第77話 ぺんぎんすいすい
日米共同宇宙開発基本協定の締結が発表されてから、数日が経過していた。
ニュース番組では連日のように宇宙開発の特集が組まれ、月面探査の歴史やNASAとJAXAの技術力、さらには将来の月面基地構想までが紹介されている。専門家たちは新たな国際協力の意義を語り、経済番組では関連企業の株価が取り上げられ、インターネット上には実現するかどうかも分からない未来の宇宙船の予想図が次々と投稿されていた。
しかし、その計画の実現に欠かせない技術を提供することになる本人は、世間の盛り上がりとは無関係に、自宅のソファでくつろいでいた。
「……月って、思ったより遠いんだね」
小鳥遊紬は膝の上にボスを抱えたまま、目の前に浮かぶ映像を眺めていた。
画面には地球と月の位置関係が立体的に表示されている。二つの天体の間には小さな点が並び、地球から月までの平均距離が約三十八万四千キロメートルであることを示していた。
「今さら何言ってんだ。お前、前にもっと遠いところまで行けるようなもんを作ってただろ」
「……それとこれとは、ちょっと違うよ」
「どう違うんだよ」
「数字で見ると、遠いなって」
「感想が雑だな」
ボスが呆れたように言うと、紬はその丸い頭を撫でながら、地球と月の間に表示された小さな宇宙船の模型を指先で動かした。
模型は月へ向かって進んでいくものの、現実の縮尺を維持した表示ではなかなか到着しない。紬はしばらく動きを見守ったあと、映像の再生速度を百倍に変更した。
「……まだ着かない」
「そりゃ普通の宇宙船なら時間がかかるだろ。だから今回、お前に相談が来てんじゃねえか」
「うん」
紬が小さく頷くと、部屋の中央に銀白色の髪を持つ女性の姿が現れた。
「マスター。日米共同宇宙開発に関する最初の技術検討資料が、日本政府から届いております」
アイリスだった。
その声に紬が顔を上げると、地球と月の映像が縮小し、代わって複数の資料が空中に展開された。
資料には日米双方の担当機関、開発体制、宇宙船に求められる基本機能、有人飛行に必要な安全条件などが整理されていた。ただし、船の具体的な形状や寸法については、まだ複数の案が並んでいる段階だった。
「……もう、こんなに?」
「正式な共同事業が始まったことで、これまで別々に検討されていた構想を統合する作業が進んでいます。もっとも、現時点では要求条件を整理している段階ですので、設計図と呼べるものはありません」
「ふうん。じゃあ、まだ何も決まってねえのか?」
「何も、というわけではありません。有人探査を主目的とすること、地球と月の間を往復できること、将来の月面活動に必要な物資を輸送できることなど、基本的な方向性は共有されています。ただし、それをどの規模の船で実現するかは、マスターが提供を承諾される特殊装置の性能によって大きく変わります」
アイリスの説明を聞きながら、紬は資料の一枚を拡大した。
そこには従来のロケット技術を前提とした宇宙船の概念図が描かれていた。大型の推進機構、燃料を収める区画、居住設備、貨物室などが複雑に組み合わされている。
「……なんか、ぎゅうぎゅうだね」
「宇宙船ってのはそういうもんだろ。余計なもんを積めば、それだけ重くなるんだからよ」
「でも、今回は燃料をそんなに積まなくてもいいかもしれないし……」
紬が何気なく口にした言葉に、ボスが顔を上げた。
「お。ようやくやる気になったか?」
「……うん。ちょっと、考えてみたい」
その返事を待っていたように、アイリスが新しい画面を開いた。
「では、まず宇宙船そのものに求める条件を決めましょう。特殊装置を先に設計するより、どのような船を実現したいのかを明確にした方が、NASAとJAXAも通常部分の設計を進めやすくなります」
「……船の形から?」
「形状だけではありません。何人が乗り、何を運び、どこへ行き、どのような状況でも帰還できる必要があるのか。その条件です」
紬は膝の上のボスを少し持ち上げ、自分の隣に置いた。
「……じゃあ、ちゃんと考えよう」
「おう。せっかく作るんだから、すげえ船にしようぜ」
「ボスが作るわけじゃないけどね」
「分かってるよ! 俺は企画担当だ!」
「……企画担当」
「なんだ、その微妙な顔は」
「いえ。企画担当という役職自体は、現在のボスに比較的適していると思います」
