第40話 世界が変わっても、いつもの日常
小鳥遊紬の一日は、目覚まし時計が鳴る七分前に始まった。
理由は単純で、枕元に置いていたスマートフォンが震えたからでも、昨夜のうちに何か特別な予定が入っていたからでもない。布団の足元から、妙に力のこもった声が聞こえてきたのである。
「おい、紬。起きろ。重大な問題が発生した」
眠りの底にいた意識が、少しずつ浮かび上がってくる。
紬は目を閉じたまま、掛け布団の端を握った。重大な問題という言葉には、ここ数か月で嫌というほど慣れてしまった。政府との交渉、核融合炉の実用化、がん治療技術の提供。ニュースに映る出来事のどれもが、かつての自分には遠い世界の話だった。
それなのに、今では重大な問題という言葉を聞くたび、何か自分の知らないところで大変なことが起きたのではないかと考えてしまう。
「……なに?」
「昨日買った鮭が冷蔵庫にねえ」
「……え?」
「朝飯に食うつもりだったやつだ。まさか誰かに盗まれたんじゃねえだろうな」
紬はようやく目を開け、天井を見つめた。
日本政府が保護している秘密の協力者。その寝起きを襲った事件は、冷蔵庫から鮭が消えたというものらしい。
「……昨日、食べたよ」
「は?」
「夕ご飯で。ボスも食べてた」
数秒の沈黙があった。
「……そういや、うまかったな」
紬は布団を鼻先まで引き上げた。
「もう少し寝かせて……」
「待て。だったら今朝の魚はどうすんだ」
「……まだ決めてない」
「そいつは重大だろ」
どこまでも真剣な声だったので、紬はとうとう笑ってしまった。
布団の向こうから、小さな足音が近づいてくる。身長四十センチほどの丸っこいペンギンが、ベッドの脇に置かれた踏み台を器用に上がり、こちらをのぞき込んでいた。
ボスは紬が創り出した人工生命体である。黒と白の柔らかな羽毛に覆われ、体重は一・五キロ。見た目だけなら、ぬいぐるみと間違えられても不思議ではない。
もっとも、ぬいぐるみは朝から冷蔵庫の在庫に文句をつけたりしない。
「お前、また夜更かししたんじゃねえだろうな」
「してないよ。十二時前には寝たもん」
「十分遅えだろ」
「ボスだって、昨日は遅くまでテレビ見てたでしょ」
「あれは仕事だ」
「料理番組だったよね?」
「海外の魚料理を研究してたんだよ。将来のためにな」
紬は少しだけ目を丸くした。
数日前、海外へ向けた新しいがん治療製剤の輸送が始まった日、ボスは世界各地の魚料理を食べ比べたいと言い出していた。紬がいつか海外へ行ってみたいと口にしたことも、彼は覚えていたらしい。
「……まだ旅行に行くって決めたわけじゃないよ?」
「分かってる。だから研究してんだろうが。現地で食えねえもんを注文したら困るだろ」
「食べ物のことばっかり」
「食い物は大事だぞ。知らねえ土地で腹減らしたら、せっかくの旅行も台無しだ」
妙に説得力があるような、ないような理屈だった。
紬が起き上がると、ボスは満足したように踏み台を降りていった。彼には人間離れした身体能力も、不思議な力もない。小さな体でできることを、いつも自分なりに工夫している。
そんな後ろ姿を見送ってから、紬はベッドを抜け出した。
カーテンを開けると、秋の朝日が部屋の奥まで差し込んできた。窓の外には、いつもと変わらない住宅街が広がっている。通学する子どもたちの声が遠くから聞こえ、隣家の庭では洗濯物が風に揺れていた。
数日前、日本で初めて小型核融合炉の電気が一般の送電網に流れた。
その少し後には、日本で作られた新しいがん治療薬が海を越え、海外の病院でも患者への投与が始まった。
世界のどこかでは、きっと今朝もその話題で持ちきりなのだろう。
けれど、紬の部屋に差し込む朝日は、昨日までと同じ色をしていた。
