第六章「設定」3
翌朝、悟理達也はごみ袋を持って重い足取りでマンションを出た。
このマンションの階段付近を通ると、必ず虫が前を横切るので嫌だった。
しかし今日は横切るどころか、綺麗さっぱり見当たらない。
一応、天使がどうにかしてくれたんだろうか、それとも自分の意志によるものだろうか。
いつでもではないが、たまに悟理の欲求が叶えられることはあった。
少し気分が良くなり、彼は軽い足取りで職場に向かう。
しかし駅にもう少しというところで、まるで彼の行く手を阻むかのように大量の虫が発生していた。
「うっ...なんで、ここだけ?」
あまりの露骨さに声が出る。
悟理は元来た道を引き返し、別の道から駅へ進もうとする。
しかしそこにはホームレスらしきおじさんが、道のど真ん中に寝そべっており、またも行く手を阻んでいた。
悟理は我慢し、遠くから助走をつけ、そのおじさんを飛び越えた。
しかしいつの間にいたのだろうか、飛び越えた先にまた不潔そうな男が道の端に座っており、悟理が通る前にまたも道の真ん中に寝そべった。
もう職場に行くことなんてどうでもよくなった。
とにかくこの嫌がらせにイラついた。
イラついたので、いっそサボってやろうと思った。
けど、後ろにも寝そべってんのがいるしなー...
側のおじさんがすっと立ち上がり、どこかに行ってしまった。
帰り道だけが開かれた。
悟理はイライラしながら自宅へ戻った。
戻ってシャワーを浴び、服も靴も洗った。
ふうと息をつく頃には、昼間になっていた。
見覚えのある道を走る。
ハアハアと自分の息遣いが耳に響く。
背後を見やる。
見たことのないグロテスクな化け物が追いかけてくる。
必死に角を曲がる。
そこにもあのグロテスクな化け物が待ち伏せしていた。
長い坂道を駆け上り逃げると、よく見知った特徴的な公園が姿を現した。
その映像を見ながら悟理はため息をついた。
「この公園、俺の地元にあったやつじゃん。なんでそんなとこにこんな化け物がうじゃうじゃいんだよ」
「これは過去性、別の魂が入った別のお前の記憶だ」
悟理の問いに背後から答えが返ってくる。
「あっ!クソ天使!てめーまた嫌がらせしまくっただろ!いい加減にしろよな!」
悟理は黒髪の天使に詰め寄る。
「職場にはもう行くな。しばらく家で考えろ。この世界をお前の理想のものにするためにはな」
「あの壺見て制限外せって?」
「いや、あの壺は見させない。別の方法がある。」
「ほんとかよ」
悟理のいぶかしんだ視線を受け流し、天使レイルは暗闇に浮かびあがる映像に向き直る。
「これを見て、何か気づいたことはないか?」
「前の俺も今の俺と同じとこに住んだことあるってこと?けどあの公園の近くにあんな坂道ないよ。なんで映像には坂道あんの?」
「今のお前の世界にあるあの公園は、この記憶を元に創造されたものだ」
「言ってる意味が分かんねーんだけど」
「例えを変えよう。お前が生まれる前に発生したとされる殺人事件。その情報をお前が目にするまでこの世界には存在していない。その情報は殺人事件以外の記事になっていた可能性すらあった」
「え?」
「つまり、お前が全く見たことにない場所に事前情報なしで行ったとき、あの映像の坂道になりうる可能性も、もしくは全く別の風景になりうる可能性もあるって事だ。前の人生の記憶を元にその場所を創造されるか、潜在意識にもない新たなものを創造されるか、お前次第だ」
悟理は思わず黒髪の天使の瞳を凝視する。
天使はそれを受け止め、続ける。
「お前が何かを思うたび、何かを感じるたびに、様々なものを生み出していく」
悟理の中で何かが腑に落ちた。
だからデジャヴが起こるのかと。
「今日、お前が職場に行けないよう仕向けられたのは、潜在意識でその仕事が嫌だと思っているからだ。ついでに言うと、お前は外にすら極力出たくないと思っている」
悟理は頭を抱えた。
じゃあ、どうすればいいんだ?
不食になって食費は払わずに済むが、光熱費や家賃はそうもいかない。
今は口座から自動引き落としされるから、外には出なくても済むが、それもそう長くは続かない。
「心配するな、時が来たら何とかなるように設定されている」
彼の心情を読んで天使はそう言うが、気が気じゃなかった。
ケータイをいじる。
アプリに入れたカードがシャッフルされる。
以前使っていた紙のカードは捨てた。
洗えないからだ。
あのカードが質問に対する答えがちゃんと出る仕組みが分かった。
引く順番やシャッフルに関係なく、カードを引く前はまだ何が出るか決定されていない。
引く時のその瞬間に、自分の質問、思考に応えるような合ったものが出るようになっているのだ。
物質世界のルールではなく、今その瞬間、自分の思考が反映される事。
悟理はそれが恐ろしかった。
部屋にいきなり、生き物が現れるかもしれないという恐怖。
夢や映像で見たあのグロテスクな化け物が現れるかもしれないという恐怖。
悟理自身が、グロテスクな化け物に変化するかもしれないという恐怖。
もし、悟理が願ってやまない完璧な美しい世界が実現したとしたら、自分の思考実現能力に怯えてやまなくなる。
恐怖を感じている頃なら、まだ実現はされない。
しかしもし、その恐怖すらなくなってしまったら。
そこまで考えはっとした。
ストレスがなくなると、新たなものをストレスだと認知してしまうこの構造。
それすらも、過去性の自分が設定付けした制限。
刺激を求め、望まない人生を望んでしまった別の魂の自分が、
新たなものを求め、望まないものを創り出し後悔してしまった前の自分が、
次はその道を辿らないよう、創られた制限。
恐怖を感じないことこそ、本当の恐怖のはじまり。
何でもできる。
何でも創造できる。
ふと、あの黒髪の天使が物質世界で生きていたという記憶を思い出す。
ピンク色の髪の女と結婚した前の自分の記憶。
あの天使は言っていた。
この世界では性行為はなく、キスで子供を作ると。
その事実ですら、今の悟理の常識の範囲外だった。
自分は一人で、この世界に一人だけで、
自分が死んだら、魂が消滅したら、その記憶だけ潜在意識に入り、また別の自分が全く違う新しい宇宙を創造していく。
今のがんじがらめに付けられた制限は、その過程で生み出されたもの。
安全なままでいたいのなら、多少不便でも今の物質界の制約に従った方が無難だ。