「アイリス、お前まで何か含みのある言い方すんな」
いつものやり取りに紬が笑い、三人による宇宙船の検討が始まった。
◇
最初に問題になったのは、宇宙船の大きさだった。
アイリスがNASAとJAXAの初期資料を参考に複数の模型を表示すると、紬はその中でも比較的小さな船を選んだ。
「……これくらい?」
「全長約四十メートルの案ですね。月への有人往復だけであれば、特殊装置の性能次第で成立する可能性はあります。ただし、将来的な月面拠点の建設や、大型の資材輸送まで視野に入れるなら、余裕がありません」
「じゃあ、でかくすりゃいいだろ。どうせ一隻なんだろ?」
「その方針は合理的です。特殊装置の供給数を無制限に増やす前提は置けませんし、複数の船を同時に整備・運用する負担も大きくなります」
アイリスは四十メートルの模型を縮小し、その横に全長百メートル、百二十メートル、百五十メートルの船を並べた。
百メートルを超える船体は、従来の宇宙船というより、小型の海洋調査船を思わせる存在感があった。乗員の居住区や研究設備だけでなく、物資を運ぶための貨物区画、整備用の設備、予備の生活空間なども確保できる。
「……大きいね」
「お前が大きさを決めてんだろ」
「でも、百五十メートルって、学校の校庭くらいあるよ?」
「例えが身近すぎるだろ。宇宙船の話してんだぞ」
「……大きさが分かりやすいから」
アイリスが船内の断面図を表示した。
「全長百二十メートル程度を仮の基準にしてはいかがでしょう。最終的には百メートルから百五十メートルの範囲で、NASAとJAXAが構造強度、着陸時の安定性、整備性を検討する形です」
「乗る人は?」
「三十人から五十人程度を想定できます。もっとも、これは全員が常に乗船するという意味ではありません。任務ごとに必要な乗員数を決めることになります」
「五十人か。結構な人数だな」
「船内には食堂、医務室、衛生設備、運動スペース、個人用の居住区画などが必要です。長期間の任務を考える場合、単に人数分の座席を用意すればよいわけではありません」
紬は表示された船内を覗き込み、狭い通路の両側に小さな寝室が並んでいるのを見て、少し眉を寄せた。
「……ずっと狭いところにいるの、嫌かも」
「マスターが乗船する予定はありませんが、乗員の居住性は重要です」
「うん。ちゃんと寝られて、ご飯も食べられて……できれば、窓も欲しい」
「窓は構造上の弱点になり得ますので、設置位置と防護方法を検討する必要があります。外部カメラの映像を表示する方式もあります」
「……そっか」
紬は少し残念そうだったが、すぐに別のことを思いついたらしく、船体の模型を指で回転させた。
「じゃあ、窓みたいな画面を作ればいいんだね。外が見えるやつ」
「通常技術でも実現可能です。特殊装置を使用する必要はありません」
「……それなら、お願いしよう」
その一言を聞いて、アイリスが満足そうに微笑んだ。
紬が何でも作れるからといって、宇宙船の全てを紬が作るわけではない。今回の日米協力では、NASAとJAXAが長年培ってきた技術を活用し、人間の技術者たちが船体や生命維持設備を設計することになっていた。
紬が担当するのは、従来の技術では実現できない部分だけである。
「……でも、どうせなら地球にも月にも、そのまま降りられる方がいいよね」
紬が模型を月面へ近づけながら言った。
「普通の船なら、着陸船を別に用意するんだろ?」
「その方式も有力ですが、マスターの推進装置と慣性負荷軽減装置が十分な性能を持てば、母船そのものを着陸させる構想も成立します。ただし、地球と月では重力や大気の条件が大きく異なります。着陸脚、船体強度、姿勢制御、地上設備への影響などは別途検証が必要です」
「……そのまま降りられるようにしたい」
「承知しました。地球・月の双方への直接離着陸を要求条件に追加します。ただし、実現可否の最終判断は共同設計チームの検証後とします」
ボスは百二十メートルの模型を眺めながら、何やら考え込んでいた。
「なあ、紬」
「……なに?」
「この船、海にも浮かべられねえのか?」
「……海?」
「宇宙船なんだから、宇宙を飛べりゃ十分なのは分かるけどよ。地球に帰ってきたとき、海に浮かんでたら格好よくねえか?」
「ボス、それは宇宙船じゃなくて船が欲しいだけでは?」
「うるせえな。夢のある話だろ!」
