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世界の種


 世界樹の幹へ手を当てたまま、私はしばらく動けなかった。


 地下から伝わる振動。


 葉の間を流れる青銀色の光。


 枝の先に実る黒光実。


 どれも同じ周期で脈打っている。


 装置が示した名称。


《WORLD TREE》


《FILTRATION ORGANISM》


《STATUS:RECOVERING》


 世界樹。


 濾過生物。


 状態、回復中。


 黒光実を実らせる大きな木。


 それだけではなかった。


 根で地下ネットワークへ接続し。


 幹で水、養分、粒子を運び。


 葉と果実によって空気中の未制御粒子を取り込む。


 一個の果実がフィルターなのではない。


 木全体が巨大な濾過装置。


 そして、一本だけで完結するものでもない。


 地下の根系分配網。


 温室。


 銀脈根。


 周辺の木々。


 古代施設。


 すべてとつながり、惑星の環境を維持する生きた設備。


 第一封止設備が破裂したあと、この世界は世界樹によって少しずつ救われてきた。


 だが、漏出は今も続いている。


 世界樹だけでは、第一封止設備からあふれる粒子を処理しきれない。


 封止設備を直す。


 世界樹ネットワークを回復させる。


 二つが必要。


 私はノートへ、その構図を書き終えた。


 その時だった。



     *



 腰の銀色装置が、短い電子音を鳴らした。


 ピッ。


 これまで聞いた警告音とは違う。


 危険を知らせる連続音でもない。


 施設へ部品を接続した時の確認音とも違う。


 私はすぐ画面を確認した。


 今まで表示されていた周辺地図が消える。


 温室。


 川。


 湖。


 第一封止設備。


 それらの位置を示していた簡易図が、一度すべて暗くなった。


 故障。


 電力切れ。


 地下ネットワーク接続による負荷。


 可能性を考える。


 装置を叩かない。


 無理に再起動しない。


 数秒待つ。


 画面の中央へ、小さな青い点が現れた。


 現在地。


 その点から、細い線が一本伸びる。


 次に二本。


 三本。


 地図全体へ広がっていく。


 直線ではない。


 枝分かれ。


 合流。


 細い線と太い線。


 植物の根に似た形。


 装置が表示する。


《MAP UPDATE》


《ROOT NETWORK》


《SYNCHRONIZING...》


 同期率。


 八パーセント。


 二六パーセント。


 五一パーセント。


 七八パーセント。


 一〇〇パーセント。


 地下ネットワークの情報が、装置の地図へ流れ込んでいる。


 これまでの地図は、私が歩き、装置が測定した範囲だけだった。


 川沿い。


 白柱平原。


 温室。


 湖。


 自分の移動履歴をつないだ地図。


 今は違う。


 地下に残る根系分配網そのものが、地形の下へ重ねて表示されている。


 地上からは見えない流れ。


 四つ目モグラが守ってきた通路。


 世界樹の根。


 古代配管。


 それらが青い線として浮かび上がっている。



     *



 地図の中央より少し離れた場所に、灰色の領域がある。


 墜落直後から表示されていた場所。


 広い平地。


 周囲より生命反応が少ない。


 遠くから見ても草が薄く、地面の色が違っていた。


 装置も、当初は危険地帯として示した。


 水と食料を確保できていなかった時期。


 身体を守る装備もなかった。


 私はそこを避けた。


 迂回した。


 近づかなかった。


 生き残るためには正しい判断だった。


 その灰色の平地へ、変化が起きた。


 中心部だけが、ゆっくり青白く光り始める。


 円形。


 直径は地図上では判断できない。


 周囲の灰色は残っている。


 中央の一点だけ。


 地下ネットワークの線が、複数の方向からそこへ集まっている。


 現在地からも一本の経路が伸びる。


 経路表示は、単に地表を最短距離で結んだ線ではなかった。


 川を避ける。


 崩落地を迂回する。


 以前、銀色装置が危険反応を示した円形区域の外縁を通る。


 そして、途中で二度、地下ネットワークの太い幹線と重なる。


 装置が地形だけでなく、根系網の状態を基準に道を選んでいる可能性がある。


 私は画面の線をそのまま信じなかった。


 既知の地形と照合する。


 最初の区間は、白柱平原の手前まで。


 そこから南へ曲がり、細い森を抜ける。


 平地へ入る直前に、地下線が一度地表近くへ上がる地点がある。


 中継地点。


 退避場所。


 あるいは、追加の保守ノード。


 表示だけでは分からない。


 中央樹園まで一度に進めない場合、そこを前線拠点候補として記録した。


 道を示されたからといって、日帰りできるとは限らない。