リビングへ行くと、テーブルの横に銀髪の少女が立っていた。青い瞳が紬を認めると、柔らかな笑みが浮かぶ。
「おはようございます、マスター。今朝は予定より七分早い起床ですね」
「おはよう、アイリス。ボスに起こされたの」
「鮭の件でしょうか」
「知ってたの?」
「先ほど冷蔵庫の在庫について質問されましたので、昨夜の献立をお伝えしました」
紬はキッチンにいるボスへ目を向けた。
「……じゃあ、食べたって知ってたんじゃない」
「聞いたのはお前を起こした後だ!」
悪びれた様子はない。
アイリスは銀髪と青い瞳を持つ自律型のホログラムAIで、紬の暮らしを支えてくれる大切な存在だった。姿は人間の少女に見えるものの、物を持ち上げたり、料理を直接作ったりできるわけではない。必要な情報を整理し、相談に乗り、時にはボスと口論する。
今朝もテーブルの上には、アイリスが作成した朝食の候補が表示されていた。
「鮭がありませんので、代わりに卵料理はいかがでしょう。冷蔵庫には卵が四個あります」
「おう。じゃあ俺は目玉焼き二個だ」
「三人分の朝食を考える場合、二個を独占する前提には問題があります」
「お前は食わねえだろうが」
「私は食事を必要としませんが、マスターの分を確保する必要があります」
「じゃあ一個ずつでいいじゃねえか」
「マスターが二個召し上がりたい可能性もあります」
「……紬、お前いくつ食う?」
紬は冷蔵庫を開けながら答えた。
「私は一個でいいよ。あと、トースト焼こうかな」
「ほらな」
「結果的に問題がなかったことと、確認前に二個を要求したことは別です」
「朝っぱらから細けえな、お前は!」
言い合いを聞きながら、紬は食パンを二枚取り出した。
世界中の研究者や政府関係者が、アイリスのような存在を知れば、きっと驚くに違いない。人間と自然に会話し、膨大な情報を扱える自律AI。紬自身も、創った当初はここまで三人で暮らすことになるとは想像していなかった。
けれど今の紬にとって、アイリスは便利な技術という言葉だけでは説明できない相手だった。
「ねえ、アイリス」
「はい、マスター」
「今日はお昼、何か食べたいものある?」
アイリスは一瞬、返事を止めた。
「私は食事を摂取できませんが……お二人と一緒に献立を考えるのであれば、季節の野菜を使った料理を提案したいです」
「うん。じゃあ、あとで一緒に決めよう」
「承知しました」
その返事はいつもどおり丁寧だったが、紬には少し嬉しそうに聞こえた。
ボスがトースターの前で胸を張る。
「俺は魚がいい」
「お昼も?」
「朝に食えなかった分を取り戻すんだよ」
「魚しか食べないと栄養が偏ります」
「野菜も食うって。ちょっとはな」
紬は卵を割りながら、二人の会話を聞いていた。
昔の自分だったら、朝からこんなに誰かと話すことなどなかっただろう。
人と話すのが苦手で、言いたいことがあっても言葉がうまく出てこない。相手の表情を気にしすぎて、何気ない会話の後でさえ、あんなことを言わなければよかったと考えてしまう。
そんな自分でも、動物が相手なら話せるかもしれない。
それが、ボスを創った最初の理由だった。
あの頃は、自分の部屋に話し相手が一人増えるだけで十分だと思っていた。ましてや、その相手が日本政府と交渉することになるなんて、考えたこともなかった。
卵をフライパンへ落とすと、白身が小さな音を立てて広がった。
「紬、黄身は半熟にしてくれよ」
「分かってる」
「前みたいに固くすんなよ」
「一回だけでしょ」
「大事な一回だ」
「ボスは自分で焼けないんだから、もう少し感謝してください」
「感謝してるっての!」
紬は笑いながら火を弱めた。