紬は少しだけ想像した。
大きな宇宙船が海に浮かび、その甲板でボスが胸を張っている姿。
「……ちょっと、見たいかも」
「だろ!」
「ただし、海上着水能力を追加すると設計条件が大幅に増えます。今回の計画では優先順位を下げることを推奨します」
「……じゃあ、いつか別の船で」
「おい、諦めるの早くねえか?」
「……海賊船なら、もう模型があるし」
「模型と本物は違うんだよ!」
ボスの抗議をよそに、宇宙船の要求条件には直接離着陸能力が追加され、海上航行機能は採用されなかった。
次に検討するのは、宇宙船の性能だった。
「推進装置については、まず到達可能な速度と加速度を決める必要があります」
アイリスが地球と月の模型を再び表示した。
「マスターの能力であれば、非常に高い性能を持つ装置を創造できます。しかし、宇宙船として運用する以上、性能を高くすることだけが最善ではありません。乗員の安全、航行経路、周辺への影響、緊急停止時の挙動を含めて設計する必要があります」
「……速すぎると、危ない?」
「はい。例えば、光速の十分の一に相当する速度で飛行する場合、通常の宇宙機とは比較にならない運動エネルギーを持ちます。その速度で地球周辺を飛ぶことは認められませんし、微小な物体との衝突も重大な危険になります」
紬は地球と月の間に表示された小さな宇宙船を見つめた。
「……じゃあ、最高速度は光の十分の一くらいにして、地球の近くでは遅くする?」
「合理的な考え方です。最高速度は毎秒約三万キロメートル。ただし、それは宇宙船の能力上限であって、通常の月往復で使用する速度ではありません。実際の運航速度は、航路ごとに安全基準を設けて制限します」
「三万キロって、どれくらい速いんだ?」
「地球の赤道一周に相当する距離を、およそ一・三秒で進む速度です」
「……は?」
ボスが固まった。
紬も数字を頭の中で思い浮かべ、少し遅れて驚いた。
「……地球一周より、速いんだ」
「一秒間に地球一周分近く進む、という意味ではありません。約一・三秒で一周分の距離を進む計算です。いずれにせよ、現在の宇宙開発では考えられない速度です」
「いや、言い直されても十分おかしいだろ!」
ボスは画面に映る小さな宇宙船を見つめたまま、しばらく黙っていた。
その様子を見ていた紬が、少し得意そうに口を開く。
「……すごい?」
「すげえよ。すげえけど、お前、これに人を乗せるんだぞ?」
「……うん。だから、安全にする」
紬の表情が真剣になった。
速い船を作ること自体は難しくない。けれども、そこに人が乗るとなれば話は別だった。乗員が無事に目的地へ到着し、仕事を終えて帰ってこられることが何よりも大切になる。
「加速度については、最大百G程度を候補にできます」
「百G?」
「地球の重力加速度の約百倍です。通常の人間がそのまま受ければ、到底耐えられません」
「……じゃあ、だめだよ」
「そこで必要になるのが、慣性負荷を軽減する特殊装置です。船体の加速によって生じる乗員や設備への負担を抑え、安全な範囲に保つ仕組みを別途用意します」
「……それなら、大丈夫?」
「装置の設計と検証次第です。推進装置が正常でも、慣性負荷軽減装置が機能しなければ危険ですから、両者を連動させ、異常時には加速を制限する必要があります」
紬は頷き、画面に表示された二つの空欄を見つめた。
推進装置。
慣性負荷軽減装置。
その文字をしばらく眺めていたボスが、突然口を開いた。
「よし。推進装置の名前は『ぺんぎんびゅーん』だ」
「……え?」
「速く飛ぶんだから、びゅーんだろ。分かりやすいじゃねえか」
「……うん。分かりやすい」
「マスター。正式な技術資料に記載する名称としては、もう少し説明的な呼称を併記した方がよいと思われます」
「なんだよ、アイリス。格好いいだろ?」
「名称の格好よさについては、評価基準が主観的ですので回答を控えます」
「それ、遠回しに馬鹿にしてるだろ!」
紬はくすくす笑いながら、空欄に文字を入力した。
『ぺんぎんびゅーん』
「……こっちは?」
もう一つの空欄を指差す。
「慣性を軽くするんだろ? だったら『ぺんぎんふわふわ』だな」
「……それ、好き」
「だろ?」
「名称は仮登録します。正式な設計資料では『特殊推進装置』および『慣性負荷軽減装置』を併記します」
アイリスは二つの名前を画面に追加した。
