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川の中の光


 仮拠点αの枝に腰を下ろし、私は銀色の円柱をもう一度見た。


 長さは十センチほど。


 片側には透明なレンズらしきもの。反対側には、押せば動きそうな小さな突起がある。側面には文字のような刻印が並んでいるが、知っている言語ではなかった。


 人工物であることは間違いない。


 そして、探査ポッドの部品ではない。


 調べたい。


 ボタンを押せば何か分かるかもしれない。


 通信装置かもしれない。記録装置かもしれない。あるいは、この星に自分より先に来た誰かの痕跡かもしれない。


 だが、私は装置を物資袋の端へ固定した。


 今すぐ調べるべきものではない。


 正体の分からない人工物を作動させることには、黒い実を転がすのとは違う危険がある。光るだけならいい。音を出すかもしれない。熱を持つかもしれない。周囲の何かへ信号を送るかもしれない。


 それに、もっと単純で、もっと差し迫った問題が残っていた。


 水だ。


 手元にある飲料水は二リットル。


 生命を維持するための水であって、安心して使える量ではない。気温や行動量によっては、一日で大半を失う。


 西に川がある。


 水質は不明。


 飲める保証はない。


 それでも、確かめなければならない。


 私は仮拠点αから西を見た。


 木々の向こうに、銀色の光が細く走っている。


 出発時刻は午前九時五十六分。


 まだ午前中だ。


 日が沈む時刻は分からないが、今なら川を調べて戻る余裕がある。


 私は銀色の装置を動かないよう固定し直し、マルチツール、医療キット、飲料水を持って木を降りた。


 地面へ降りる前に、穴の様子を確認する。


 四つの目を持つ小さな生物たちは出ていない。


 黒い実は、まだ二つ残っている。


 彼らが集めるのは中身ではなく、空になった殻。


 その理由も分からないままだ。


 分からないことが増えている。


 だが、今は一つずつでいい。


 まず水。



     *



 仮拠点αから川まで、まっすぐ歩けば十五分ほどだった。


 帰り道を見失わないよう、ときどき振り返る。


 同じ場所でも、進む時と戻る時では景色が違って見える。特徴的なねじれ方をした木、二股に分かれた根、紫色の苔が途切れて土の見える場所を覚える。


 銀色の光が木々の隙間から大きくなり、やがて森が途切れた。


 川が現れた。


 高い位置から見た時よりも、流れは速かった。


 幅は四メートルほど。


 深さは、岸から見える範囲では膝から腰ほどだろうか。中央はさらに深い可能性がある。


 水は非常に透明だった。


 流れの底まで見える。


 川底には、青白い石が敷き詰められていた。


 陽光を受けて反射しているのかと思ったが、少し違う。


 光が水面で揺れるだけではなく、石そのものの内側に淡い明るさがあるように見えた。


 一見すれば、飲めそうなほど美しい水だった。


 私は岸へ近づきかけ、足を止めた。


 何かがおかしい。


 透明すぎるからではない。


 静かだからでもない。


 川は音を立てて流れている。水が岩へ当たり、細かな泡が生まれている。


 それなのに、生き物がいない。


 魚が一匹も見えない。


 岸辺を飛ぶ虫もほとんどいない。


 水面を走る小さな昆虫も、岩陰に潜む生物も見当たらない。


 地球の川なら、水があれば何かがいる。


 飲めるかどうかとは別に、微生物、虫、魚、草。水辺は生命が集まる場所だった。


 ここには、その気配が極端に少ない。


 私は川から二メートルほど離れた場所へ荷物を置き、まず周囲を観察した。


 大型生物の足跡がある。


 岸へ向かい、また森へ戻っている。


 水を利用する生物はいるらしい。


 だからといって、人間にも安全とは限らない。


 私は流木を一本拾った。


 表面が乾いており、手袋で持っても崩れないことを確認する。


 先端だけを川へ入れた。


 水に触れた瞬間、変色することはなかった。


 煙も出ない。


 流木の表面が溶ける様子もない。


 数秒待ってから引き上げる。


 付着した水は無色。


 異臭もない。