この騒がしさが、自分の家の朝になっていた。
朝食を終え、食器を洗い、洗濯機を回す。そんなありふれた家事を片づけている間にも、スマートフォンにはいくつかの通知が届いていた。
ニュースアプリには、国内の指定医療機関で新しいがん治療を受けた患者の経過観察が続いていることや、海外で第一陣の投与が始まったことが載っている。核融合炉についても、初送電の成功を受け、今後の運用試験に関する記事が出ていた。
紬は洗濯物を干し終えてから、ソファに座って画面を眺めた。
記事の写真には病院の建物や発電施設が映っている。どちらも紬が実際に訪れたことのない場所だった。
自分が創ったものが、知らない場所で、知らない人たちの手によって使われている。
それは嬉しいことのはずなのに、時々、不思議な感覚になった。
「……なんか、すごいね」
紬の隣でクッションに座っていたボスが、首を傾ける。
「何がだ?」
「ニュース。私が作ったものなのに、もう私の知らないところで、いろんな人が動かしてるんだなって」
「そりゃそうだろ。発電所も病院も、お前一人で回せるもんじゃねえし」
「うん。そうなんだけど……」
紬は画面を伏せた。
「最初は、自分で何でもできると思ってたの。実際、作るだけなら何でもできるし、困ったことがあったら、もっと便利なものを作ればいいって」
「今は違うのか?」
「……作った後のことって、私だけじゃ分からないんだなって思う」
病院では、医師や看護師が患者に説明し、検査を行い、投与後の変化を見守っている。発電所では、技術者が装置の状態を確認し、安全を確かめながら運転を続けている。
紬には、それらの仕事を一つ残らず代わりに行う必要はなかった。
それを理解できるようになるまで、少し時間がかかった気がする。
「マスター」
テーブルの向こうにいたアイリスが、こちらを見た。
「提供した技術を社会の中で使い続けるには、装置そのものとは別の知識や経験が必要です。現在の運用には、各分野の専門家が関わっています」
「うん。みんな、すごいよね」
「マスターが提供を決めたことも、重要な役割でした」
「……そうかな」
「はい。ただし、それ以降のすべてをマスターが引き受ける必要はありません」
紬はアイリスの顔を見つめた。
以前なら、誰かにそう言われても、きっと素直には受け取れなかっただろう。自分が創ったものなのだから、何か問題が起きたら自分が何とかしなければならない。そんな考えが、頭のどこかに残っていた。
今でも完全になくなったわけではない。
それでも、任せることを少しずつ覚えてきた。
「……ありがとう」
「どういたしまして、マスター」
ボスが横から口を挟む。
「ま、俺から言わせりゃ、お前はもうちょっと他人を頼ったほうがいいな」
「ボスも?」
「当然だ。俺なんか毎日お前を頼ってるぞ」
「それは知ってる」
「魚も焼いてもらってるし、風呂も用意してもらってるしな」
「自慢することではありません」
「うるせえ。頼るのが大事って話だろうが」
紬は口元を押さえた。
ボスの言うことは、時々ひどく乱暴で、理屈が通っていないように聞こえる。けれど、不思議と大切なところだけは外さない。
「……じゃあ、これからも頼っていい?」
何となく口にした言葉だった。
ボスは紬を見上げると、少しだけ胸を張った。
「当たり前だろ。俺はお前のボスだからな」
「……うん」
「ただし、飯の時間は忘れんなよ」
「そこは変わらないんだね」
「腹減ってたら相談にも乗れねえだろ」
アイリスが、どこか呆れたように告げる。
「相談内容と食事の必要性には、直接的な関連がない場合もあります」
「俺にはあるんだよ」
紬はとうとう声を上げて笑った。
