第35話 病室に届いた未来
全国の指定医療機関で新しいがん治療の提供が始まったのは、政府による発表から十二日後のことだった。
その間、各地の病院では担当医の研修や投与設備の確認が進められ、患者の病状を評価するための情報共有体制も整えられていた。治療に使用する製剤は国内の管理施設から順次配送され、受け入れ先では識別番号や保管状態を一つずつ確認する。通常なら何か月もかかりそうな準備が短期間で進んだ背景には、国が必要な人員と予算を集中的に投入したことに加え、製剤の製造工程が高度に自動化されていた事情もあった。
もっとも、病院が抱える患者の数まで減ったわけではない。むしろ、これまで有効な治療法が残されていなかった人々からの問い合わせが殺到し、全国の医療機関は連日その対応に追われていた。
東京都内にある国立総合医療センターも例外ではない。
午前七時半。外来診療が始まるまでまだ一時間以上あるというのに、がん診療部門の事務室にはすでに十数人の職員が集まっていた。壁際の大型モニターには、その日に治療を予定している患者の人数、病棟ごとの受け入れ状況、製剤の配送確認などが表示されている。
その前で資料を確認していた腫瘍内科医の佐久間直樹は、隣に立つ看護師長の長谷川真紀から差し出された書類を受け取った。
「本日の予定患者は二十四名です。全員、昨夜までの最終確認を終えています。追加の相談は百件以上ありますが、そちらは地域の医療機関を通じて順次評価することになりました」
「昨日の夕方から、ずいぶん増えましたね」
「電話だけなら、もっとです。中には今から病院へ行けば治療してもらえると思っている方もいて……。受付の職員には、飛び込みで来院してもその場で投与できるわけではないと説明してもらっています」
佐久間は書類をめくりながら、短く息を吐いた。
今回の治療は、これまでの抗がん剤や放射線治療とはまったく異なるものだった。既存の治療が効かなかった患者にも効果が期待され、初期の検証では、信じ難いほど短い時間で病変が消失している。しかし、患者にとって夢のような結果が得られるからこそ、医療者には普段以上の慎重さが求められていた。
長期的な影響はまだ分からない。投与後に体内で起きる変化を正確に把握するため、採血や画像検査、体調の聞き取りは欠かせず、急激な病状の変化に対応できる環境も必要になる。全国の病院で一斉に注射を打てば済むという話ではなかった。
「優先順位について、昨夜も問い合わせがあったそうですね」
「はい。どうして自分より後に申し込んだ人が先なのか、と。説明しても納得していただけないことはあります」
「当然でしょう。ご本人からすれば、順番を待っている間にも病気は進みますから」
佐久間はそう答えたものの、だからといって受付順に治療を進めるわけにはいかなかった。すでに呼吸状態が悪化している人、重要な臓器の機能が失われつつある人、従来の治療では病状を抑えられなくなった人。限られた受け入れ枠を誰に割り当てるかは、医学的な緊急性を基準に複数の医師が判断している。
患者の名前や職業、経済状況によって扱いが変わらないよう、審査の過程も記録されていた。
「今日、私たちができることを一つずつやりましょう。予定されている方々には、できる限り安心して治療を受けていただきたい」
「そうですね。それから先生、午前中の患者さんの中に、説明の際に少し時間を取ってほしいと申し出ている方がいます」
「どなたですか?」
「七階病棟の宮原さんです。治療そのものではなく、費用について、どうしても確認したいことがあるそうです」
佐久間は患者一覧に目を落とし、その名前を見つけた。
宮原智子、五十六歳。進行した膵臓がんで、複数の治療を受けたものの病状は悪化し、最近では食事を取ることも難しくなっていた。自宅では夫と二人暮らしで、県外に住む息子がいる。
「分かりました。私から説明します」
書類を閉じると、佐久間は白衣の胸ポケットにペンを差し込み、病棟へ向かった。
宮原智子の病室は、朝日が差し込む建物の東側にあった。
