鋭い視線をウェヌースに向ける。
ヴェールに隠したニコの視線は、ウェヌースの指先に自然と引き寄せられるように揺れた。
「今なら……、逃がせると思う?」
その言葉は、キューコたちの運命を左右する問いかけのようだった。
「無理だね」
最初にヨーコが答え、サーロがそれに頷く。
「纏う雰囲気は柔らかなのに、なぜだか全然隙が見いだせない」
ナーコはそう言いながらも、妻サーエルに視線を送った。
サーエルは無言でその意見を肯定した。
「誰かが背を向ければ、終わりだと俺も思う」
ハチロも控えめに意見を述べた。
「我々と油売りも同じく」
最後にカークスが総意を述べ、満場一致が成立した。
ニコは小さく頷きながら、冷静に言った。
「初動は私が。あとは各々に任せる。」
薄いヴェール越しの瞳は、前方のやり取りを一言たりとも見逃さないよう、さらに鋭く注がれていた。
カロワンは瀕死のまま、意識の闇に沈んでいる。
だがベルクは、こぼれそうになる意識を気力で掴んで逃さないでいた。
おそらくベルクは死んでもキューコの盾となる。
ニコたちがキューコを逃がす算段をたてたなら、彼は迷わず死を選ぶだろう。
そして、その視線はウェヌースの一挙手一投足を見逃さないだろう。
「なぜ、このムラクモだったのか、問えば答えてくれるのだろうか」
イッロは白磁の小瓶を掲げたままの姿勢で問う。
異国の、敵対する神に対してとは言え、不遜に当たる態度だ。
ウェヌースは意外そうな面持ちを作ったあと、さらにやわらかく笑った。
「私から大事なものを奪ったから。大事なものが何だったか、それは覚えている。だけど確信が持てないの」
ウェヌースは両手のひらを自分の胸に当てた。
わずかに俯いたせいで笑みは物憂げに見える。
「実のところ、この小瓶をどうやって渡そうか、それが一番の悩みだった。だが、こうして目の前に現れてくれたのは行幸だ」
ウェヌースの行動も言動も、神らしからぬ、ひどく人間じみて見える。
イッロは言いながらも、言い終えた後も、器用に考えていた。
ウェヌースの言う“大事なもの”とは何を指すのか、可能性はいくつもあった。
だが、確信という部分はおそらくイッロの持つ白磁の中にある。
「抜け落ちた記憶のことだったなら、ここに――」
「悪魔が、私からすべてを奪ったの。志津火も記憶もね」
言い終える前に、ウェヌースが胸に当てた手の片方を差し伸ばしながら、言葉を被せて遮った。
会話の内容は噛み合っていた。
言葉の上では、どこにも綻びはないように思える。
だが、どこかが違う。
言葉の上では、何の矛盾もない。
けれどそれは、織られた絨毯の一部だけが、いつの間にか別の模様を描きはじめているような違和感だった。
イッロはその違和感を抱えたまま、小瓶を持ち上げる。
たとえ何かが噛み合っていなくとも、今は渡すしかなかった。
これを渡せば、記憶が補填され、戦争を終わらせることができるかもしれない。
と、そんな淡い期待を、一縷の希望を込め、最後の一歩を踏み出して言った。
「あなたの記憶を奪ったのは悪魔ルイではない。志津火だ。これは、志津火から託されたものだ」
白磁の小瓶に、ウェヌースの指先が触れようとする……その瞬間だった。
「どうせ悪魔の罠でしょう? 志津火なら、私を裏切らないもの」
という語尾と同時、ウェヌースの指先がわずかに動いた。
『パンッ』
と、乾いた破裂音とともに小瓶が砕け、細かな白磁が空中を舞った。
ウェヌースは指先から、ミナヨシの気弾のようなものを放ったのだ。
それが溜めもなく、あまりに唐突だったために成すすべもなく小瓶は砕け、さらには勢い余って、イッロの指先までもが消し飛んだ。
気弾はイッロの頬をかすめ、パンッという短い破裂音とともに石造りの壁をチーズのように抉り取った。
痛みが走るより早く、イッロは反射的に動いた。
小瓶を摘んでいた手とは、逆の手でウェヌースの手を掴もうとする。
