第34話 命に値札をつけない日
首相官邸の会見室には、まだ誰もいなかった。
整然と並べられた記者席の正面には演台が置かれ、その背後では、職員が国旗の位置を数センチ単位で調整している。照明の確認が終わると、今度は音声担当者がマイクに向かって短く声を出し、会見室の後方にある調整卓へ合図を送った。
普段ならば、それほど珍しい光景ではない。首相が記者会見を行う日は、開始時刻の何時間も前から準備が進められるものだ。
しかし、今日の官邸には、いつもとは異なる緊張があった。
会見の開催が報道各社へ通知されたのは前日の夕方である。内容は「医療政策に関する重要発表」。それ以上の説明はなく、担当する職員の大半も詳細を知らされていなかった。
それでも、発表の重要性だけは十分に伝わっていた。
通常の会見よりも多くの記者席が用意され、海外報道機関の取材申請にも対応するため、同時通訳の設備まで準備されている。
午前九時を少し過ぎた頃、会見室から廊下を二つ隔てた執務室で、高瀬は机の上に置かれた資料を読み返していた。
資料の表紙には、『新規がん治療技術の特別承認および国内提供方針について』と記されている。
すでに何度も目を通した文書だった。
医療機関で行われた検証、独立した専門家による評価、特別承認に付された条件、供給計画、対象となる患者の範囲。必要な事項はすべて整理されており、これ以上修正すべき箇所は見当たらない。
それでも高瀬は、最後の一枚まで読み終えると、表紙に戻ってもう一度だけ題名を確かめた。
「総理、会見の最終準備が整いました」
執務室に入ってきた三浦が告げる。
「予定どおり、午前十時から開始できます。医療行政の担当者も控室で待機しています」
「ありがとう」
高瀬は資料を閉じたが、すぐには席を立たなかった。
「三浦君。これを聞いた人たちは、どう思うだろうな」
「発表の内容を、ですか」
「ああ」
三浦は少し考えた。
「喜ぶ人もいるでしょう。信じられないと思う人もいるはずです。期待する一方で、本当に自分や家族が治療を受けられるのか、不安になる人もいると思います」
「そうだろうな」
「ですから、今日の説明は重要です。できることと、まだ分かっていないことを、同じ重さで伝えなければなりません」
高瀬は静かに頷いた。
少数の患者に対して実施された治療では、これまでの医学では考えられないほどの効果が確認されている。
しかし、長期間にわたって安全性が確かめられたわけではない。特別承認は、あらゆる懸念が消え去ったことを意味するものでもなかった。
それでも、現に治療を待っている人がいる。
これまでの治療では病状を抑えられず、残された時間を数えるしかなかった人たちがいる。
高瀬は、会見資料の端に記された一文へ目を落とした。
『患者本人の費用負担は発生させない』
その方針を決めるまでには、当然ながら議論があった。
財政負担をどう整理するか。医療保険制度との関係をどう扱うか。治療を受けられる人の範囲をどこまで広げるか。
通常の医療政策であれば、何年もかけて検討されてもおかしくない問題だった。
だが今回は、治療そのものが従来の前提を変えてしまっている。
特別承認を受けた技術を、所得によって利用できる人とできない人に分ける。その選択を、高瀬はしたくなかった。
「費用の件は、最終的に問題ないな」
「はい。政府が全額を負担する方針で関係機関との調整を終えています。日本国民については年齢、所得を問いません。日本の公的医療保険に加入している在留外国人も対象です」
「短期滞在者は?」
「観光などを目的とする短期滞在者は、無償提供の対象外です。治療を受ける場合の費用負担については、別途定めた制度に従っていただきます」
「分かった」
高瀬は椅子から立ち上がり、窓の外へ目を向けた。
東京の街は、普段と変わらず動いている。
道路には車が流れ、歩道を行き交う人々は、それぞれの予定に向かって歩いていた。仕事へ向かう人もいれば、買い物へ出かける人もいるだろう。
その中には、病院へ向かう人もいるはずだった。
今日という日が、その人たちにとって何を意味することになるのか。
高瀬は答えを急がず、三浦へ振り返った。
「行こうか」
「はい」
二人は執務室を後にした。
*
午前十時。