ベッドの脇には小さな旅行鞄が置かれ、椅子に座った夫の修一が、持参した眼鏡を何度も拭いている。智子は上半身を少し起こしていたが、長く座っているだけでも疲れるらしく、背中には枕が重ねられていた。
「おはようございます、宮原さん。昨夜は眠れましたか?」
佐久間が声をかけると、智子は口元に薄い笑みを浮かべた。
「少しだけ。今日のことを考えると、なかなか寝られなくて」
「それはそうですよね。体調を確認してから治療に進みますが、その前に聞いておきたいことがあると伺いました」
智子は夫の顔を見た。修一がうなずくと、彼女は布団の上に置いていた手を握り合わせた。
「テレビでも、病院の説明でも、お金はかからないって聞きました。でも、本当にそうなんでしょうか。入院費とか検査とか、後から大きな請求が来るんじゃないかと思って」
その言葉には、単なる制度への疑問では済まない切実さがあった。
智子はこれまでの治療で仕事を辞め、修一も通院への付き添いのため勤務時間を減らしていた。保険で医療費の負担が軽くなっても、交通費や日々の生活費まで消えるわけではない。夫婦は貯金を取り崩しながら治療を続けてきた。
「息子には、もうお金のことで心配をかけたくないんです。あの子、自分たちの生活だってあるのに、何かあれば出すからって言うんですよ」
「そうでしたか」
佐久間は椅子を引き寄せ、二人と同じ高さに腰を下ろした。
「今回の新しい治療については、対象となる投与や必要な検査、定められた経過観察にかかる費用を、国が負担する仕組みになっています。宮原さんに、その治療費を請求することはありません。ただし、今回の治療と関係のない費用などについては別の扱いになる場合があるので、そこは会計担当から明細を使ってご説明します」
「じゃあ、この薬を使うために、何百万円も用意しなくていいんですね」
「はい。必要ありません」
修一は眼鏡を持ったまま動かなくなった。
しばらくしてから、彼は何か言おうとして口を開いたものの、声が出てこなかったらしく、眼鏡をケースにしまって膝の上に置いた。
「私たち、治療を受けるたびに、お金の計算をしてきたんです」
智子が続けた。
「次の薬が効かなかったらどうするかって話になると、いつも費用のことが頭に浮かんで……。それがなくなるなんて、まだ信じられません」
佐久間はすぐには答えなかった。医療者として何度も耳にしてきた話だったが、目の前の夫婦にとっては、何年も続いた生活そのものの話なのだと分かっていた。
「お金の心配をしなくていいことと、治療に不安がないことは別です。今日の治療にも、まだ分かっていない部分があります。その点は改めて説明しますし、途中で気持ちが変わったら遠慮なくおっしゃってください」
「はい。そこは、ちゃんと考えて決めました」
智子は枕に背中を預け直した。
「私、もう一度、家の台所に立ちたいんです。主人、料理はできるんですけど、どうしても味噌汁が薄くて」
「おい、そんなこと先生に言わなくてもいいだろう」
修一が慌てて口を挟むと、智子は久しぶりに声を立てて笑った。そのあと少し咳き込んでしまったが、夫が差し出した水を一口飲むと、照れくさそうに佐久間を見た。
「大した願いじゃないでしょう。でも、私にはそれが一番なんです」
「いいえ。とても大切な願いだと思います」
佐久間はそう答え、治療前の診察を始めた。
午前九時過ぎ、病棟の処置室では製剤の最終確認が行われていた。
小さな容器に入った透明な液体は、外見だけなら特別なものには見えない。けれど、その一つひとつに製造履歴と識別番号が付けられ、患者情報との照合が終わるまで使用できないよう管理されていた。
担当看護師の長谷川は、患者の氏名と生年月日、投与予定、容器の番号を別の職員と確認したあと、保管記録を電子端末に登録した。
「照合、問題ありません。投与前検査も予定範囲内です」
「分かりました。患者さんのところへ運びましょう」
処置室を出ると、廊下には普段と変わらない病院の朝が広がっていた。清掃員が床を磨き、検査へ向かう患者を乗せた車椅子が行き交い、ナースステーションでは電話が鳴っている。