以前は、自分が笑っているところを誰かに見られることさえ恥ずかしかった。今では二人の前なら、そんなことを考えるより先に笑える。
それは核融合炉やがん治療薬のように、ニュースになる変化ではない。
けれど、紬にとっては同じくらい大きな出来事だった。
昼前になると、紬は買い物に出かけることにした。
冷蔵庫の中身を確認しているうちに、野菜だけでなく牛乳や調味料も少なくなっていることに気づいたのだ。
以前の紬なら、できるだけ人と顔を合わせずに済む時間帯を選んだかもしれない。買うものを決め、店員に話しかけられないように気をつけ、用事が終われば急いで帰る。
今でも、人の多い場所が得意になったわけではない。
それでも今日は、昼前のスーパーへ行くことにそれほど抵抗がなかった。
「ボス、何か欲しいものある?」
「魚」
「それ以外で」
「……魚の缶詰」
「同じじゃない」
「違うだろ。缶に入ってる」
アイリスが買い物リストを表示した。
「マスター、現在の在庫と予定している献立から、購入候補をまとめました。ボスの希望については、魚類を一品追加しています」
「ありがと。じゃあ、行ってくるね」
「お気をつけて」
「変なもん買ってくんなよ」
「変なものって何?」
「前に買ってきた、妙に酸っぱいお菓子みてえなやつ」
「あれ、ボスが食べたいって言ったんだよ?」
「そうだったか?」
「そうだよ」
玄関で靴を履きながら、紬は小さく笑った。
外へ出ると、空気は少しひんやりしていた。秋が深まってきたせいか、街路樹の葉にも黄色が混じり始めている。
スーパーまでの道は、歩いて十分ほど。住宅街を抜け、小さな公園の脇を通り、大通りを一つ渡れば到着する。
途中、ベンチに座った年配の夫婦が、スマートフォンの画面を一緒にのぞき込んでいた。
「これ、病院の予約の仕方が書いてあるのかね」
「違うわよ。まず紹介状が必要って、昨日説明されたでしょう」
「そうだったかな」
「ちゃんと聞いてなかったんだから」
紬は会話を聞きながら通り過ぎた。
その人たちが何について話していたのか、正確には分からない。新しいがん治療のことかもしれないし、まったく別の診療の話かもしれなかった。
ただ、少し前までなら聞き流していたような会話に、自然と耳が向くようになっていた。
スーパーの入り口には、季節の果物が並んでいた。リンゴ、柿、ミカン。鮮やかな色に目を引かれ、紬は買い物リストにはないリンゴを一つ手に取った。
ボスは果物より魚を喜ぶだろうし、アイリスは食べられない。
それでも、三人で食卓を囲むときに何か一品増えるのは、ちょっと楽しい。
紬はリンゴをかごに入れた。
野菜売り場を回り、牛乳と調味料を選び、最後に鮮魚コーナーへ向かう。そこで立ち止まったのは、値札に貼られた産地表示を見たからだった。
普段なら何も考えずに選んでいた魚にも、遠い海や港、運ぶ人たちの仕事がつながっている。
ボスが世界の魚料理を食べ比べたいと言っていたことを思い出す。
旅行なんて、自分には縁のないものだと思っていた。
知らない土地へ行けば、知らない人と話さなければならない。言葉が通じないこともあるだろうし、道に迷うかもしれない。考え始めれば、不安はいくらでも浮かんでくる。
それでも、行ってみたいと思った気持ちは、まだ消えていなかった。
紬は鮮魚コーナーを一周してから、夕食用の切り身を選んだ。
会計を終えたところで、店員から声をかけられた。
「袋、もう一枚お使いになりますか? 少し重そうですけど」
紬は反射的に首を横に振りかけた。
以前なら、相手を待たせたくないという気持ちが先に立ち、荷物が重くても大丈夫だと答えていたかもしれない。
けれど今日は、少し考えてから口を開いた。
「あ……お願いします。ありがとうございます」