こうして、宇宙船に搭載する特殊装置の候補が二つ決まった。
もっとも、名前が決まっただけで実物が完成したわけではない。装置の大きさや設置位置、制御方法などは、宇宙船の設計と合わせて検討する必要があった。
「……ほかには?」
「高速航行時の防護装置が必要です。宇宙空間は完全な真空ではありません。微小な塵や粒子との衝突、放射線などへの対策が求められます」
「じゃあ、バリアだな。『ぺんぎんばりあー』」
「……そのままだね」
「分かりやすいのが一番なんだよ!」
「防護範囲、許容負荷、作動条件、外部観測への影響などは今後検討します。万能の防御能力を無条件に保証する設計にはしません」
「……うん」
「それから、船内の人工重力です。長期滞在時の健康維持や生活環境の改善に役立ちます」
「おお、それも欲しいな。無重力じゃ飯食うのも大変そうだし」
「……重力があると、普通に歩ける?」
「はい。居住区では地球上と同程度の一Gを基本にできます。ただし、人工重力を利用できるのは装置が作用する範囲内です。月面に降りた際、船の外まで地球と同じ重力になるわけではありません」
「……それでいいよ」
「名前は『ぺんぎんどっしり』だな」
「……どっしり」
「地面に足がつく感じがするだろ?」
「……うん。なんとなく」
アイリスは無言で名称を登録した。
その表情を見たボスが、満足そうに胸を張る。
「どうだ。俺の命名センス、なかなかのもんだろ」
「一貫性はありますね」
「それ褒めてんのか?」
「少なくとも、誰が名付けたのか推測しやすいという利点はあります」
「やっぱり馬鹿にしてんじゃねえか!」
紬は笑いながらボスを抱き上げ、胸元に寄せた。
「……でも、可愛い名前だと思う」
「可愛いって言うな。強そうだろ」
「……うん。強いペンギン」
「そうだ。それでいい」
ボスは満足したようだった。
検討はさらに続いた。
宇宙船の操縦には、NASAとJAXAが開発する通常の航法装置と、人間の乗員が直接操作できる操縦系統を用意することになった。紬の特殊技術は、複雑な航路計算や高性能推進装置との連携を支援する部分に限定する。
「自動で目的地まで行けるのは便利ですが、全ての判断を自動装置に任せるべきではありません」
アイリスは操縦席の模型を表示した。
「通常の運航では自動航行を利用しつつ、必要に応じて乗員が手動操縦に切り替えられるようにします。重要な操作には権限管理と確認手順を設け、誤操作や不正な指示を防ぎます」
「……アイリスが操縦するんじゃないの?」
「私は設計支援や検討には協力できますが、宇宙船の運航を私の存在に依存させる必要はありません。乗員と地上管制が、自分たちの責任で運用できる仕組みが望ましいでしょう」
「そりゃそうだな。アイリスがずっと面倒見なきゃいけねえんじゃ、こっちも落ち着かねえ」
「私としても、マスターとボスの生活を優先できる構成が望ましいと考えています」
「……じゃあ、ちゃんと自分で飛べる船にしよう」
「承知しました」
名称については少しだけ揉めた。
ボスが『ぺんぎんまっすぐ』を提案したところ、紬が「曲がれなさそう」と指摘したためである。
「だったら『ぺんぎんすいすいなび』でどうだ。どこでもすいすい行けるやつだ」
「……それ、いいかも」
「名称を登録します」
残る大きな問題は通信だった。
地球と月の間なら、通常の電波やレーザー通信でも情報を送ることができる。ただし、距離が遠くなれば信号の到達に時間がかかり、月の裏側や障害物の陰では中継設備が必要になる。
紬は通信の遅延を示す数字を見て、少し首を傾げた。
「……月までなら、そんなに困らない?」
「通常の連絡は既存技術を発展させた通信設備で対応できます。むしろ、緊急時に確実に連絡できる別系統を持つことが重要です。将来的に月より遠くへ向かう場合にも役立ちます」
「……じゃあ、すぐ話せるのを作ろうかな」
「超光速通信に相当する特殊装置ですね。ただし、全ての通信をそれに置き換える必要はありません。日常的な映像や大量の研究データは通常通信を使用し、緊急連絡や重要な指示に限定する方が運用上の整理が容易です」
「なるほどな。普段は普通の通信で、何かあったら特別なやつを使うってことか」
「その理解で問題ありません」
ボスは少し考えたあと、当然のように言った。