 次に、水面を流れる泡を見る。


 不自然な膜は浮いていない。


 油のような虹色の反射もない。


 見た目と匂いだけなら、危険を示すものはなかった。


 最後に、マルチツールの簡易環境センサーを起動した。


 先端を外気へ向ける。


《大気:呼吸不適》


《微量有害成分を検出》


 やはり、この星の空気をそのまま吸うことはできない。


 ただし、表示は成分名ではない。


 センサーが危険性だけを検出し、既知の分類へ当てはめられないものを一括して「微量有害成分」と示している可能性がある。


 気体なのか。


 微粒子なのか。


 複数の成分が混ざっているのか。


 今の装置だけでは分からない。


 少なくとも、現在の空気は安全と判断できる組成ではなかった。


 植物がある。


 酸素も存在する可能性が高い。


 それでも、人間にとって安全な空気とは限らない。


 次に水面へセンサーを近づける。


 数秒待つ。


 表示が何度か切り替わり、最後に灰色の文字が出た。


《水:分析不能》


《データベース外》


 毒性あり、ではない。


 安全、でもない。


 機械が知らない。


 それだけだった。


「結局、自分で確かめるしかないか」


 直接飲む気はなかった。


 最初の一回で身体を壊せば、知識を得る前に終わる。


 何か別の方法で調べる必要がある。


 私は川の上流へ目を向けた。


 少し離れた場所で、岩の隙間から水が湧き出しているように見える。


 その周囲だけ、植物の色が違っていた。


 森に多い紫色でも、一般的な緑でもない。


 濃い青緑色。


 植物同士が押し合うように密集し、地面が見えないほど生い茂っている。


 水源に近いから成長がよいのか。


 それとも、この川に含まれる何かの濃度が高いのか。


 考えていると、青緑の植物の向こうで何かが動いた。


 四足歩行。


 体長は一メートルほど。


 木々の隙間に一瞬見えただけで、形までは分からない。


 こちらへ向かってくる様子はない。


 私は追わず、足元へ視線を戻した。


 岸辺に、黒い石が落ちている。


 拳ほどの大きさ。


 表面には銀色の筋が走っていた。


 拾う前にマルチツールで転がす。


 生物ではない。


 粉も落ちない。


 手に取る。


 見た目より重かった。


 普通の岩より密度が高い。


 金属を含んでいる可能性がある。


 今は加工する手段がないが、後で役立つかもしれない。


 私はそれを黒銀鉱石と仮に呼び、物資袋へ入れた。


 重さが増える。


 何でも持ち帰れるわけではない。


 だが、今は未知の鉱石を一つだけ持つ価値があると判断した。


 問題は水だった。


 医療キットの中身を確認する。


 消毒材、止血材、簡易縫合器具。その端に、検体採取用の小さな密閉チューブが入っている。


 容量は百ミリリットルほど。


 飲料水を空けて容器を作る必要はない。


 私はチューブを取り出した。


 岸辺の水は、土や植物の影響を強く受けている可能性がある。


 流れの中央に近い場所から採りたい。


 だが、水へ入るのは避ける。


 足を取られれば、透明な水でも流れの強さに負ける。


 丈夫そうな細い枝へチューブを蔓で固定し、簡単な採水棒を作った。


 蓋を開けた状態で流れへ差し入れる。


 水の抵抗で枝が振られる。


 角度を調整し、チューブを水中へ沈める。


 気泡が抜けたところで引き上げ、すぐに蓋を閉めた。


 透明な水。


 目立った浮遊物はない。


 私はチューブを光へ透かした。


 採取直後には、何も見えなかった。


 振らずに待つ。


 三十秒ほど経った頃、底に小さな光が現れた。


 最初は気のせいかと思った。


 だが、光は一つではなかった。


 青白い微粒子が、ゆっくりとチューブの底へ沈んでいく。


 砂ではない。


 粒子そのものが弱く光っている。


 一定の明るさではなく、ゆっくり脈打つように明滅していた。


 私はチューブを動かさず、そのまま観察を続けた。


 一分。


 二分。


 やがて粒子の光は弱まり、底へ完全に沈殿した。


 上澄みは、再び透明になった。