「はい、どうぞ」
店員は袋を一枚渡し、すぐに次の客の対応へ戻っていった。
それだけのことだった。
紬は荷物を二つに分け、店を出た。
特別な勇気が必要だったわけではないし、誰かに褒められるような出来事でもない。それでも、自分が必要としていることを相手に伝えられたという小さな満足感があった。
帰り道、紬は少しだけ遠回りをした。
公園の木々がきれいに色づいていたからだ。
ベンチの近くでは、幼い子どもが落ち葉を集めていた。保護者らしい女性が、手のひらいっぱいに葉を抱えた子どもに笑いかけている。
その様子を眺めていると、紬はふと考えた。
世界を変えるような力があっても、こういう時間を作るのは別のことなのだろう。
誰かと話したり、一緒に食事をしたり、何でもない景色を見てきれいだと思ったりする。
自分が欲しかったものは、最初から案外、身近なところにあったのかもしれない。
紬は公園を抜け、家へ向かった。
玄関の鍵を開けた瞬間、奥からボスの声が飛んできた。
「おい、遅かったじゃねえか! 魚は買ってきたか?」
「ただいま。ちゃんと買ってきたよ」
「何だ?」
「サバ」
「おっ、いいじゃねえか!」
ボスが小さな足で玄関までやって来る。
その後ろにはアイリスの姿もあった。
「おかえりなさいませ、マスター。予定より少し遅かったようですが、何かありましたか?」
「公園の木がきれいだったから、ちょっと遠回りしたの」
「そうでしたか。秋の紅葉が進んでいる時期ですね」
「うん。あとね、リンゴも買ってきた」
「魚は?」
「ボス、それはさっき聞いたでしょ」
「念のためだよ」
紬は買い物袋をキッチンへ運び、冷蔵庫に食材をしまい始めた。
アイリスが購入品を確認し、夕食の候補をいくつか挙げる。ボスはサバを焼くか煮るかで真剣に悩み始め、紬はその横でリンゴを洗った。
結局、昼食は野菜たっぷりのパスタになった。
ボスには少量の魚を添え、紬は自分の皿に粉チーズをかける。アイリスは食卓のそばに座るように姿を映し、二人が食べる様子を見ながら、午後の予定を尋ねてきた。
「マスター、本日は政府関係者との面談予定はありません。追加の資料確認も、現時点では必要ないとの連絡です」
「そっか。じゃあ、今日はゆっくりできるね」
「はい。特に急ぎの用件はありません」
「なら映画でも見るか」
ボスがフォークの代わりに使っている小さな食器を置いた。
「映画?」
「昨日の続きだよ。海の中を探検するやつ」
「ああ、あれね」
紬は思い出した。
前日の夜、三人で見始めた冒険映画だ。主人公たちが海底の遺跡を探検する物語で、ボスは登場する魚の種類にいちいち反応していた。
「でもボス、昨日は途中で寝ちゃったじゃない」
「寝てねえ。目を閉じて考えてただけだ」
「いびき、かいてたよ」
「考え事にも集中力がいるんだよ」
「睡眠中の呼吸音と一致していました」
「お前は余計な分析すんな!」
紬は笑いながら食事を続けた。
午後は、その映画を見ることに決まった。
昼食の後片づけを終え、洗濯物を取り込むころには、窓から入る日差しが少し傾いていた。
紬はソファにクッションを並べ、ボスが座りやすいように小さな台を用意した。アイリスは映像の再生位置を確認し、前日に中断した場面から再開できるようにする。
「マスター、昨日は主人公たちが海底遺跡の入り口を発見したところまで視聴されています」
「うん。そこからでいいよ」
「待て。俺が寝てたとか言うんなら、そのちょっと前からにしてくれ」
「やっぱり寝てたんじゃない」
「念のためだ!」
映画が始まると、部屋の中は少し暗くなった。
画面には青い海が広がり、潜水艇が岩の間を進んでいく。紬はクッションを抱え、ボスは隣に腰を下ろした。