世界を変えるかもしれない治療が始まる日でも、病院の日常は止まらない。
智子の病室に戻った佐久間は、投与前の最終説明を行った。
「これから点滴で製剤を投与します。初期の症例では短時間で大きな効果が確認されていますが、宮原さんにも必ず同じ結果が出ると断言することはできません。また、今後の長い期間にわたる安全性については、引き続き調べていく必要があります」
「分かっています。先生たちが、これからも診てくれるんですよね」
「もちろんです。投与後も検査を続けますし、退院できた場合も定期的に経過を確認します」
智子は夫に向き直った。
「修一さん、ちょっと手を貸して」
差し出された手を修一が握ると、智子はしばらくその温かさを確かめるように指を重ねた。
「終わったら、まず何が食べたい?」
夫が尋ねる。
「まだ分からないわよ。そんなにすぐ食べられるようになるかどうか」
「それでも、考えておくくらいいいだろう」
「じゃあ……焼きたての食パン。端っこがカリカリになったやつ」
「分かった。いいパン屋、探しておく」
修一はそれ以上何も言わず、妻の手を握り続けた。
点滴が始まったのは午前九時四十二分だった。
看護師が投与速度を確認し、佐久間はモニターの数値を見ながら智子の表情を観察する。智子は最初こそ緊張していたが、痛みや強い不快感を訴えることはなく、しばらくすると目を閉じて休み始めた。
特別な音が鳴ることも、身体が光ることもない。治療が始まったことを示すのは、点滴の管を流れる液体と、記録用端末に表示された時刻だけだった。
その一方で、智子の身体の内部では、既存の医療技術では実現できなかった変化が進んでいた。
血流に乗って全身へ運ばれた微小機械群は、あらかじめ組み込まれた複数の条件に従って標的を識別し、正常な組織を傷つけないよう処理を進めていく。治療の対象となる病変は膵臓だけでなく、肝臓や腹膜にも及んでいたが、装置は臓器ごとに別の操作を必要としなかった。
それでも、佐久間たちに内部のすべてが見えているわけではない。彼らにできるのは、患者の身体に現れる変化を確かめ、異常を見逃さず、得られた結果を正確に記録することだった。
一時間ほど経ったころ、智子が目を開けた。
「先生、ちょっと変なんですけど」
佐久間はすぐにベッドへ近づいた。
「どうしました? 苦しいですか?」
「いえ、そうじゃなくて……お腹が、いつもと違う気がして」
彼女は言葉を探すように少し考え、布団の上から腹部に手を当てた。
「ずっと重たい石が入っているみたいだったのに、それが少し軽くなった感じがするんです」
佐久間は痛みの程度を改めて確認し、腹部の診察を行った。急な異常を疑う所見はなく、モニターの数値も安定している。
「痛みが和らいできた可能性はありますね。もう少し詳しく調べましょう」
「気のせいじゃないといいんですけど」
「そうですね。今は結果を急がず、身体の変化を確かめていきましょう」
智子はうなずき、枕に頭を戻した。
その表情を見つめていた修一は、妻の眉間にいつも寄っていた皺が薄くなっていることに気づいた。痛みが強い日は、何も話していないときでさえ苦しそうな顔をしていた。それが今は、ただ疲れて休んでいる人の表情に見える。
修一は何度か声をかけようとしたが、結局、眠りかけている妻を起こさないことにした。
午後の画像検査では、さらに大きな変化が確認された。
膵臓に存在していた腫瘍と、肝臓や腹膜に広がっていた病変が、治療後の画像では評価可能な範囲で認められなくなっていたのである。周辺組織には回復を示す変化が見られ、血液検査でも一部の数値が改善し始めていた。
佐久間は画像を何度も見比べた。初期の検証結果は事前に確認していたし、他施設から届き始めた速報にも同様の報告があった。それでも、自分が長く診てきた患者の身体にこれほど大きな変化が起きているのを目にすると、簡単に言葉にはできなかった。