会見室の扉が開くと、カメラのシャッター音が一斉に響いた。
高瀬は演台へ進み、並んだ記者たちを見渡した。以前、小型核融合装置について発表したときにも、この場所には多くの報道関係者が集まっていた。
あのとき、彼らが求めていたのは、新技術が日本のエネルギー政策や産業にどのような変化をもたらすのかという答えだった。
今日の発表もまた、社会を大きく変える可能性を持っている。
ただし、最初に向き合うべきものは、産業でも経済でもない。
病気に苦しむ人間の命だった。
「本日は、政府が新たに特別承認したがん治療技術について、国民の皆様にご報告いたします」
高瀬が口を開くと、会見室のざわめきが消えた。
「このたび、従来とはまったく異なる仕組みによって、がん細胞を識別し、除去する新しい治療技術が開発されました。政府は専門家による検証と審査を経て、指定医療機関における使用を認める特別承認の手続きを完了しています」
記者席で、数人が顔を上げた。
高瀬は続けた。
「この治療には、極めて小さな医療用機械を用います。体内へ投与された機械は、複数の情報を照合しながらがん細胞を判別し、正常な細胞への影響を抑えつつ、対象となる細胞を除去します。また、がんによって損傷した組織の修復を補助する機能も備えています」
説明を聞きながら、最前列の記者が勢いよくペンを走らせていた。
「治療は原則として一度の投与で行い、これまでに実施された限られた臨床例では、数時間以内に顕著な変化が確認されました。胃がんをはじめ、異なる種類のがんに対する検証でも、画像上の病変消失など、非常に高い効果が認められています」
そこで高瀬は、意識的に言葉を区切った。
「ただし、ここで重要なことを申し上げます」
会見室に並ぶカメラが、演台へ向けて一斉に固定される。
「今回の結果は、治療の長期的な安全性や、将来にわたる再発の可能性が完全に解明されたことを意味するものではありません。現時点での臨床例は限られており、投与後の経過観察を継続する必要があります」
高瀬は手元の資料を見ずに話した。
「特別承認には、指定された施設での実施、患者ごとの経過記録、製品の品質管理、専門家による定期的な評価などの条件が付されています。政府としても、得られた結果を継続的に検証し、必要な情報を公表してまいります」
新しい治療を待ち望む人々にとって、慎重な説明はもどかしく聞こえるかもしれない。
それでも、都合のよい結果だけを伝えるわけにはいかなかった。
患者が自分の意思で治療を選ぶためには、希望と同じだけ、まだ分からないことも知らされる必要がある。
高瀬は一度、水を口に含んだ。
次に話す内容こそ、今日の発表のもう一つの柱だった。
「そして、この治療の国内提供について、政府は次の方針を決定いたしました」
高瀬は正面を見据えた。
「日本国民に対しては、年齢や所得にかかわらず、治療費を全額政府が負担します。患者本人に治療費を請求することはありません」
記者席のあちこちで、驚いたような声が漏れた。
「また、日本の公的医療保険に加入している在留外国人についても、同様に無償提供の対象とします。一方、観光などによる短期滞在者は対象外とし、治療を受ける際には所定の費用負担が生じます」
高瀬が言い終える前に、何人もの記者が挙手していた。
しかし、説明はまだ終わっていない。
「治療を実施するのは、必要な設備と管理体制を備えた指定医療機関です。製品の供給準備は進んでおりますが、本日から全国すべての病院で受診できるわけではありません。具体的な開始日、実施施設、申込み方法については、準備が整い次第、政府および関係医療機関から正式にお知らせします」
高瀬は、少しだけ声を落とした。
「当初は、病状が重く、治療の緊急性が高い患者を優先する方針です。供給される治療製品の数量だけでなく、診察や説明、投与後の観察を担当する医療機関の受入れ能力にも限りがあります。希望するすべての方に、同じ日に治療を提供できるわけではないことをご理解いただきたいと思います」
その言葉には、患者に対して必要以上の期待を抱かせないための配慮が込められていた。
治療薬を十分に用意できても、患者一人ひとりの状態を確認する医師や看護師まで無限に増やせるわけではない。