 川底の青白い石も、同じものを含んでいるのかもしれない。


 この粒子が生物を遠ざけているのか。


 反対に、この星の生命に必要なものなのか。


 水を飲んだ生物がいれば、少なくとも短時間の反応は確認できる。


 そう考えた時、対岸の茂みが揺れた。


 先ほど見えた四足歩行の生物が姿を現した。


 鹿に似た体格。


 脚は細いが、胴はしっかりしている。


 首が異様に長かった。


 地球の鹿とキリンの中間を、もっと細くしたような姿。


 頭部には角がない。


 大きな耳が左右へ動き、周囲の音を探っている。


 私はその場で身体を低くした。


 生物はこちらへ気づいていない。


 長い首を下げ、川へ口をつけた。


 水を飲む。


 十秒。


 三十秒。


 一分。


 突然倒れることはない。


 苦しむ様子もない。


 飲み終えると顔を上げ、静かに森へ戻っていった。


 この水は、少なくともあの生物にとっては日常的な水源らしい。


 しかし、人間にも安全だとは限らない。


 体内構造も、必要とする物質も違う。


 それでも重要な情報だった。


 毒性が極端に強く、触れた生物をすぐ殺す水ではなさそうだ。


 私はチューブを物資袋の中で立てたまま固定した。


 振れば粒子が再び混ざる。


 今は沈殿した状態も保存したかった。


 長首の生物が残した足跡を見る。


 大きく、追いやすい。


 森の中で安全に暮らしている生物が、何を食べ、どこを避けているか。


 それを知ることは、未知の植物を一つずつ自分で試すより安全かもしれない。


 危険な獣を追うのではない。


 この土地で生きている草食獣の暮らしを借りる。


 私は周囲を確認し、足跡を追うことにした。



     *



 足跡は川から離れ、林の中へ続いていた。


 途中で何度も立ち止まる。


 長首の生物だけを見て、その周囲を見落とさないようにする。


 足元には別の小さな跡もある。


 頭上では枝が揺れている。


 それが風なのか、生物なのかを一度ずつ確かめる。


 十五分ほど進んだところで、足跡のそばに奇妙な植物を見つけた。


 背丈は膝ほど。


 丸い葉が何枚も重なり、縁だけが青く発光している。


 葉の一部が欠けていた。


 虫食いのような細かな穴ではない。


 大きな口で噛み取った跡。


 先ほどの草食獣が食べた可能性がある。


 私は植物へ近づかず、少し離れた茂みへ身を隠した。


 待つ。


 数分後、枝の向こうから長い首が現れた。


 先ほどの個体かどうかは分からない。


 長首の生物は周囲を何度も見回した。


 耳が左右へ別々に動いている。


 しばらく警戒したあと、青く縁取られた葉を食べ始めた。


 一枚。


 二枚。


 噛み、飲み込む。


 吐き出さない。


 ふらつかない。


 呼吸が乱れる様子もない。


 この植物は、少なくともこの草食獣にとって食料になる。


 人間が食べられるとは限らない。


 だが、採取して試験する候補にはできる。


 私は位置を覚えようと、周囲の木の形を確認した。


 その時だった。


 長首の生物の耳が、同時に一方向へ向いた。


 食べる動きが止まる。


 顔つきが変わった。


 目が大きく開き、首が高く上がる。


 私は何も聞いていない。


 何も見ていない。


 それでも、生物は明確に何かを察知していた。


 次の瞬間、長い脚で地面を蹴り、森の奥へ全力で逃げた。


 枝が揺れ、葉が散る。


 数秒で姿が消えた。


 森が静まり返る。


 鳥のような声が止まった。


 小さな虫の音もない。


 風まで止まったように感じる。


 私は身体を動かさなかった。


 仮拠点αの近くで、四つ目の小さな生物たちが一斉に穴へ隠れた時と同じだ。


 現地の生物には分かる。


 自分には分からない何かが近づいている。


 この惑星では、危険そのものより、生物が危険へ示す反応の方が先に見えるのかもしれない。


 地球でも、鳥や小動物の沈黙は異変の兆候になる。


 未知の星でも、その考え方は通用する可能性がある。


 私は立ち上がらず、茂みの中で身を低くした。


 耳を澄ます。


 何もない。


