第01話 いつもと違う朝
小鳥遊紬は、朝が嫌いだった。
正確に言えば、朝そのものが嫌いなわけではない。休日に好きなだけ眠り、自然に目が覚めたところで布団の中からぼんやりと窓の外を眺める時間は、むしろ一日の中でもかなり好きな部類に入る。嫌いなのは、まだ眠っていたいのに起きなければならない朝と、起きたところで特に楽しみな予定もない朝だった。
そして今日も、残念ながら後者である。
「……んぅ」
薄いカーテンの向こうから差し込む光に顔をしかめ、紬は頭まで布団を引き上げた。柔らかなダークブラウンの髪が枕の上で乱れ、寝返りを打つたびに頬へまとわりつく。
枕元に置いたスマートフォンが、控えめな電子音を鳴らした。目覚ましではない。昨夜、動画を見ながら寝落ちしたせいで、充電が残り少なくなっていることを知らせる通知だった。
「……あと五分」
誰にともなく呟いてから、紬は再び目を閉じた。
二十一歳。世間一般では立派な大人として扱われる年齢だが、本人にその実感はあまりない。背が低く、顔立ちも幼いため、初対面の相手から年下に見られることは珍しくなかった。
もっとも、紬にとって外見の問題など大したことではない。それよりも深刻なのは、人間と会話することが致命的に苦手だという事実だった。
知らない人に話しかけられると、頭の中で言葉が渋滞する。何を返せばいいのか考えているうちに妙な沈黙が生まれ、焦って口を開けば今度は余計なことを言ってしまう。後になって「あのときはこう言えばよかった」と気づくことも多いが、その頃には当然ながら相手は目の前にいない。
そんな経験を何度も繰り返した結果、紬は必要以上に人と関わらない生活を好むようになっていた。別に人間が嫌いなわけではない。気心の知れた相手と話すのは楽しいし、誰かと一緒に笑うことだってある。ただ、そこへ至るまでの過程が、彼女にとってはあまりにも面倒だった。
「……お腹すいた」
布団の中で小さく呟く。起きたくはない。しかし空腹は無視できない。この二つの欲求を天秤にかけてしばらく悩んだ末、紬はようやく片腕を布団から伸ばした。
スマートフォンを手探りで探していると、指先が冷たい床に触れる。
「……あれ?」
いつもなら、この辺りに置いてあるはずなのに。
目を閉じたまま腕を左右へ動かす。何度探っても目的のものに触れず、とうとう紬は薄目を開けた。
スマートフォンは、ベッドから少し離れた床の上に落ちていた。
「……遠い」
たったそれだけの距離が、今の紬には絶望的に感じられた。上半身を起こして手を伸ばせば済む話なのだが、布団の温もりを手放すには相応の覚悟が必要になる。
しばらく床の上の端末を眺めていた紬は、何気なく考えた。
あれ、こっちに来ないかな。
その瞬間だった。
床に落ちていたスマートフォンが、何の前触れもなく紬の手の中に現れた。
「…………え?」
寝起きの頭では、目の前で起きた出来事を理解できなかった。視線を手元へ落とす。そこには確かに、見慣れたスマートフォンがある。続いて床を見る。先ほどまで端末が落ちていた場所には、何もなかった。
「……え?」
もう一度、手元を見る。スマートフォンは消えていない。試しに画面を点灯させると、いつもの待ち受け画面が表示された。通知も壁紙も、昨夜のままである。
「……寝ぼけてる?」
紬は端末をベッドの上に置き、自分の頬を軽くつねった。痛い。夢の中でも痛みを感じることはあると聞いた覚えがあるが、少なくとも今の感覚は現実そのものだった。
もう一度、スマートフォンを床へ置いてみる。そして、さっきと同じことを考えた。
こっちに来て。
何も起こらなかった。