「画像の確認、別の読影医にも依頼してください。前回までの検査との比較を含めて、正式な記録を残したい」
「すでに手配しています」
同席していた放射線科医が答える。
「現時点で確認できる病変は見当たりません。ただ、画像で見えない微小な病変や、その後の経過まで保証するものではありません」
「ええ。患者さんにも、そのとおり説明します」
佐久間は画像を閉じると、病室へ戻った。
智子は午前中よりも顔色がよく、ベッドの背を起こして夫と話していた。看護師によれば、少量の水分を取っても吐き気が出ず、腹部の不快感も軽くなっているという。
「宮原さん、検査の結果が出ました」
佐久間が告げると、二人の会話が止まった。
「治療前に確認されていたがんの病変は、今回の画像では見つからなくなっています。膵臓だけでなく、転移していた場所も同様です」
智子はしばらく佐久間の顔を見つめたあと、意味を確かめるように尋ねた。
「それは……がんが、なくなったってことですか?」
「少なくとも、今の検査で確認できる病変は消えています。非常に良い結果です。ただ、これからも検査は必要ですし、長期的にどうなるかはまだ分かりません」
説明を聞き終えた智子は、すぐには喜ばなかった。
彼女は布団を見下ろし、指先で縁をなぞりながら、これまで受けてきた治療を思い返していた。薬が効いたと聞いて喜んだあと、次の検査で再び病状の進行を告げられたこともある。良い知らせをそのまま信じるのが怖くなったのは、いつからだっただろう。
「先生、私、喜んでもいいんでしょうか」
か細い声だった。
佐久間はうなずいた。
「はい。今日の結果は、喜んでいい結果です。今後のことは私たちも一緒に確認していきますが、それと今日うれしいと思うことは、別にしていいんですよ」
智子の目から涙が落ちた。
修一は慌ててポケットからハンカチを取り出したものの、妻に渡す前に自分の頬を拭うことになった。
「よかったなあ、智子」
「まだ、全部終わったわけじゃないんだから」
「分かってる。それでも、よかった」
智子は涙を拭いながら笑った。
「パン屋さん、ちゃんと探しておいてね」
「任せろ。今度こそ、失敗しない店を見つける」
「前に買ってきたの、焦げてただけだからね」
「香ばしいって言ったじゃないか」
「あなたがそう言い張ってたのよ」
病室に小さな笑い声が広がった。佐久間は二人のやり取りを見守りながら、今朝までの智子なら、こんなふうに長く話し続けるだけでも疲れていたことを思い出していた。
検査結果の数字だけでは表せない変化が、確かにそこにあった。
同じ日の午後、国立総合医療センターには各地の指定医療機関からの情報が集まり始めていた。
北海道では、肺がんによって呼吸状態が悪化していた高齢男性の画像で病変の著しい縮小と消失が確認され、酸素投与量の調整が始まっていた。大阪の病院では、進行した大腸がんの患者が治療後に腹痛の軽減を訴え、福岡では乳がんの転移に伴う症状が改善したとの報告が入っている。
どの施設でも、投与前後の検査と観察が続けられていた。報告には良好な結果だけでなく、軽い発熱や疲労感、検査値の一時的な変動なども含まれている。現時点で治療との関係が明確でない症状についても、原因を決めつけず記録する方針が徹底されていた。
佐久間は休憩室で遅い昼食を取りながら、端末に表示された集計画面を眺めていた。
全国で初日に投与された患者の数は、夕方の時点ですでに数百人に達している。各地の病院が受け入れ可能な人数を見極めながら開始したため、すべての患者に同じ日に治療が行われたわけではない。それでも、これまでの臨床試験とは比較にならない規模で、新しい治療が現実の医療として動き始めていた。
「先生、昼食、全然減ってませんよ」
休憩室に入ってきた長谷川が声をかけた。
「すみません。つい、報告を読んでしまって」
「今日だけで何人の患者さんが先生に同じことを言ったと思います? 『先生も休んでください』って」
「そんなに言われましたか」
「少なくとも三人です。私も数に入れたら四人ですね」