そしておそらくは利き手であろう右を掴むことに成功。
だが、これでどうこうできるとは、イッロは思っていない。
追いついて来た痛みに、イッロが顔を歪めたのは一瞬。
そこから自分の身をひねることで、ウェヌースの動きをコンマでも封じることができればいい。
そして正面を、妹の、射線を確保する。
イッロの後方では、兄の息遣いを読んでニコがヴェールを捨て去っていた。
その瞳が異常なほど赤く光る。
ニコ姫は“眼で殺す”そんな噂の真相。
万人を硬直させる魔眼力は、神話の魔物の、石化の眼のごとく。
眼力が、一条の、光の矢のごとくウェヌースに向かって放たれた。
弟、妹、そして部下たちが散り散りに飛び出した。
おそらく、この世界でもっとも完璧に近い連携だっただろう。
サーロが何重にも練り上げた腹腔内詠唱。
腹腔内に溜めた呪文を解放する――その瞬間、サーロが何かの衝撃で仰け反った。
練り上げた複数の呪文が、仰け反った拍子に不完全な形で飛び出す。
形をなさないまま暴走した呪文が、無駄に派手に、『ドーン』と、サーロのほんの数メートル上空で弾けた。
サーロはそのまま、爆風に煽られ、衝撃で意識を失った。
肉弾を仕掛けるはずだったヨーコ、ナーコも吹き飛ぶ。
ほぼ同時に壁へと叩きつけられ、すぐには動けないほどのダメージを負った。
またたく程度の、ほんの僅かな瞬間で、ハチロも壁に叩きつけられる。
襲いかかった全員が、一瞬で蹴散らされた。
一瞬の出来事に、理解が僅かに遅れたイッロ。
ニコは片方の目を押さえながらうずくまっている
運悪く、油売りの数名は、打ちどころが悪く絶命しているのが見た目にも明らかだった。
「殺さないわ。 志津火の気配がするもの。ところで、あなたはいつまで私の手をにぎっているの?」
つまり、言葉通りなら運などではない。
ウェヌースが手心を加えたものは死なず、加えなかったものは、耐えられないものが死んだのだ。
常人よりは速く、イッロはそれを理解したが、その情報は乏しく。
何が起きたのかではなく、ウェヌースの“力”の一端を知ったに過ぎなかった。
どう動くべきか、最適解が見当たらないまま、ウェヌースの右手首を向かい合う形、右手で掴んでいる。
「見えないのね、人間は。交わりすぎたせいかしら、“霊覚”まで退化してしまったなんて……ほんとう、不便」
視覚や聴覚といった五感に加え、ある種族には“霊覚”という第六感が存在する。
それ自体はイッロも知っている。
“霊覚”に長けた者は、人族の中では稀有な存在だ。
兎人族のカロワンなら見えたかもしれないが、だとしても、見えたとて避けきれるものではないのは、彼女の現状を見れば明らかだ。
ウェヌースの金糸が、無風の空間でふわりと揺れた。
その優しい眼差しは、イッロにまっすぐ向けられていた。
「私はね、ただ悪魔と、悪魔の作ったものを消し去りたいだけなの、私の愛した志津火はもう戻らないのだから」
やはり食い違っている。
欠落した記憶の中で、ウェヌースが勝手な解釈をしているとも取れるが……。
(ウェヌースが戦争を始めたから、悪魔が現れたのではなく……)
イッロは肩越しに、桜の巨大木に視線を向けた。
「桜塁の痕跡……」
イッロは悪魔ルイの真名を呟く、そして小さく首を横に振った。
すべてが見当違いだったことになる。
仮にそうなら、悪魔の痕跡が存在したから、ムラクモは襲われたことになるのだ。
だとすれば避けようがなかったのだ。
悪魔さえいなければ、とさえ思えてくる。
「だけど、志津火の血を持つあなた達は別。弟妹たちと父親と、その縁者も。ね、一緒に私の下へいらっしゃい」
ウェヌースは、本当に優しく、手首を握るイッロの手に、もう片方の手を添えた。
それは、人の手の温もりだった。
神というより、母のような優しささえ感じる。
……けれど、ぬるい水に沈んだような、不気味なものが皮膚の奥に染み込んでいく感覚が、イッロを静かに蝕んでいた。
次週、第一章 終