何より、効果が高いからといって、説明も観察も省略してよい理由にはならなかった。
「最後に、今回の治療技術の開発について申し上げます」
高瀬が話題を変えると、会見室に再び静けさが戻った。
「この技術は、政府の研究機関が独自に開発したものではありません。民間の協力者から提供されたものです。協力者の意思を尊重し、個人を特定できる情報は公表いたしません」
以前の核融合装置の発表を覚えている記者たちは、その言葉に反応した。
高瀬は、彼らの視線を受け止めながら続ける。
「政府が担うべき役割は、提供された技術を適切に検証し、責任ある制度のもとで患者の皆様へ届けることです。開発者の私生活を明らかにすることではありません」
言葉を選びながら、高瀬は締めくくった。
「がんと診断された方、治療を続けている方、そして、その方々を支えているご家族にとって、今日の発表が新しい選択肢となることを願っています。政府は、期待だけを先行させることなく、安全性の確認と公平な提供の両立に責任を持って取り組んでまいります」
一礼すると、会見室には一瞬の沈黙が生まれた。
その直後、司会者が質疑応答の開始を告げ、記者たちの手が一斉に上がった。
*
「総理、確認させてください」
最初に指名されたのは、全国紙の医療担当記者だった。
「今回の治療は、末期がんや転移が進んだ患者にも効果があるという理解でよろしいのでしょうか。また、すべてのがんに対応するという説明は、医学的にどの程度まで確認されているのですか」
「技術上は、がんの種類や進行度を限定せずに対応する設計となっています。実際に、進行したがんや転移を伴う症例でも、顕著な治療効果が確認されています」
高瀬は、記者が次の質問を口にする前に付け加えた。
「ただし、あらゆる種類のがんについて、十分な数の患者で臨床的な効果が確認されたという意味ではありません。そこは区別していただきたい。今後も実際の治療結果を蓄積し、医学的な評価を続けます」
「つまり、現時点で全患者の完治を保証するものではない、と」
「そのとおりです。私たちは大きな可能性を確認していますが、個々の患者の治療結果について無条件の保証を行うことはできません」
次に指名された記者は、費用の問題を尋ねた。
「患者負担をゼロにするとのことですが、所得制限も年齢制限も設けない理由をお聞かせください。財政負担が非常に大きくなる可能性もあるのではありませんか」
高瀬は頷いた。
「財政負担が発生することは当然認識しています。そのうえで、政府が今回の治療を公的に提供する以上、治療を必要とする人が費用を理由に諦める制度にはしないと判断しました」
「富裕層も無料になるのですか」
「はい。所得によって治療費を区分する仕組みは設けません」
「なぜでしょうか」
「がんの診断を受けた患者やそのご家族が、治療のためにまず考えなければならないことを、支払能力の確認にしたくないからです」
高瀬は少し間を置いた。
「もちろん、制度を維持するための財政管理は必要です。しかし、それは政府が責任を持って行うべき仕事であり、治療を必要としている人に、その都度負担を求める理由にはならないと考えています」
記者が着席すると、今度は地方紙の記者が指名された。
「地方の患者について伺います。指定医療機関が大都市に集中した場合、無料であっても遠方への移動が必要になります。地方でも同じように治療を受けられるのでしょうか」
「重要なご指摘です」
高瀬は、横に控える医療行政担当者へ視線を向けた。
担当者は演台の脇に設置されたマイクへ進み、資料を開いた。
「指定医療機関については、地域的な偏りをできる限り小さくする方針で調整しています。ただし、投与後の観察体制や緊急時の対応能力が必要となるため、すべての医療機関を直ちに対象とすることはできません」
「離島や山間部の患者はどうなりますか」
「患者の状態に応じた医療機関間の連携や搬送について、関係自治体と調整を進めています。具体的な運用は、施設の一覧と併せてご案内する予定です」
説明を聞いた記者は、さらに質問を重ねた。
「申込みが殺到した場合、先着順になるのでしょうか」