「……だよね」
ほっとしたような、少し残念なような気持ちになる。やっぱり寝ぼけていたのだろう。そう結論づけようとしたところで、紬はふと気づいた。
先ほどは「こっちに来て」と考えたわけではなかった。あのとき、頭に浮かんだのはもっと漠然とした願望だ。
スマートフォンが、手の中にあればいいのに。
紬は床の端末を見つめた。そして今度は、そこにあるものとまったく同じスマートフォンが、自分の右手に収まっている光景を想像してみた。
次の瞬間、手のひらに重みが生まれた。
「ひゃっ!」
驚いて腕を跳ね上げる。手の中には、スマートフォンがあった。しかも、床にも同じものが残っている。
「…………」
紬は右手の端末と床の端末を交互に見比べた。画面の傷まで同じだった。
恐る恐る両方を並べてみると、どちらも問題なく起動する。壁紙もアプリの配置も、充電残量まで一致していた。
「……二個?」
どう考えてもおかしい。スマートフォンが勝手に増えるなど、常識的にはあり得ない。何かの手品だとしても、誰が何のために自分の寝室でそんなことをするというのか。
紬はしばらく考え込んだ後、二台のうち片方を手に取った。そして、ひどく真剣な顔で呟いた。
「……これ、売ったら怒られるかな」
人類の常識を根底から覆しかねない現象を目撃して、最初に浮かんだ感想がそれだった。
もっとも、すぐに別の疑問が湧いてきたため、商売についての検討は一旦保留することにした。
今、何が起きたのだろう。スマートフォンを複製したのか。それとも、まったく同じものを新しく作り出したのか。そもそも、どうして自分にそんなことができたのか。
考え始めれば疑問は尽きない。けれど、少なくとも一つだけ確かなことがあった。
自分の身に、何かとんでもないことが起きている。
紬は布団を抱えたまま、二台のスマートフォンをじっと見つめた。
「……もう一回」
今度は、もっと簡単なもので試してみよう。そう考えて周囲を見回した紬の目に、ベッド脇の小さな棚が映った。
そこには、昨夜飲みかけたペットボトルの水が置いてある。
紬は右手を差し出し、その上に新品のペットボトルが現れる様子を想像した。透明な容器。青いキャップ。中には冷たい水がたっぷり入っている。
すると、手のひらにひんやりとした感触が生まれた。
「……わ」
現れたのは、想像したとおりのペットボトルだった。表面には細かな水滴がついており、キャップを開けると小さく空気の抜ける音がした。
口をつける前に、紬は少し考えた。これ、本当に飲んで大丈夫なのだろうか。
見た目は普通の水だが、何しろ出どころが自分の手のひらである。安全性を確認する方法も思いつかない。
しかし、ペットボトルを眺めているうちに、不思議な感覚が頭の中へ広がってきた。
容器を構成する素材。水の成分。密封された内部の状態。それらが、まるで以前から知っていたことのように理解できる。
「……え、なにこれ」
紬は眉を寄せた。学校で習った覚えのない知識が、次々と頭の中に浮かんでくる。しかも、単語だけを知っているのではなく、それぞれがどういう意味を持ち、どのように関係しているのかまで分かってしまう。
少なくとも、目の前の水が飲用に適したものであることは確信できた。
それでも少し迷った末、紬はキャップに口をつけた。冷たい水が喉を通る。
「……おいしい」
ただの水だった。けれど、寝起きの身体には妙に染み渡る。
紬は何口か飲んでから、改めてペットボトルを見つめた。
もしこれが本当に、自分の想像したものを生み出せる力なのだとしたら。食べ物も作れるのだろうか。お金はどうだろう。もっと大きなものは?