 世界の種を抱えた状態では、通常より移動速度も落ちる。


 帰還経路。


 水の補給地点。


 生体フィルターの交換場所。


 途中で撤退した場合の種の保管方法。


 先に決める必要がある。



 直線ではない。


 地下の根を辿り、危険地帯を避けるように曲がっている。


 ナビゲーション。


 そう見えた。


 私は画面を拡大する。


 装置が新しい文字を表示した。


《NEXT OBJECTIVE》


《CENTRAL ARBORETUM》


《STATUS:OFFLINE》


 次の目的地。


 中央樹園。


 状態、停止中。


「樹園……」


 第一封止設備ではない。


 第7施設でもない。


 復旧した温室でもない。


 中央樹園。


 世界樹ネットワークの地図が完成した直後に示された場所。


 地下の根が集中する場所。


 かつて危険地帯と判断した平地の中心。


 これらの事実から、世界樹を束ねる中枢施設である可能性は高い。


 だが、名称だけで安全とは判断しない。


 状態は停止中。


 周囲は今も危険地帯として残っている。


 装置が経路を示すことと、実際に通行可能であることは別。


 私は距離、経路、地形を確認した。


 現在地から徒歩で到達可能な範囲。


 川を渡る必要はない。


 地下線と重なる区間が多い。


 途中に、これまで調査していない場所もある。


 食料。


 水。


 予備フィルター。


 生体フィルター。


 必要な準備を整える必要がある。



     *



 四眼の民たちが、装置の周囲へ集まっていた。


 画面の文字を読めるのか。


 地図の形を知っているのか。


 最初に出会った一人は、青く光る地点を見たあと、世界樹を見上げた。


 表情が変わる。


 驚き。


 懐かしさ。


 それだけではない。


 長く失われていた名前を、再び聞いたような反応。


 彼は地面へ大きな円を描いた。


 円の中心へ一本の木。


 そこから外側へ、何本もの線。


 線の先にも小さな木。


 中心を指す。


「アル・ネア」


 装置が翻訳する。


《最初の樹》


 次に、中心から伸びる線を指す。


《すべての根は、そこから始まる》


 中央樹園。


 単なる植物園ではない。


 各地の世界樹へつながる根系ネットワークの起点。


 最初の樹。


 世界樹を生み、各地へ広げる場所。


 現在のαの世界樹は、地域の浄化と循環を担う一本。


 中央樹園は、その親に当たる存在を維持する中枢なのかもしれない。


 私は地面へ四つの役割を書く。


 第一封止設備。


 未制御粒子を封じ、流量を制御する。


 第3補助フィルターと温室。


 粒子を生命が利用できる状態へ変える。


 世界樹。


 地域の空気と粒子を浄化し、地下へ循環させる。


 中央樹園。


 各地の世界樹と根系ネットワークを束ねる。


 第一封止設備の漏出を止めるだけでは足りない理由が、さらに明確になる。


 漏れた粒子を処理する世界樹が、十分な数へ戻らなければならない。


 その世界樹を増やし、つなぐ中枢が停止している。


 世界全体の回復が遅いのは、当然だった。



     *



 装置の右下へ、小さな文字が追加された。


《CANDIDATE ACCESS》


《GRANTED》


 候補者権限。


 アクセス許可済み。


 以前、四眼の民が装置へ触れた時、一度だけ表示された言葉。


《CANDIDATE》


 候補者。


 救世主。


 選ばれた者。


 管理者。


 そうは表示されていない。


 候補者。


 修復を試みる資格を持つ存在。


 失敗する可能性もある。


 途中で資格を失う可能性もある。


 ほかにも候補者が存在した可能性もある。


 アクセス許可は、成功を保証するものではない。


 地下ノードを復旧した。


 世界樹を回復させた。


 その結果として、次の施設へ入る条件の一部を満たした。


 私はその程度に受け取った。


 装置が道を示したから、従わなければならないわけでもない。


 第一封止設備の時と同じ。


 情報と装備が足りなければ、撤退する。


 目的地が指定されても、判断するのは私。


 だが今回は、上流の粒子源を探した時とは違う。


 何があるか分からない場所へ、当てもなく進むのではない。


 中央樹園。


 停止中。


 世界樹ネットワークの中枢。


 目的と位置が分かっている。


 行く理由は十分にあった。



     *



 私は翌日の出発準備を考え始めた。


 生体フィルター二型。


 未使用の黒光液タンク。


 交換用粒子フィルター。


 水。


 燻製魚。


 弓。


 竹槍。


 採取容器。


 補修材。


 一次媒体。


 透明六角板。


 持っていくものを増やしすぎれば、移動が遅くなる。