「単純な先着順にはしません。重症度や緊急性を医療上の基準で判断する方針です。申込みの早さや個人的なつながりによって、治療の優先順位が左右されることのないよう管理します」
高瀬はその説明を聞きながら、会見の前に三浦と交わした言葉を思い出していた。
人々が知りたいのは、技術の性能だけではない。
自分の住む場所から治療を受けに行けるのか。順番はどう決まるのか。費用を払えないことで後回しにされないか。
その一つひとつが、患者にとっては切実な問題なのだ。
続いて、海外通信社の記者が立ち上がった。
「この治療技術を、日本国外へ提供する予定はありますか。特に、治療に必要な製造設備や技術情報について、海外の医療機関や企業との共有を検討していますか」
「海外への対応については、関係国との協議を含め、今後の検討事項です」
高瀬は答えた。
「ただし、製造設備とその技術は国内で管理する方針です。国外への設備移転や技術供与を予定しているわけではありません」
「完成した治療製品そのものの輸出は否定しない、ということでしょうか」
「その可能性はあります。ただし、現時点で具体的な輸出開始を発表できる段階にはありません。まずは国内の患者に、安全かつ安定的に提供できる体制を整えることを優先します」
さらに別の記者が、開発者について質問した。
「核融合装置を提供した協力者と、今回の医療技術の開発者は同一人物なのでしょうか」
会見室の空気が、わずかに変わった。
高瀬は記者の顔を見たまま答える。
「協力者を特定することにつながる情報については、お答えを差し控えます」
「国家的な規模の技術を提供している人物です。国民には知る権利があるのではありませんか」
「政府が説明責任を負うのは、提供された技術の検証結果、使用条件、費用負担、そして安全管理のあり方です。協力者個人の身元を明らかにしなければ、それらを説明できないとは考えていません」
「政府はその人物を十分に把握しているのですか」
「先ほど申し上げたとおり、個人の特定につながる事項については回答いたしません」
高瀬の口調は穏やかだったが、それ以上踏み込む余地を与えなかった。
かつて政府は、協力者の身元を探ろうとして約束を破ったことがある。
その過ちを繰り返さないことは、今や政府の責任の一部だった。
質問はさらに続いた。
治療を拒否した場合に不利益が生じないのかという問いには、患者本人の自由な意思を尊重すると答えた。
投与後の追跡調査については、医療上必要な情報を適切に管理し、個人の診療情報を本人の同意なく公表しないと説明した。
治療製品の正式名称を尋ねられた際には、医療現場で使用する名称と政府資料上の表記が紹介されたが、高瀬は名称の由来について長く語ることはしなかった。
今日、伝えるべきことは別にある。
やがて司会者が最後の質問を受け付けた。
指名されたのは、医療専門誌の年配の記者だった。
「総理。少し抽象的な質問になるかもしれませんが、お許しください」
「どうぞ」
「これまで、がんの治療は長い年月をかけて進歩してきました。今回の発表は、その積み重ねを根本から変える可能性があります。政府として、これまでがん治療に携わってきた医師や研究者の役割を、今後どのように考えていますか」
高瀬は、すぐには答えなかった。
記者が尋ねているのは、新技術が従来の医学を不要にするのではないか、という懸念でもあるのだろう。
「私は、今回の技術によって医療従事者の役割が小さくなるとは考えていません」
高瀬は言った。
「どれほど優れた治療手段があっても、患者の状態を診断し、適切に説明し、本人の意思を確認し、治療後の経過を見守るのは人間です」
会見室の後方まで、彼の声が届いた。
「そして、今回の特別承認に至るまでの検証を担ったのも、医師や研究者の皆さんでした。技術が新しいからこそ、慎重に確かめる専門家の存在が必要になります」
高瀬は、最後にこう付け加えた。
「病気を治す手段が変わっても、患者と向き合う医療の大切さは変わらないと思っています」
記者は小さく頷き、席に戻った。
午前十一時を回ったところで、会見は終了した。
高瀬が一礼すると、再びシャッター音が響く。
演台を離れる彼の背後では、職員たちが早くも会見資料の配布と問い合わせ対応に取りかかっていた。
発表は終わった。
しかし、政府の仕事はむしろここから始まるのだった。