 自分の呼吸音と、宇宙服の循環装置だけが聞こえる。


 その静けさの奥で、乾いた音がした。


 ――カコン。


 仮拠点αから聞いた音。


 木の上から見た、円形の空き地の方向。


 今度は、前より近い。


 見たいという気持ちがあった。


 正体が分かれば、避け方も分かる。


 何が木を叩いているのか。


 なぜ周囲の生物は、あの音で逃げるのか。


 だが、それは今ここで確かめる必要のある情報ではない。


 長首の生物は逃げた。


 この土地で自分よりはるかに長く生きている生物が、食事を捨てて逃げた。


 理由が分からない。


 分からないからこそ、同じ判断をする。


 私は低い姿勢のまま、来た道を戻り始めた。


 急に走らない。


 走る音で何かの注意を引く可能性がある。


 落ち葉を踏まない位置を選び、ゆっくり後退する。


 三十メートルほど戻ったところで、再び音がした。


 ――カコン。


 近い。


 百メートルも離れていないように聞こえる。


 背中へ視線を感じた気がした。


 気のせいかもしれない。


 振り返れば、正体が見えるかもしれない。


 それでも私は振り返らなかった。


 好奇心は、生き残ってから満たせばいい。


 一定の速度で歩き続ける。


 森を抜ける少し前、遠くで鳴き声が戻った。


 風が葉を揺らす。


 小さな枝がこすれ合う。


 世界が、何事もなかったように動き始める。


 危険そのものを見たわけではない。


 だが、危険の範囲からは離れたらしい。


 私はそこで初めて、一度だけ後ろを確認した。


 木々と霧。


 動くものは見えない。


 それ以上は留まらず、仮拠点αへ戻った。



     *



 時刻は午前十一時七分。


 木の上へ登り、物資を一つずつ確認する。


 黒銀鉱石。


 河川水のサンプル。


 銀色の装置。


 どれも失っていない。


 怪我もない。


 空腹と喉の渇きは進んでいるが、行動に支障が出るほどではない。


 私はサンプルチューブを枝へ固定し、沈殿した青白い粒子をもう一度見た。


 光は弱い。


 完全に消えたわけではない。


 水の底に、薄い星屑が溜まっているようだった。


 この川の水は、ただの水ではない。


 だが、それが毒なのか、資源なのかは分からない。


 荷物を整理していると、宇宙服が短く鳴った。


 ピッ。


 少し間を置いて、もう一度。


 ヘルメットの表示を見る。


《外気浄化フィルター性能:89%》


 記録上の初期値は九十五パーセント。


 墜落時の損傷ですでに五パーセントを失っていた。


 そこから、外へ出て三時間も経たないうちに、さらに六パーセント低下している。


 外気浄化フィルターの使用可能時間は七十二時間。


 その数字は、標準環境での推定だったのだろう。


 この星の大気に含まれ、センサーが「微量有害成分」と一括分類している未知成分が、想定以上の速度でフィルターを劣化させている。


 単純に計算することはできない。


 劣化速度が一定かどうかも分からない。


 だが、猶予が三日より短い可能性は高い。


 水だけではない。


 呼吸できる環境を作る方法も見つけなければならない。


 私は銀色の装置へ視線を向けた。


 これが何かを解決する可能性はある。


 だが、使い方も安全性も分からない。


 今ある情報で試せることはないか。


 黒い実。


 透明なゼリー。


 川の水。


 青白い粒子。


 頭の中で、今日見たものを並べる。


 黒い実の中身は、空気へ触れると蒸発した。


 川の粒子は、時間が経つと沈殿した。


 二つを組み合わせたら、どうなる。


 同じ星に存在するものだからといって、関係があるとは限らない。


 激しく反応する可能性もある。


 有害なガスが出るかもしれない。


 だから、拠点の上では試さない。


 私は実験に必要なものだけを持ち、木を降りた。


 仮拠点αから三十メートルほど離れる。


 風向きを確認する。


 何かが発生した場合、拠点へ流れない位置を選ぶ。


 平らな岩の上へ河川水のチューブを置く。


 周囲に四つ目の小さな生物がいないことを確かめる。


 木の根元に落ちた黒い実を一つ、マルチツールで転がして運ぶ。


