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case

 

 甘酸っぱい空気が、鼻孔をくすぐった。

 この香りには、憶えがある。

 そうか、百合の香りか。


 大阪(おおさか)守人(もりと)は、スンと鼻を鳴らして匂いを嗅いだ。

 だが、ホンモノじゃねえ。芳香剤か?

 気に入らねえな。独身男の部屋にゃ、似合わねえ香りだ。

 犯罪捜査一筋のベテラン刑事の勘が、文字通り『臭う』と告げていた。


「果物ナイフで、頸動脈をざっくり……。こりゃ、自殺で決まりですね」


 死体をひとめ見ただけで、キャリア組の若い刑事課長はそう断定した。

 九条悟史が死体で発見された裏野ハイツ203号室は、警察官が踏み込むまでは完全な密室だった。そのうえ、凶器の果物ナイフには、悟史の指紋しか残っていなかった。

 自殺以外に考えられなかったが、大阪は洗面台の鏡と悟史の掌にこびりついた血痕が気になっていた。


「自分の血で何か書こうとして、途中で力尽きたか。NP……あとはわからんが」

「遺書のつもりでしょう、趣味が悪い。関係者から話を聞いたら、引き揚げましょう」


 表面的には丁寧な言葉づかいだったが、その若者は大阪よりはるかに階級が上だった。

 大阪は洗面所をあとにするしかなかった。




 殺風景なリビングでは、深江という医師と鷹取という看護師、そして園田という老婆が待っていた。

 風邪でもひいているのか、マスクをかけた園田は「いやだねぇ」と言って、団扇で顔をあおいだ。


「今日は具合が悪そうだったから、アタシが晩御飯を持って来てあげたんだ。でもほとんど残してねえ。たしかに様子はおかしかったよ、幻聴がしてるみたいで、ちょっと気味が悪かった。でもまさか、自殺するとは思わなかったよ。そのビデオのせいかね」


 園田が視線を投げた先には、有名なホラー映画のDVDがあった。社会現象にまでなった作品だったから、大阪も観たことがある。

 髪の長い女の亡霊に追い詰められた男が、包丁で反撃するが返り討ちにあって殺害される。男は錯乱の挙句の自殺ということで、事件は片づけられる。

 たしか、そういうオチだった。

 気に入らねえな、と再び大阪は思う。

 自殺するヤツが、ホラー映画やアダルトビデオをレンタルするか?


「これじゃあ、この部屋にはもう誰も住まないよ。大家さんも気の毒に」


 ぼやく園田の横では、医療用の青いマスクをつけた深江と鷹取が、沈んだ表情の顔を並べている。


「すみません、私が無断欠勤したせいで」

「君のせいじゃないよ。僕だけでも、すぐに来ていれば良かったんだ」


 深江は優しげな声でそう言うと、うなだれた鷹取の肩に手を置いた。

 その手が、彼女の首筋に貼られた、大きな絆創膏に触れる。


「これ、どうしたの?」

「なんでもないんです。ちょっと、その、痕が残っちゃってて……」


 鷹取はそうつぶやいて、恥ずかしそうに顔を伏せた。

 大阪はわざと大きな咳払いをする。

 こいつらも、なんだか気に入らねえ。

 青っ白い町医者と看護婦のくせに、自殺のあった現場でいちゃつくとは、どういう神経をしてやがるんだ。

 そんな大阪の心中など慮るはずもなく、刑事課長は深江に向かって直球の質問を投げた。


「往診に来られたということですが、九条さんはなにか持病でもあったんですか」


 深江はわずかに躊躇してから答えた。


「……若年性アルツハイマーでした」

「そのことを、九条さんは知っていたんですか?」

「ええ、もちろんです。|インフォームドコンセント《理解したうえでの合意》は、認知症の治療には不可欠ですから」


 刑事課長はわが意を得たりとばかりに、「決まりですね」と呟いた。

 そしてついでのように、深江の隣で俯く鷹取に声をかけた。


「通報してくださったのは、鷹取さんでしたね。患者さんで、しかもお隣さん(・・・・)がこんなことになって、さぞお気落ちでしょう。お察しします。九条さんとは、親しくなさっていたのでしょう?」

「いいえ。病院でお世話をしたことはありますが、それだけです」


 鷹取の答えは、あまりにも素っ気なかった。

 これにはさすがに刑事課長も、えっと意外そうな声を上げた。


「患者さんが隣に住んでいて、近所づきあいもなかったんですか?」

「仕事の時間が不規則だし、アパートには寝るために帰るだけでしたので」


 そう答えながら、鷹取は栗色の長い髪をかきあげた。

 その拍子に、ふわりと甘酸っぱい香りがした。

 大阪はスンと鼻を鳴らして、その匂いを嗅ぐ。


「百合の香りか。だがこれも(・・・)ニセモノの匂いだ。香水かい?」


 無遠慮な大阪の問いに、鷹取はあからさまに不機嫌そうな表情を浮かべた。

 それを見た深江は、刑事課長に向けて「そろそろいいですか」と切り出した。


「入院患者もいるので、あまり長く病院を空けるわけにはいかないんです」


 ほんとうに、気に入らねぇ。ぷんぷん匂いやがる。

 大阪はそう思ったが、はっきりとした証拠があるわけでもない。課長の言い分じゃないが、報告書には自殺と書くしかないだろう。

 案の定、刑事課長は連絡先を確認すると、あっさりと三人を開放した。




 検証を終えた警察は、遺体を収納袋に納めて持ち去った。

 園田亮子は、外階段の下で団扇をあおぎながら、遠ざかるパトカーを見送っていた。盆踊りでもあったのか、和服姿の若い女が街灯の下を歩きすぎた。

 パトカーが大通りに消えるのを確認して、亮子は巾着からスマートフォンを取り出した。

 手慣れた様子で、液晶画面に指を滑らせる。


『被観察者、九条悟史、死亡。死因、頸動脈自傷による出血多量。警察は自殺と断定。治験との因果関係は不明。なれど、食欲不振、妄想、幻聴、異常行動の症状を確認。重篤な副作用の可能性あり』


 それだけを入力すると、メールを送信した。

 誰が受信しているのか、知らされていなかった。そして、返事などこないことはわかっていた。

 だがそれでも、亮子は追伸を送った。


『なお被観察者は、マスコミ関係者と接触していた模様。実験(・・)の続行には、相当の注意をされたし』


 スマートフォンを巾着にしまった亮子は、いつの間にか階段の脇に置かれていた、カサブランカの切花に気づく。


 闇に浮かぶ白い百合から、ねっとりとした甘酸っぱい芳香が立ち昇った。

 

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