最初のうちは、三人とも物語に集中していた。
ところが、巨大な魚が画面いっぱいに現れたところで、ボスが身を乗り出した。
「おい、あれ食えるのか?」
「……映画の中の生き物だよ?」
「だから、実際にいたらって話だ」
「架空の生物ですので、食用としての安全性は判断できません」
「そうか。じゃあ、うまそうでも駄目だな」
「食べる前提で見ないでよ」
紬は笑いながら、ボスの丸い背中を軽く撫でた。
映画の中では、主人公たちが危険な生物から逃げ回っている。
ボスはしばらく黙って画面を見ていたが、やがてぽつりと呟いた。
「……紬」
「なに?」
「お前、ああいうところにも行けるんだよな」
紬は画面を見つめたまま考えた。
万物創造の力があれば、海の底へ行くための装置を創ることも、そこに暮らせる場所を用意することもできるだろう。技術的に不可能なことは、ほとんどない。
けれど、だからといって今すぐ行きたいかと聞かれれば、答えは違った。
「……行けると思う。でも、今はいいかな」
「怖えのか?」
「ううん。そういうわけじゃなくて……」
紬は膝の上のクッションを抱え直した。
「今は、ここにいるのが好きだから」
ボスは紬の顔を見上げた。
少しの間、何も言わなかった。
やがて彼は、画面へ視線を戻しながら答えた。
「そりゃ、悪くねえな」
それだけだった。
紬には、その短い返事が嬉しかった。
映画の続きを見ているうちに、窓の外では夕暮れが始まっていた。
物語が終盤へ差しかかるころ、ボスはまた眠そうに目を細めていた。紬がその様子に気づいても、今度は何も言わないことにした。
やがて映画が終わり、エンドロールが流れ始める。
「面白かったね」
「おう。なかなかだったな」
「ボス、最後まで起きてた?」
「当たり前だろ」
「最後、主人公が何を見つけたか覚えてる?」
「……宝だろ」
「宝じゃなかったよ」
「細けえこと気にすんな」
アイリスが、二人のやり取りを見ながら微笑んだ。
「次回は、ボスが最後まで鑑賞できるよう、上映時間の短い作品を選ぶことも可能です」
「俺に合わせなくていいっての!」
紬は声を立てて笑った。
笑い疲れてソファに寄りかかると、ボスが何となく近くへ寄ってきた。丸い体を紬の脚に預け、気持ちよさそうに目を閉じる。
紬はその羽毛に手を置いた。
温かかった。
人工生命体であるボスの体温は、紬が創った仕組みによって保たれている。そんなことを説明しようと思えば、いくらでも難しい話ができるのだろう。
けれど今、紬が感じているのは、ただ温かいということだけだった。
それで十分だった。
夕食には、買ってきたサバを焼いた。
ボスは昼から楽しみにしていたらしく、焼き上がるまで何度もキッチンをのぞきに来た。紬が付け合わせの野菜を用意している間、アイリスは魚の骨に注意するよう伝え、ボスは分かっていると返事をした。
食卓には、サバの塩焼きと野菜の小鉢、それに温かいご飯と汁物が並んだ。
「いただきます」
「いただきます!」
ボスは勢いよく食べ始めた。
紬はその様子を見ながら、自分の箸を取る。
食事中、テレビでは夕方のニュースが流れていた。新しいがん治療を受けた患者の経過観察が続いていること、海外の医療機関でも初期の治療結果が報告され始めたこと、そして小型核融合炉の今後の運用試験について、短く紹介されていた。
どのニュースも、以前なら大きな特集が組まれていたような内容だった。
それが今では、日々の出来事の一つとして伝えられている。
もちろん、世界がすべて変わったわけではない。
治療を待っている人はまだ大勢いるし、遠くの病院へ通うことが難しい人もいる。核融合炉が一基動いたからといって、全国の電力事情がすぐに変わるわけでもない。