 前に殻を開いた時のような強い衝撃を与えない。


 チューブの口は小さく、実を丸ごと入れることはできない。


 医療キットの未使用包装材を広げ、中央を窪ませて簡単な容器を作る。そこへサンプルの水を移した。


 青白い粒子も一緒に流れ込む。


 黒い実を水へ沈める。


 私はすぐに離れた。


 三十秒。


 変化はない。


 水面から気泡も出ない。


 実の表面にも変色はない。


 一分。


 底へ沈んでいた青白い粒子が動き始めた。


 水の流れはない。


 容器も揺れていない。


 それでも粒子は、黒い実へ向かってゆっくり移動する。


 磁石へ砂鉄が集まるように、黒い表面へ付着していく。


 私は姿勢を低くしたまま、距離を保って観察した。


 三分。


 殻の表面に、細い青い筋が浮かび上がった。


 実を構成する継ぎ目に沿っている。


 先ほど空気中で開いた時よりも、筋の数が多い。


 発熱はない。


 煙もない。


 宇宙服の警報も鳴らない。


 水面の粒子は、ほとんど残っていなかった。


 次の段階へ進む。


 私はマルチツールの先端だけを近づけ、殻の一部を削った。


 前に転がした時は、金属のように硬く感じた。


 しかし今は違った。


 刃を当てると、殻が簡単に割れた。


 パキッ。


 私はすぐに下がる。


 透明なゼリーは噴き出さない。


 甘い匂いもしない。


 割れた隙間から見えたのは、白いものだった。


 マルチツールで殻を少しずつ広げる。


 中には、ゼリーの代わりに柔らかな繊維状の塊が詰まっていた。


 植物の綿に似ている。


 だが、もっと密度が高い。


 水を含み、半透明に光っている部分もある。


 私は先端で少量を引き出した。


 繊維は長く伸びた。


 簡単には切れない。


 スポンジのように水を保持しているのに、形が崩れない。


 周囲へ異常が起きないことを確認してから、手袋で触れる。


 ほんのり温かい。


 外気より数度高い程度。


 生物の体温のような強さではない。


 だが、確かに熱を持っている。


 水へ入れたことで、ゼリーが流れ出たわけではない。


 別の物質へ変わった。


 黒い実は、川の青白い粒子を集めた。


 その結果として、内部に繊維を作った。


 私は白い繊維を岩の上へ置き、空になった容器を見た。


 水は透明だった。


 底に沈んでいた青白い粒子が、一つも残っていない。


 光が消えたのではない。


 実へ移った。


 そう考えるのが自然だった。


 この繊維は、ただ水に濡れた果肉ではない。


 水の中に含まれていた何かを使って作られた。


 丈夫。


 保水性がある。


 微かに熱を持つ。


 フィルター。


 保温材。


 傷口を保護する素材。


 頭の中に用途がいくつも浮かぶ。


 だが、まだ一度成功しただけだ。


 同じ条件で再現できなければ、使える技術とは言えない。


 私は実験の時刻と変化を書き留めた。


 水へ入れて三十秒、変化なし。


 一分、粒子の移動開始。


 三分、殻へ青い筋。


 殻を開くと、内部が白い繊維へ変化。


 水中の粒子は消失。


 仮称。


 保水繊維。


 最後に、その下へ一行を加えた。


 ――黒い実は、川の中の光を集めている。


 まだ答えではない。


 ただの仮説だ。


 それでも、墜落してから初めて、この星にあるものを組み合わせ、自分の手で新しい結果を得た。


 川は、ただ飲めるかどうかを確かめる対象ではなくなった。


 黒い実も、ただ正体不明の果実ではなくなった。


 この星には、人間の知らない仕組みがある。


 そしてその仕組みは、観察し、条件を変え、結果を比べれば、少しずつ読み解ける。


 私は岩の上に置いた白い繊維を見た。


 フィルター性能は、今も減り続けている。


 残された時間は短い。


 けれど、何もできないわけではない。


 この星に必要なものがないのなら、この星にあるものから作ればいい。


 そのための最初の材料が、手の中にあった。


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