そんな考えが浮かんだところで、紬のお腹が盛大に鳴った。
「……先にご飯」
世界の謎より、今は朝食だった。
紬はベッドの上に座り直し、何を食べようか考える。普段なら冷蔵庫の中身を確認してから決めるところだが、今日はわざわざ立ち上がる必要がないかもしれない。
焼きたてのトースト。ふわふわのスクランブルエッグ。それから、温かいコーンスープ。
そんな朝食が目の前にあったら、どれほど幸せだろう。
想像した途端、膝の上に妙な重みが加わった。
「……あっ」
白い皿に盛られたトーストと卵料理が、いつの間にか現れていた。しかも、湯気の立つスープまで添えられている。
ただし、問題が一つ。
「……熱っ!」
布団の上に突然現れた皿を慌てて持ち上げる。スープの器が傾き、危うく中身をこぼしそうになった。
紬は両手で食器を支えながら、どうにかベッド脇の棚へ移動させた。
「……危なかったぁ」
幸い、布団は無事だった。もしスープをこぼしていたら、朝から洗濯という最悪の仕事が発生するところである。
しかし、そこで紬は新たな事実に気づいた。今、自分は料理を作ろうとしたわけではない。ただ、目の前にあったらいいなと思っただけだ。それなのに、食器まで含めた朝食一式が現れた。
つまり、この力は細かな手順を必要としないのかもしれない。完成した状態を思い浮かべるだけで、欲しいものが手に入る。
「……便利すぎない?」
紬はトーストを一口かじった。表面は香ばしく、中はふんわりとしている。バターの風味もちょうどよく、普段自分で焼くものより明らかにおいしかった。
スクランブルエッグも絶妙な半熟具合で、コーンスープは濃厚なのに後味が重くない。どうやら、味まで自分の好みに合わせられるらしい。
「……すごい」
今度は、心からそう思った。
もしこの能力が本物なら、毎朝眠い目をこすりながら朝食を用意する必要はなくなる。買い物に出かけなくてもいい。料理に失敗して落ち込むこともない。少なくとも、食生活に関しては劇的な改善が期待できそうだった。
紬は満足そうにスープを飲みながら、ふと考えた。こんなことができるなら、ほかにも色々試してみたい。
しかし、すぐに行動へ移すことはしなかった。まずは朝ご飯を食べ終える。それから、少し落ち着いて考えよう。何しろ、今のところ自分に何が起きているのかさえ分かっていないのだから。
……もっとも、食べ終わる頃には好奇心が勝っていたのだが。
紬は空になった食器を眺め、しばらく迷った末に小さく頷いた。
「……よし」
ベッドから降り、床に置かれた二台のスマートフォンを拾い上げる。どちらも問題なく動いている。朝食を食べたことで頭も少しはっきりしてきた。
夢ではない。手品でもない。少なくとも、自分の認識する現実の中で、あり得ない現象が起きている。
その事実を改めて受け止めた紬は、少しだけ胸を高鳴らせた。
怖くないと言えば嘘になる。原因も分からず、突然こんな力を手に入れたのだ。普通なら誰かに相談するべきなのかもしれない。
けれど、相談するとして、いったい誰に何と言えばいいのだろう。
『朝起きたらスマホが増えて、ご飯も出せるようになりました』
……駄目だ。どう考えても、まともに取り合ってもらえる気がしない。病院を勧められるか、疲れているのではないかと心配されるのが関の山だろう。
それに、もし本当に超常的な能力なのだとしたら、他人に知られること自体が面倒な事態を招きかねない。
紬は人付き合いが苦手だったが、決して物事を考えられないわけではない。むしろ、自分の生活が脅かされる可能性については、かなり敏感なほうだった。
「……秘密にしよ」
結論は早かった。誰かに話すのは、もっと色々分かってからでいい。少なくとも今すぐ、自分から騒ぎを起こす必要はないだろう。
そう決めると、紬は少し気が楽になった。そして次に考えたのは、この能力をどうやって調べるかということだった。
適当に物を出して遊ぶだけでは、何ができるのか分からない。まずは簡単なものから試して、少しずつ規模を大きくしてみる。
そんな方針を立てたところで、紬は自分の部屋を見回した。ベッド。棚。机。散らばった小物。そして、片づけるのが面倒で放置してある服。
「……とりあえず、机かな」
実験するなら、ある程度の空間が必要だ。紬は机の上に積まれた小物を端へ寄せ、椅子を引いた。
いつもなら億劫に感じる作業なのに、今日は不思議と身体が軽い。これから何が起きるのか。自分にどこまでのことができるのか。そんな期待が、面倒くさがりな彼女を動かしていた。