長谷川は向かいの椅子に腰を下ろした。
「でも、すごい一日でしたね」
「ええ。ただ、明日も同じように進められるとは限りません。患者さんごとに病状が違いますし、予想外のことが起きる可能性もあります」
「それは、これから確かめていくしかありませんね」
佐久間は端末の画面を消し、冷めかけた食事に箸をつけた。
長谷川は少し考えてから、午前中に対応した患者の話を始めた。
「今日、別の病室で治療を受けた方がいるんです。六十代の男性で、奥さんがずっと付き添っていて。投与前に、その方が私に聞いたんですよ。『これが効いたら、もう病人じゃなくなるんですか』って」
「難しい質問ですね」
「ええ。私は、すぐには答えられませんでした。治療後の検査が良くても、体力が戻るまで時間がかかることはありますし、通院だって続きますから」
長谷川は手元の紙コップを回した。
「でも、その方が本当に聞きたかったのは、そういうことじゃなかったのかもしれません。何年も病気を中心に生活してきた人が、急に別の暮らしを考えていいと言われても、どうしたらいいか分からないんでしょうね」
佐久間は箸を止めた。
がんの治療が成功したとしても、それまでの生活がすべて元に戻るわけではない。長い闘病で仕事を失った人もいれば、家族との関係が変わった人もいる。体力や筋力の回復には時間がかかり、病気が再び現れるのではないかという不安も簡単には消えないだろう。
これまで医師たちは、がんと闘いながら生活を続ける方法を患者と一緒に考えてきた。これからは、治療後に残された時間をどう生きるかという、別の種類の相談が増えていくのかもしれない。
「病気がなくなったあとも、私たちの仕事は残りそうですね」
佐久間が言うと、長谷川は少し笑った。
「むしろ、増えるかもしれませんよ。患者さんが元気になったら、今まで我慢していたことを全部やりたくなるでしょうから」
「それなら、忙しくなるのも悪くありませんね」
午後の診療開始を知らせる院内放送が流れ、二人は席を立った。
そのころ、宮原智子の病室では、県外に住む息子との通話が始まっていた。
修一がスマートフォンを持ち、画面を妻に向けている。映っているのは三十歳を少し過ぎた息子の顔で、仕事の休憩時間に連絡してきたらしい。背後には事務所の壁と書類棚が見えていた。
『母さん、父さんから聞いたけど、本当に検査の結果が良かったんだって?』
「そうなの。先生が、画像で見えるがんはなくなってるって」
『すごいじゃん。じゃあ、退院もすぐ?』
「それはまだ分からないわ。これからも検査があるし、身体も弱ってるからね」
『そっか。でも、よかった。本当によかったよ』
息子は画面の向こうで何度もうなずいたあと、少し困ったような顔になった。
『俺、何かしたほうがいい? 仕事、休んで行こうか?』
「今日は大丈夫。こっちにはお父さんもいるし、あなたはちゃんと仕事しなさい」
『いや、でもさ』
「その代わり、今度来るときはお願いがあるの」
『何?』
「家のベランダの植木鉢、全部移動させてほしいの。去年から動かせなくなっちゃって、掃除ができてないのよ」
息子は一瞬、言葉を失った。
『……母さん、今日がどういう日か分かってる?』
「分かってるわよ。だから、これからやりたいことを考えてるんじゃない」
修一が横から口を挟んだ。
「俺が動かすって言ってるのに、重たいから危ないって聞かないんだ」
「あなた、この前腰を痛めたでしょう」
『分かった分かった。今度帰ったら俺がやるよ。植木鉢でも棚でも、何でも動かすから』
智子は満足そうにうなずいた。
それから息子の顔をしばらく眺め、先ほどまでとは違う柔らかな声で言った。
「心配かけたね」
『何言ってんだよ』
「これからも、ちょっとは心配かけると思うけど」
『ちょっとどころじゃなくてもいいよ。元気でいてくれれば』
息子の声がわずかに揺れた。
智子はその変化に気づいたが、あえて何も言わなかった。代わりに、病室の窓の外へ視線を向ける。
夕方が近づいた空には、薄い雲が広がっていた。季節が変わり始めていることを知らせるような、少し冷たそうな色だった。