「『ぺんぎんもしもし』だな」
「……ふふっ」
「なんだよ」
「……電話みたい」
「電話みたいなもんだろ!」
「実際には、通信の仕組みは電話と大きく異なりますが、用途を表す名前としては理解できます」
「ほらな!」
アイリスの返答を都合よく解釈したボスは、誇らしげに羽を広げた。
画面には六つの名前が並んでいた。
ぺんぎんびゅーん。
ぺんぎんふわふわ。
ぺんぎんばりあー。
ぺんぎんすいすいなび。
ぺんぎんどっしり。
ぺんぎんもしもし。
それぞれの名称の横には、装置が担う機能と、今後検証すべき項目が整理されている。
紬は一覧を眺めながら、何度か頷いた。
「……なんか、楽しそう」
「名前だけ見りゃ遊園地の乗り物みてえだけどな」
「ボスが全部決めたんでしょ」
「俺は親しみやすさを重視したんだよ!」
「なお、これらは現段階では装置候補です。マスターによる創造も、日本政府への提供も行われていません。必要な機能と運用条件を日米の技術者が検討し、マスターが個別に承諾されたものから製作する形になります」
「……うん。それでいい」
紬は、装置の一覧を見つめた。
自分一人なら、完成した宇宙船をその場で作り出すこともできる。けれども、今回の計画はそういうものではなかった。
日本とアメリカの技術者たちが協力し、自分たちの手で船を造り、宇宙飛行士が操縦する。紬の力は、その夢を実現するための手助けに使われる。
それなら、きっと面白い。
そう思えた。
「……ねえ、ボス」
「ん?」
「宇宙船の名前は、どうするの?」
その問いに、ボスは目を輝かせた。
「おっ。いよいよ本命か!」
「……本命?」
「装置の名前も大事だけどよ、宇宙船そのものの名前はもっと大事だろ。世界中の人間が呼ぶことになるんだからな」
「……そうだね」
「だから俺は、もう考えてある」
ボスは紬の腕の中で姿勢を正し、いかにも重大な発表をするように胸を張った。
「その名も、『ぺんぎんすいすい』だ!」
紬は少しだけ黙った。
「……ぺんぎんすいすい」
「どうだ。宇宙をすいすい飛ぶんだぞ。覚えやすいし、速そうだし、最高だろ!」
「……うん」
紬の口元がほころんだ。
「……すごく、いいと思う」
「だろ!」
「ただし、NASAとJAXAの共同開発船ですので、正式名称には両国の承認が必要です」
アイリスが冷静に補足した。
「……そっか」
「まずは日本政府へ名称案として提示することを推奨します。現時点では正式名称として公表できません」
「それでいいんじゃねえか? 向こうだって、名前の案くらい欲しいだろ」
「……うん。じゃあ、お願い」
「承知しました。技術検討資料と合わせて、ボスからの名称提案として送付します」
ボスは満足げに頷いた。
「よし。これで決まりだな」
「……まだ決まってないよ?」
「細けえこと言うなよ。俺の中じゃもう決定だ」
紬は笑いながら、目の前に浮かぶ宇宙船の模型を見つめた。
百二十メートルほどの大きな船体。
そこにはまだ細かな設備も、実際に搭載する装置も存在しない。輪郭さえ仮のもので、今後の検討によって大きく変わる可能性がある。
それでも、名前が付いた途端、ただの図形だった模型が少しだけ特別なものに見えた。
◇
翌日、JAXAの共同開発準備室では、日本側の技術者たちが新しい資料を囲んでいた。
部屋の中央にある大型画面には、NASAとの共同検討に用いる要求条件の一覧が表示されている。先日の基本協定を受けて立ち上がったばかりの準備室には、国内の複数の研究部門から集められた担当者が出入りし、机の上には構造解析や生命維持設備に関する資料が積み重なっていた。
開発責任者の桐生雅彦は、送られてきた文書を読みながら、何度目か分からないため息をついた。
「……全長百メートルから百五十メートル。乗員三十人から五十人。地球と月への直接離着陸能力か」
向かいに座る主任技術者の藤堂健一が、資料を覗き込んだ。
「普通なら、この時点で設計会議が止まりますね」
「普通ならな。だが今回は、普通の推進方式を前提にしなくていい」
「その代わり、普通では考えられない問題が出てきます。百メートルを超える船体を地球に着陸させるとなれば、構造も熱対策も姿勢制御も、従来の延長だけでは済みません」
「だからこそ、我々が考える必要がある」
桐生は資料を一枚めくった。