机の前に座った紬は、両手を膝の上に置いた。
最初に試すのは、何がいいだろう。水や食べ物は、もう作れた。スマートフォンも増やせた。ならば次は、もっと単純で、結果が分かりやすいものがいい。
紬は少し考え、机の中央へ視線を向けた。
「……消しゴム」
何の変哲もない、白い消しゴム。頭の中でその形を思い描く。角の丸み。柔らかな質感。指先で押せば、わずかにへこむ弾力。
すると、机の上に小さな白い塊が現れた。
「……できた」
紬はそれをつまみ上げ、指で押してみた。想像どおりの柔らかさだった。
続いて、机の端に置かれたメモ用紙へ鉛筆で線を引き、消しゴムを滑らせる。黒い線は綺麗に消えた。消しカスまで出ている。
「……普通だ」
何もかも普通だった。少なくとも見た目や使い心地だけでは、店で買ったものと区別できない。
けれど、紬にはそれがどんな材料で作られ、どういう仕組みで鉛筆の線を消しているのかが分かっていた。しかも、その知識は消しゴムを作る前には持っていなかったものだ。
ここで、紬は一つの可能性に気づく。
もしかして、自分が知らないものでも作れるのだろうか。
朝食を出したときも、料理の細かな手順など考えていなかった。スマートフォンに至っては、内部の電子回路がどうなっているかなど、説明しろと言われても困る。それなのに、完成品は問題なく動いている。
ならば、必要なのは作り方の知識ではなく、欲しいものを思い描くことなのかもしれない。
紬は机に肘をつき、少し考え込んだ。試してみたい。けれど、いきなり危険なものを作るのは避けたい。自分の能力がどんな仕組みで働いているのか分からない以上、慎重に進めるべきだろう。
そこで紬は、身近で安全そうなものを選んだ。
「……絶対にインクが切れないペン」
普通のボールペンではない。どれだけ文字を書いてもインクがなくならず、長期間放置しても乾かない。しかも、紙の上では普通のペンと同じように使える。
そんな都合のいい文房具が欲しい。
頭の中で条件をまとめた瞬間、机の上に一本の黒いペンが現れた。
「……おお」
見た目はごく普通のボールペンだった。紬はそれを手に取り、先ほどのメモ用紙に文字を書いてみる。
『おはよう』
黒い文字が滑らかに並んだ。続けて何本か線を引いてみるが、特に変わったところはない。
しかし、ペンを眺めた途端、その内部構造が頭の中に浮かび上がった。一般的なボールペンとは異なる機構。筆記に必要な材料を維持する仕組み。そして、通常の製品では考えられないほど長期間、安定して使用できる理由。
理解できてしまう。
それも、専門書を読んで勉強したときのような曖昧な理解ではない。細かな部分まで明確に把握でき、必要なら他人へ説明することさえ可能だと感じられた。
「……なにこれ、すご……」
紬はペンを握ったまま固まった。
知らない技術を使ったものを作れる。しかも、作った瞬間にその仕組みまで分かる。
これが意味するところは、単に便利な道具を手に入れられるという話ではなかった。
今まで誰も作れなかったものを、自分なら生み出せるかもしれない。科学者が何年も研究している技術だって、完成品として作れてしまう可能性がある。
そこまで考えたところで、紬は眉を寄せた。
「……いや、待って」
少し話が大きすぎる。たった一本のペンから、いきなり人類の技術水準を超える話へ飛躍するのは、さすがに気が早い気もする。けれど、可能性としては否定できない。
紬は椅子の背もたれに身体を預け、天井を見上げた。朝起きたときには、今日もいつもどおりの一日になると思っていた。ところが今は、手のひらから物が現れ、知らない知識が頭の中へ流れ込んでくる。
あまりにも現実離れしていて、実感が追いつかなかった。それでも、恐怖より好奇心のほうが大きい。何しろ、これほど面白いことが自分の身に起きたのは初めてだった。
「……名前、つけようかな」
能力に名前をつける。少し子どもっぽい気もしたが、いつまでも『なんか物が出てくるやつ』と呼ぶのも締まりがない。
紬は腕を組み、真剣に考え始めた。
物質生成。万能製造。想像実現。
どれもそれらしいが、何となく違う。そもそも、自分ができることは単なる物質の生成だけなのだろうか。
今のところ、想像したものを作り出せることしか分かっていない。それでも、作り方を知らないものまで生み出せるというのなら、もっと大きな名前でもいい気がした。
「……万物創造」
口に出してみる。少し大げさで、いかにも物語に出てきそうな響きだった。しかし、不思議としっくりくる。