「退院したら、みんなでご飯を食べようね。お父さんの味噌汁じゃなくて、私が作ったやつ」
『それ、父さんがかわいそうじゃない?』
「あなたも飲んでみれば分かるわよ」
修一は不満そうに口を尖らせたが、反論はしなかった。
電話を切ったあと、智子はベッドの背を少し倒し、窓から見える空を眺めていた。
朝まで彼女の頭の中を占めていたのは、治療が失敗したらどうなるのかという不安だった。今もその不安が消えたわけではないし、明日になれば別の検査結果を待つことになる。それでも、息子に頼む植木鉢のことや、退院後に作る食事のことを考えている自分が、少し不思議だった。
病気になる前は当たり前だった予定が、いつの間にか遠い未来の出来事になっていた。
その未来が、今日は手の届く場所にあるように感じられた。
夕方、病院の事務室には初日の運用報告がまとめられていた。
投与を受けた患者のうち、すでに検査結果が確認された人々には、初期の臨床検証と同様に顕著な改善が認められている。一方、検査が翌日以降になる患者もおり、全国の全症例について結論が出たわけではなかった。医療機関からは、受け入れ枠の拡大や地方患者の移動支援、治療後の経過観察を地域の病院と分担する方法など、具体的な要望が寄せられていた。
報告を読み終えた佐久間は、最後に記された一文に目を留めた。
そこには、翌日以降も医学的緊急性を優先しつつ、受け入れ可能な患者数を段階的に増やしていく方針が書かれていた。
今日、治療を受けられた人がいる。その一方で、まだ自分の順番を待っている人もいる。
佐久間は、午前中に智子が尋ねた費用の話を思い出した。治療を受けるためのお金を用意しなくていいという事実は、患者にとって大きな支えになる。しかし、費用の問題が解消されても、病院へ来る手段や家族の事情、体調の変化によって治療を受けにくい人は残る。
誰もが同じ日に救われるわけではないからこそ、今日の成功だけで満足してはいけないのだろう。
佐久間は翌日の患者一覧を開き、緊急性の高い症例から順に確認を始めた。
廊下の向こうでは、夜勤に入る看護師たちが引き継ぎを行っている。食事を運ぶ台車の音が近づき、どこかの病室からテレビの音声が漏れ聞こえてきた。
新しい治療が始まっても、病院には明日の仕事が待っていた。
ただ、その仕事の先に見える景色は、昨日までとは少し違っていた。
七階の病室では、宮原智子が夕食のトレーを前にしていた。まだ普通の食事を十分に取れる状態ではなく、身体への負担を考慮した少量の食事だったが、彼女は看護師に勧められたスープを口に運び、しばらく味を確かめてから夫を見た。
「おいしい」
「そうか」
「ちゃんと味がするの。最近、何を食べてもよく分からなかったのに」
修一は妻の手元を見つめ、何か言いたそうにしていたが、やがて椅子の背にもたれて笑った。
「じゃあ、食パンも楽しみだな」
「ええ。でも、焦がしたのは買ってこないでね」
「分かってるって」
智子はもう一口スープを飲んだ。
窓の外では街の明かりが少しずつ増え、遠くの道路を走る車のライトが細い線を描いている。昨日までと変わらない夜景だったが、彼女には、その一つひとつがどこか新鮮に見えた。
明日の検査がどうなるかは分からない。退院の日も決まっていない。それでも今夜は、食事の味を感じられたことがうれしかった。
智子はスプーンを置くと、夫に向かって穏やかに微笑んだ。
「明日の朝も、何か食べられるといいな」
「きっと食べられるさ」
「そうね。楽しみにしておく」
修一は妻の前に置かれたトレーを少し近づけ、冷めないうちにもう一口どうかと勧めた。
そのささやかなやり取りが交わされている間にも、全国の病院では新しい治療を受けた患者たちの観察が続き、医師や看護師たちは次に待つ人々のための準備を進めていた。
世界が変わったことを証明するのに、大げさな言葉は必要なかった。
病室の中で明日の朝食を楽しみにできる人が、昨日よりも確かに増えていた。