そこには特殊装置に期待される機能が記されていた。推進、慣性負荷軽減、防護、航法支援、人工重力、緊急通信。どれも既存技術の限界を大きく超える可能性を持っているが、装置そのものの内部構造は開示されない。
「これらが本当に要求性能を満たすとしても、船体の設計まで自動的に完成するわけではない。乗員の生命維持、火災対策、隔壁、配管、整備、貨物の固定、着陸時の荷重……やることはいくらでもある」
「NASA側も同じ認識です。向こうは特に有人運用と緊急時の安全性を重視しています。推進装置の出力を上げれば解決するという話にはならないでしょう」
「当然だ。いくら速く飛べても、帰ってこられなければ意味がない」
藤堂は頷きながら、資料の最後のページに目を移した。
そこで、動きが止まった。
「……桐生さん」
「どうした?」
「これ、何ですか?」
藤堂が指差したのは、宇宙船の名称候補を記載した欄だった。
そこには、ほかの技術用語とは明らかに雰囲気の異なる文字が並んでいる。
『宇宙船名称案:ぺんぎんすいすい』
桐生はしばらく黙ったあと、眼鏡を外した。
「……私も、さっきからそこが気になっている」
「名称案、ですよね?」
「ああ」
「誰が提案したんですか?」
「技術提供者側の窓口からだそうだ」
「なるほど……」
藤堂は腕を組んだ。
そして、もう一度画面を見た。
「……ぺんぎんすいすい」
「声に出すな。私まで妙な気分になる」
「いや、でも……」
藤堂は真剣な顔で考え込んだ。
「覚えやすい名前ではありますね」
「それは否定しない」
「世界中の人が発音できるかは別ですが」
「そこは国際共同事業として検討が必要だろうな」
桐生は再び眼鏡を掛け、名称案の下に記された注記を読んだ。
正式名称は日米双方の承認を経て決定すること。現段階では内部検討用の提案であり、公表しないこと。
その二行を確認してから、彼は隣の資料に視線を戻した。
「名前は後で議論すればいい。まずは、船として成立するかどうかだ」
「そうですね」
「藤堂君。NASAとの次回会議までに、船体構造の初期検討案をまとめてくれ。特殊装置の寸法や重量がまだ分からない以上、搭載位置を決め打ちしない構成にしたい」
「了解しました。推進装置と慣性負荷軽減装置が連動する前提なら、異常時の荷重条件も整理しておく必要がありますね」
「そうだ。それから、人工重力を使用する区画と、重力を必要としない設備区画は分けて考えた方がいい。船内のどこでも一律に一Gをかければ済むとは限らん」
藤堂はメモを取りながら頷いた。
会議はそのまま、構造設計と安全条件の検討へ移っていった。
ただ、議論が一区切りついたところで、藤堂がふと思い出したように顔を上げた。
「ところで桐生さん」
「何だ?」
「この名前、アメリカ側はどういう反応をすると思います?」
桐生は少し考えた。
「……まず意味を聞かれるだろうな」
「ですよね」
「そのときは、宇宙空間を円滑に航行するという願いを込めた名称案だと説明しよう」
「ずいぶん立派な説明になりますね」
「事実だろう。たぶん」
二人は顔を見合わせ、小さく笑った。
まだ一枚の設計図も完成していない。
特殊装置も存在せず、宇宙船をどこで建造するかさえ詳細には決まっていない。NASAとJAXAの技術者たちは、これから膨大な課題に取り組まなければならなかった。
それでも、机の上に広げられた資料には、昨日まで存在しなかった具体的な目標が記されている。
全長百メートルを超える有人宇宙船。
地球と月を往復し、将来は月面拠点の建設にも利用できる、一隻だけの特別な船。
そして、その名称候補は『ぺんぎんすいすい』。
桐生は画面に表示された仮の船体を見つめながら、技術者としての好奇心が久しぶりに強く刺激されているのを感じていた。
これまでの常識では不可能だったことが、実現を前提に検討できるようになった。
だが、未知の技術が可能性を広げたからといって、自分たちの仕事がなくなるわけではない。むしろ、その力を安全な宇宙船として形にするためには、人間の知識と経験がこれまで以上に必要になる。
「藤堂君」
「はい」
「面白くなってきたな」
藤堂は資料を抱え直し、笑みを浮かべた。
「ええ。問題は山積みですけどね」
桐生は頷き、次の検討資料を開いた。
画面には、宇宙船の内部をどう配置するかという、最初の設計課題が映し出されていた。