万物を創造する力。文字どおりなら、あらゆるものを生み出せる能力ということになる。
実際にそこまでできるかは、まだ分からない。けれど、目指す方向としては悪くなかった。
「……うん。これでいいや」
紬は満足そうに頷いた。こうして、本人以外の誰も知らないところで、常識外れの能力に名前がついた。
万物創造。
その名前が将来、どれほど大きな意味を持つことになるのか。このときの紬は、まだ想像すらしていなかった。
もっとも、仮に未来の自分が何をするのか教えられたとしても、今の彼女ならきっと、同じような反応をしただろう。
『へえ、そうなんだ』
そして、おそらく次にはこう続ける。
『……それより、お昼ご飯どうしよう』
紬にとって重要なのは、世界を変えることではない。自分が楽しく、気楽に、できるだけ面倒なことを避けながら暮らすことだった。その価値観は、どれほど大きな力を手に入れても簡単には変わらない。
机の上に並んだ消しゴムとペンを眺めながら、紬は小さく笑った。
「……なんか、楽しくなってきた」
まだ午前中だというのに、すでに今日一日分の驚きを使い果たしたような気分だった。けれど、試してみたいことは山ほどある。
物の大きさはどこまで自由に決められるのか。複雑な機械は作れるのか。存在しない素材を生み出すことは可能なのか。
そして、何より。この力を使えば、自分の生活はどこまで便利になるのだろう。
紬は考えただけで嬉しくなった。掃除も洗濯も料理も、全部面倒だ。買い物に出かけるのも、人混みの中を歩くのも、できれば避けたい。そんな自分にとって、万物創造は理想的な能力かもしれない。
ただし、今はまだ実験の途中である。何ができて、何ができないのかを確かめるまでは、あまり調子に乗らないほうがいい。
紬はそう自分に言い聞かせた。そして、次の実験に取りかかろうとして、ふと手を止めた。
「……あ」
視線の先には、机の上に置かれたメモ用紙がある。さっき書いた『おはよう』の文字。その下には、試し書きの線が何本も並んでいた。
紬はしばらくそれを眺めた後、新しく作ったペンを手に取った。
これから色々なことを試すなら、記録を残しておいたほうがいい。あとになって何ができたのか分からなくなったら困るし、同じ実験を何度も繰り返すのも面倒だ。
そう考えた紬は、メモ用紙の一番上に大きく文字を書いた。
『万物創造 実験記録』
続いて、その下に今日の日付を書き込む。そして、一行目。
『スマホが二個になった』
二行目。
『水が出た』
三行目。
『朝ご飯がおいしかった』
そこまで書いてから、紬は少し考えた。
「……これ、実験記録かな」
どう見ても、ただの日記だった。しかし、本人が分かれば問題ない。
紬は特に気にすることなく、四行目に『消しゴムとペンを作った』と書き足した。これで準備は整った。
次は、もう少し複雑なものに挑戦してみよう。
そう思ったところで、スマートフォンが通知音を鳴らした。
紬は反射的に画面を確認する。表示されていたのは、特に急ぎでもないアプリからのお知らせだった。
「……なんだ」
少し拍子抜けして端末を置き、再び机へ向き直る。しかし、そこで紬は重大な問題に気づいた。
スマートフォンが二台ある。どちらも自分の端末と同じ状態で、通知まで届いている。つまり、このままでは同じ通知が二回届く可能性がある。
「……それは、ちょっと嫌かも」
便利な能力を手に入れた初日から、余計な面倒を増やしてどうするのか。
紬は二台のスマートフォンを見比べ、深く考え込んだ。
作ることはできた。では、作ったものをどう扱えばいいのだろう。
これも、これから確かめなければならないことの一つだった。
そうして実験項目がまた一つ増えたところで、紬は机の上のメモ用紙に新しい行を書き加えた。
『スマホが増えると通知も増える。ちょっと困る』
書き終えた紬は、満足そうにペンを置いた。
窓の外では、いつもと変わらない朝の景色が広がっている。道路を走る車の音も、遠くから聞こえる人の声も、昨日までと何一つ違わない。
世界は今日も、当たり前のように動いていた。その片隅で、一人の少女が途方もない力を手に入れたことなど、誰も知らない。
もちろん、紬自身もまだ、その力がどこまで届くのか理解していなかった。
ただ一つだけ、確信していることがある。
今日という日は、どうやら退屈せずに済みそうだ。
「……ふふ」
紬は小さく笑い、次に作るものを考え始めた。
いつもなら、何もせずに過ごしたくなる朝。けれど今日ばかりは、布団に戻るのが少しもったいなく感じられた。