それでも、少し前には存在しなかった選択肢が、確かに増えていた。
紬は箸を止め、テレビの画面を眺めた。
「……ねえ、ボス」
「あん?」
「私、前はね。自分が何かしても、世界なんて変わらないと思ってた」
ボスは口の中のものを飲み込んでから、紬を見た。
「まあ、普通はそうだろうな」
「うん。でも、今は……」
言葉を探す。
自分が世界を変えた、と言うのは何だか違う気がした。
確かに、最初のきっかけは紬が創ったものだった。けれど、その技術を使って誰かを助けようとしているのは、医師や看護師、研究者、技術者、そして多くの人たちだ。
自分一人で何かを成し遂げたわけではない。
「……みんなで、少しずつ変えていくんだね」
ボスは一度だけ頷いた。
「そういうことだろ」
アイリスも穏やかな声で続ける。
「マスターが提供したものは、多くの人の仕事によって社会の中で使われています。今後も課題は残りますが、改善を続けるための仕組みが動き始めています」
「……うん」
紬は小さく頷いた。
それから、もう一つだけ気になっていたことを口にした。
「私、これからも普通に暮らしてていいのかな」
ボスが箸を止めた。
「何だよ、急に」
「だって……私がもっといろんなものを作れば、助かる人が増えるかもしれないし、便利になることもたくさんあると思う。でも、今日は買い物して、映画見て、ご飯作って……」
そこまで言って、紬は自分でも少し困ったように笑った。
「……何だか、何もしてないみたいで」
ボスはしばらく紬を見つめていた。
それから、少しだけ呆れたように言った。
「お前なあ。今日一日、何もしてなかったわけじゃねえだろ」
「……そうかな」
「朝飯作った。買い物行った。昼飯作った。映画見た。今も晩飯食ってる」
「それは普通のことだよ」
「普通のことをするのが、そんなに悪いのか?」
紬は答えられなかった。
ボスは言葉を続けた。
「お前が何か作りたいなら作ればいい。誰かを助けたいなら、できる範囲で助けりゃいい。だけどな、だからって毎日世界のことばっか考えてたら、いつか飯の味も分かんなくなるぞ」
「……ボスらしいね」
「俺は大真面目だ」
「うん。分かってる」
紬は笑った。
ボスはいつも食べ物の話ばかりしているように見えるけれど、紬が自分を追い詰めそうになると、決まってこうして引き戻してくれる。
誰かを助けることと、自分の生活を大切にすること。
その二つは、どちらか一方を選ばなければならないものではないのだろう。
「マスター」
アイリスが声をかけた。
「私からも、一つ申し上げてもよろしいでしょうか」
「うん。なに?」
「私は、マスターがどのような一日を過ごすかを、効率だけで評価するべきではないと考えています」
紬はアイリスを見た。
「今日のように、買い物をして、食事を作り、映画を楽しむ時間も、マスターの生活にとって大切なものです。私は今後も、マスターが望む暮らしを支えたいと思っています」
丁寧な言葉だった。
けれど、その中にはアイリス自身の意思が感じられた。
「……ありがとう、アイリス」
「どういたしまして」
ボスが横から言う。
「まあ、俺としては明日も魚が食えりゃ文句ねえけどな」
「そればっかり!」
「大事なことだろ!」
紬は笑いながら、残っていたご飯を口に運んだ。
夕食を終えるころには、外はすっかり暗くなっていた。
食器を片づけ、キッチンをきれいにしてから、紬はリビングの照明を少し落とした。
窓の向こうには、住宅街の明かりが点々と見えている。
あの一つ一つの家にも、それぞれの暮らしがあるのだろう。夕食を食べている人、仕事から帰ってきた人、宿題をしている子ども、明日の予定を考えている人。