*
会見室から戻った高瀬を、三浦が廊下で待っていた。
「お疲れさまでした」
「君もな。問い合わせはどうなっている?」
「予想どおり、各方面から相当数入っています。医療機関、自治体、報道機関、それから海外の大使館からも照会が届き始めています」
「患者本人からの問い合わせは?」
「政府の相談窓口にも入っています。開始日や指定病院についての質問が多いようです。発表した内容以上のことを約束しないよう、担当者には徹底させています」
「それでいい」
高瀬は歩きながら答えた。
「希望を持ってもらうことと、今すぐ治療できると思わせることは違う。そこは混同させないようにしよう」
「承知しています」
二人が執務室へ入ると、机の上にはすでに新しい資料が置かれていた。
指定医療機関への説明日程、医療従事者向けの研修計画、患者相談窓口の増員案。会見が終わる時刻に合わせて、担当部署が準備していたものだった。
三浦はそのうちの一枚を取り上げる。
「総理。提供開始に向けた調整ですが、重症患者を優先する場合、医療機関ごとに判断がばらつかないよう、共通の基準を整える必要があります」
「ああ。地域によって扱いが違うようでは困る」
「一方で、患者の病状は個別性が高いので、機械的に順位を決めることもできません。医療上の判断を尊重しつつ、不透明にならない仕組みが必要です」
「難しい仕事になるな」
「はい。ただ、治療そのものの可能性が見えた以上、今度は制度の不備で患者を待たせないことが重要になります」
高瀬は椅子に腰を下ろし、資料を開いた。
以前、核融合装置が実証されたとき、彼は日本のエネルギーの未来について考えた。
電力供給、産業、地域経済。技術が社会へ広がるまでには、長い準備と多くの人の協力が必要だった。
今回も同じことが言える。
ただ、病院のベッドで治療を待つ人々には、技術の普及を何年も待てるとは限らない。
「できるだけ早く進めよう」
高瀬が言うと、三浦は頷いた。
「はい。ただし、必要な確認は省かずに」
「もちろんだ」
高瀬は資料の最初のページに目を落とした。
そこには、これから全国の指定医療機関で実施される準備作業が、細かく並んでいた。
華やかな発表とは違い、地道で、間違いの許されない仕事ばかりだった。
それでも高瀬には、その一つひとつが以前よりも明確な意味を持って見えた。
会見で語った希望を、実際に患者のもとへ届けるための仕事である。
*
同じ頃。
小鳥遊紬は、自宅のリビングでテレビの前に座っていた。
画面には、先ほどまで放送されていた首相会見の映像が映っている。生中継は終わっていたが、ニュース番組では発表内容を整理した字幕が流れ、政府が公開した資料をもとにした解説が始まっていた。
紬の膝の上では、ボスが丸い体を落ち着けている。
ソファの隣には、アイリスのホログラムが立っていた。
「……本当に発表されたんだね」
紬は画面を見つめたまま呟いた。
「そりゃ発表するだろ。承認まで終わったんだからよ」
ボスはそう答えたものの、紬の声がいつもより小さいことには気づいていた。
「なんだ、緊張してんのか?」
「ちょっとだけ」
「会見に出たのはお前じゃねえだろ」
「それはそうなんだけど……」
紬は膝の上のボスを、両腕で少し抱き寄せた。
「ニュースで、がんの治療を待ってる人がたくさんいるって聞くと、なんだか……ちゃんと届くといいなって思って」
ボスは紬を見上げた。
「そこは病院と政府の仕事だ。お前が全部の患者のところに行くわけじゃねえんだから」
「うん。分かってるよ」
「分かってる顔じゃねえな」
紬が困ったように笑うと、アイリスが静かに口を開いた。
「マスター。政府の発表資料では、治療開始までに必要な手続きと、患者への案内方法が整理されています。現時点で、マスターが新たに対応しなければならない事項はありません」
「そっか」
「ただし、今回の発表を受けて、治療を希望する方々の問い合わせは増加すると予想されます」
紬は顔を上げた。
「大丈夫なのかな?」
「医療機関の受入れには時間が必要です。ですが、製品の供給能力だけが治療の進行を制限する状況ではありません。政府は診療と観察の体制を優先して整備しています」
紬は少し考えたあと、頷いた。