 中央樹園で必要なものは分からない。


 施設なら蒼輝石。


 だが現在使える蒼輝石は、第3補助フィルターへ設置している。


 取り外すべきではない。


 一次媒体が、次工程の材料として役立つ可能性。


 黒光液が、地下設備を起動した実績。


 銀脈根の種。


 それらを候補としてノートへ並べる。


 その時。


 ボトッ。


 背後で、重いものが地面へ落ちた。


 私は反射的に振り返った。



     *



 風は吹いていない。


 世界樹の葉も、大きくは揺れていない。


 鳥の声が一瞬止まった。


 樹冠の高い位置。


 一本の枝だけが、ゆっくり上下している。


 何かが落ちた場所。


 幹の近く。


 地面へ、大きな実が転がっていた。


 黒光実。


 最初は、そう見えた。


 だが大きさが違う。


 これまで採取した黒光実は、片手で持てる。


 大きくても両手で包む程度。


 地面の実は、両腕で抱える大きさ。


 表面は漆黒ではない。


 深い藍色。


 光の角度によって、黒にも青にも見える。


 六角形模様が全面へ走る。


 銀色の筋ではなく、模様そのものが淡く脈打っている。


 地下ネットワーク。


 世界樹。


 その二つと同じ周期。


 私はすぐには触れなかった。


 落下による亀裂。


 液漏れ。


 発熱。


 周囲の粒子反応。


 確認する。


 殻に傷なし。


 ゼリーの漏れなし。


 地面の草が枯れる様子もない。


 むしろ実の周囲だけ、草の葉が少し起き上がっている。


 装置を近づける。


 通常なら、黒光実。


 生体容器。


 育成状態。


 何らかの名称が表示される。


 今回は何も出ない。


 数秒。


《RECOGNITION UPDATING...》


 認識情報を更新中。


 装置も、この実を初めて正確に識別している。


 さらに数秒。


《WORLD SEED》


《STATUS:DORMANT》


 世界の種。


 状態、休眠。


 黒光実ではない。


 少なくとも装置は、別の種類として認識した。



     *



 四眼の民たちが、一斉に膝をついた。


 誰も実へ近づかない。


 手を伸ばさない。


 世界樹を囲んだ時よりも深く頭を下げている。


 最初に出会った一人だけが、私を見る。


 自分ではなく。


 私へ手を差し出す。


 次に、世界の種。


 受け取れ。


 そういう仕草。


 私はすぐには持ち上げなかった。


 なぜ自分なのか。


 四眼の民には持てないのか。


 候補者権限と関係するのか。


 世界樹が、自分の近くへ偶然落としただけなのか。


 分からない。


 だが、装置は中央樹園へのアクセスを許可した直後。


 世界樹は、風もないのに一本の枝からこの種を落とした。


 偶然と考えるには、時間が一致しすぎている。



 実を持ち上げた状態で、装備への影響も確認した。


 生体フィルターの吸気流量。


 変化なし。


 黒光液タンク。


 反応なし。


 銀色装置。


 地図以外の警告なし。


 一次媒体を収めた容器へ近づける。


 透明球は、一度だけ内部の光を動かした。


 強い共鳴は起きない。


 銀脈根の種へ近づける。


 葉の先がわずかに世界の種へ向いた。


 それ以上は試さない。


 複数の素材を接触させ、出発前に未知の反応を起こすべきではない。


 世界の種は単独で運ぶ。


 一次媒体と銀脈根は別の荷物へ分ける。


 接触事故が起きても、すべてを同時に失わない配置にした。


 私は手袋を確認した。


 破れなし。


 両腕を実の下へ入れる。


 持ち上げる。


 見た目より軽い。


 中身が詰まった果実の重さではない。


 殻の内部に大きな空洞があるような感覚。


 だが胸へ抱えた瞬間。


 トクン。


 小さな振動。


 心臓とは違う。


 世界樹の幹へ触れた時と同じ。


 地下ネットワークと同じ。


 ゆっくりした周期。


 世界の種は休眠状態。


 それでも、完全に反応を失ってはいない。



     *



 装置の地図が再び更新された。


 中央樹園へ伸びる青い経路。


 その先端と、私の腕の中の種。


 二つが細い光で結ばれる。


《NAVIGATION UPDATED》


《CARRY THE SEED》


 経路更新。


 種を運べ。


「これを持っていけ、ということか」


 場所だけではない。


 運ぶべきものまで指定された。


 中央樹園。


 最初の樹。


 すべての根の起点。


 そこは停止している。


 世界の種。


 休眠。


 二つをつなぐ。


 中央樹園へ種を運ぶことで、何かを復旧させる。


 可能性は高い。


 だが、単純に土へ植えればよいとは限らない。


 蒼輝石が施設コアだったように。


 一次媒体が中間素材だったように。