世界がどれほど変わっても、そんな時間は続いていく。
紬はソファに腰を下ろし、膝の上に毛布を広げた。
ボスが当然のように近づいてくる。
「おい、ちょっと場所空けろ」
「はいはい」
紬が毛布を持ち上げると、ボスはその下に潜り込んだ。丸い体が膝の横に収まり、満足そうに息をつく。
「……あったけえな」
「ボスも温かいよ」
「そりゃよかった」
アイリスは窓際に立ち、夜の街を眺めていた。
「マスター。明日の天気は、午前中が晴れ、午後から雲が増える予報です」
「そっか。じゃあ、洗濯は朝のうちにしようかな」
「はい。外出される場合は、午前中がよいかもしれません」
「明日は何か予定あったっけ?」
「現在、確定している外出予定はありません」
紬は少し考えた。
特別な予定がない一日。
少し前までなら、そんな日は部屋で一人、時間が過ぎるのを待っていたかもしれない。
今は違う。
「……じゃあ、明日は三人で何しようか」
アイリスが振り向いた。
「いくつか候補をご提案できます。自宅で過ごす場合と、外出する場合の両方を用意しましょうか?」
「うん。お願い」
ボスが毛布の中から顔を出した。
「俺は魚屋に行きてえ」
「今日、サバ食べたばっかりだよ?」
「明日は別の魚だろ」
「毎日魚屋さんに行くつもり?」
「いいじゃねえか。世界の魚料理を制覇するには、まず近所の魚からだ」
紬は思わず吹き出した。
「それ、海外旅行の話だったんじゃないの?」
「何事も準備が大事なんだよ」
アイリスが、真面目な顔で応じる。
「では、近隣で購入できる魚種と調理法を一覧にまとめましょう。マスターの好みも考慮します」
「おっ、話が分かるじゃねえか」
「ただし、毎食魚料理にする必要はありません」
「そこは譲らねえのかよ!」
紬は二人の会話を聞きながら、窓の外へ目を向けた。
夜の街は穏やかだった。
あの明かりの向こうには、今日も病院で治療を受けている人がいる。発電所で設備を見守っている人もいる。遠い国では、日本から届いた新しい治療薬に希望を託している人がいる。
まだ助けられていない人も、解決していない問題も、数えきれないほどある。
それでも、今日という一日を終え、明日を迎えようとしている人たちがいる。
紬は、そのことを以前よりも身近に感じられるようになっていた。
自分には、世界を変えられる力がある。
けれど、世界のすべてを自分一人で背負う必要はない。
そのことを教えてくれたのは、偉い学者でも、政府の誰かでもなかった。
朝から魚のことばかり考えている、小さなペンギンと、いつも自分の気持ちを大切にしてくれる銀髪の少女だった。
「……ねえ、ボス。アイリス」
「何だ?」
「はい、マスター」
紬は二人を見た。
「私、二人がいてくれてよかった」
ボスは一瞬だけ黙った。
それから、照れくさそうに顔をそらす。
「……何だよ、急に」
「何となく、言いたくなったの」
「そういうのは、もっと普通に言え」
「普通に言ったつもりなんだけど」
アイリスが微笑んだ。
「私も、マスターとボスと一緒に過ごせることを嬉しく思っています」
「……うん」
紬は頷いた。
ボスは毛布の中で少し身じろぎすると、紬の脚に体を預け直した。
「ま、俺も悪くねえと思ってるよ」
「ふふ。ありがと」
「ただし、明日の朝飯はちゃんと考えとけよ」
「もう!」
紬が笑うと、アイリスも楽しそうに目を細めた。
窓の外では、どこかの家の明かりが一つ消え、別の家の窓に新しい灯りがともった。
世界は今日も変わり続けている。
けれど、紬の家では明日の朝食を何にするかという話が、まだ終わりそうになかった。
そして紬は、その何でもない時間が、何よりも愛おしかった。