「急いでほしいけど、無理してほしくもないね」
「はい。その二つを両立させるための準備が進められています」
テレビでは、治療費が政府負担になるという部分が再び紹介されていた。
紬はその字幕を見て、ほっとしたように息をつく。
「無料になってよかった」
「お前、そこは気にしてたもんな」
「だって、せっかく治せるかもしれないのに、お金がなくて受けられないのは嫌だよ」
「ま、そうだな」
ボスは短く答えた。
そのまましばらく画面を眺めていたが、やがて紬の腕の中でもぞもぞと体勢を変える。
「しかし、こうしてテレビで見ると妙な感じだな」
「何が?」
「お前が家で作ったもんの話を、首相が全国に向けてしてるってことだよ」
紬は少しだけ目を丸くした。
言われてみれば、確かにそうだった。
自分の部屋で、ボスやアイリスと相談しながら考えたものが、いまは政府の重要政策として発表されている。
その間には多くの人が関わり、慎重な検証が行われ、ようやく一般の人々へ存在を知らせるところまで来た。
「……なんだか、すごく遠くまで行っちゃったみたい」
「物はな」
ボスが答えた。
「でも、お前はここにいるだろ」
紬は腕の中へ視線を落とした。
ボスは何でもないことのように続ける。
「別に、これから毎日ニュースを見張ってなきゃいけねえわけじゃねえ。飯食って、寝て、好きなことしてりゃいいんだよ。必要なときに相談が来たら、そのとき考えりゃいい」
「……うん」
紬はボスの頭をそっと撫でた。
ふわふわとした羽毛は、いつもどおり温かい。
テレビの向こうでは、社会が大きく変わろうとしている。
それでも、この小さな体を抱いている時間だけは、何も変わっていなかった。
「マスター」
アイリスが声をかけた。
「本日の昼食について、ひとつ確認してもよろしいでしょうか」
「お昼ごはん?」
「はい。冷蔵庫にある食材を使用すれば、外出せずに用意できます。ただし、マスターが外食を希望される場合は、そちらを優先します」
紬は思わず笑った。
「今日はお家で食べたいな」
「承知しました。では、何を召し上がりたいですか?」
以前のアイリスなら、栄養や調理時間まで計算した最適な献立を、紬が答えるより先に提案していたかもしれない。
今は、きちんと紬の返事を待っている。
その変化が嬉しくて、紬は少し考えてから口を開いた。
「オムライス、食べたいかも」
「オムライスですね。承知しました」
「俺は?」
ボスがすかさず口を挟んだ。
「ボスも食べる?」
「食うに決まってんだろ。ただ、俺の分は卵を多めにしてくれ」
「またそういうこと言って」
「いいだろ、今日くらい」
「今日くらいって、何かあったの?」
「でっけえ発表があった日だろ。祝いの日ってことだ」
紬は一瞬きょとんとして、それから声を立てて笑った。
「それなら、ちょっと豪華にしようかな」
「おう、そうこなくっちゃな」
アイリスは二人の会話を聞きながら、献立の準備を始めた。
ニュース番組は、次の話題へ移ろうとしている。
画面の隅には、新しいがん治療に関する速報がまだ表示されていたが、紬はリモコンを手に取り、テレビの音量を少し下げた。
これから先、たくさんの人が治療を受けることになるのだろう。
今日の発表を聞いて、久しぶりに未来の予定を考え始めた人もいるかもしれない。
紬には、その一人ひとりの顔を見ることはできない。
けれど、自分が作ったものが誰かの明日につながるのなら、それはきっと、とても嬉しいことだった。
「ねえ、ボス」
「あん?」
「作ってよかったね」
ボスは少しだけ顔を上げた。
そして、紬の腕の中で満足そうに目を細める。
「ああ。そうだな」
キッチンでは、アイリスが調理器具を準備する音がし始めていた。
紬はボスを抱え直すと、昼食を手伝うためにソファから立ち上がった。
その頃、全国の病院では、政府から届いた新しい通知を開く医師たちがいた。
患者の診療記録を確認し、指定施設への連絡方法を調べ、まだ発表されていない開始日を待つ準備を進めている。
今日、治療が始まったわけではない。
けれど、これまで存在しなかった選択肢が、初めて国民の前に示された。
その知らせが本当の意味で人々の生活を変える日は、もう遠くないところまで来ていた。