 種という名称が、植物として植えることだけを意味するとは限らない。


 中央樹園へ着くまで、加工しない。


 切らない。


 内部を調べない。


 粒子を入れない。


 銀脈根ペーストも加えない。


 装置の指示は「種を運べ」。


 起動せよ、植えよ、使用せよ、ではない。


 今はそのままの状態を保つ。



     *



 世界樹は、これまで何百年もの間、この種を落とさなかった。


 あるいは、落とせなかった。


 地下ネットワークが止まり。


 根からの流れを失い。


 世界樹自身が弱り。


 次の世代を生み出す余力がなかった。


 ノード三が起動した。


 黒光液が地下へ流れた。


 根系分配網が八パーセントだけ戻った。


 世界樹が急成長した。


 生体活動が三一二パーセント増加。


 そして、ようやく世界の種を落とした。


 修復の結果。


 次の修復に必要なものが生まれた。


 自分が種を作ったわけではない。


 命令して落とさせたわけでもない。


 壊れていた流れを一部戻した。


 その結果、世界樹自身が次へ進むためのものを生み出した。


 世界が、自分で回復の続きを始めている。


 私は世界の種を、保水繊維で包もうとして止めた。


 通常の素材との反応が不明。


 殻へ直接触れさせず、衝撃だけを防ぐ竹枠を作る。


 最初に、背負う方法を試した。


 両手が空く。


 弓と槍も使える。


 だが、種の状態を直接確認しにくい。


 背後で殻が割れても、気づくのが遅れる。


 次に、胸側へ抱える方法。


 種を観察できる。


 衝撃から庇える。


 その代わり、足元が見えにくく、両手の自由も減る。


 最終的には、胸の前へ吊るす受け枠とした。


 下側を竹籠で支える。


 左右を柔らかな蔓で固定する。


 上部は開け、六角形模様と鼓動をいつでも確認できるようにする。


 必要なら留め具を一つ外し、すぐ両手で抱えられる。


 六角形の実を圧迫しない。


 胸と背中へ荷重を分散する。


 歩く。


 しゃがむ。


 段差を越える。


 転倒を想定し、種を庇うように横へ身体を倒す。


 どの姿勢でも、種は枠から外れなかった。


 地面へ置く時も、石へ直接当てない。


 目的地へ着く前に壊せば、運ぶ意味がない。


 最後に、種の鼓動が止まっていないことを確認した。


 四眼の民は作業を静かに見ていた。


 誰も急かさない。


 出発しろとも言わない。


 準備が終わるのを待っている。


 彼らは世界の種を守ることはできた。


 世界樹を守り続けた。


 だが中央樹園へ運ぶ役割は、自分たちではないらしい。


 候補者権限。


 それが理由かもしれない。


 あるいは、平地の危険へ耐えられる装備を持つ者が、現在は私しかいないだけかもしれない。


 資格と運命を混同しない。


 できる者が、必要なものを運ぶ。


 それだけでよい。



     *



 私はノートへ記録した。


 ――地下ネットワーク同期、一〇〇パーセント。


 ――未調査の平地中央を「中央樹園」と識別。


 ――状態、停止中。


 ――候補者権限、アクセス許可。


 ――世界樹から大型の実が落下。


 ――通常の黒光実とは別種。


 ――名称「世界の種」。


 ――状態、休眠。


 ――中央樹園への経路と種が同期。


 ――指示「種を運べ」。


 その下へ注意事項。


 ――中央樹園到着まで加工禁止。


 ――用途を推測で決めない。


 ――危険地帯への経路を事前確認。


 ――種を失えば、同じものが再び生まれる保証はない。


 最後に、石碑の言葉を思い出す。


 最初の種を守れ。


 種が尽きれば、空は毒となる。


 石碑が示していた黒光実。


 今回の世界の種。


 同じものなのか。


 世界の種から、最初の世界樹が生まれるのか。


 中央樹園に必要な中核部品なのか。


 まだ分からない。


 だが、空を浄める世界樹の未来が、この種へつながっている可能性は高い。


 私は世界樹を見上げた。


 巨大な枝。


 無数の葉。


 青銀色の葉脈。


 その中で、種を落とした一本だけが、ゆっくり揺れている。


 風はない。


 それでも、見送るように。


 私は胸へ固定した世界の種へ手を添えた。


「預かる」


 世界樹が言葉を理解するとは思わない。


 返事もない。


 ただ、腕の中の種が一度だけ脈打った。


 次の目的地。


 中央樹園。


 これまで避け続けてきた平地の中心。


 危険だから近づかなかった場所が、今は世界の根を戻すための到着地点として示されている。


 危険が消えたわけではない。


 私が特別な者になったわけでもない。


 ただ、進むための情報。


 装備。


 そして運ぶべきもの。


 それらが、ようやくそろった。



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