感謝された!?
結局私は、琴峰パパを部屋まで連れていくことができなかった。
だめだ。やっぱり私は、あの子とは話せないんだ。
そう言って、私の手を振り払って立ち去って行く。私は長い廊下の中に一人残された形になって、見えない天の代わりに天井を仰いだ。ちょうど琴峰パパとすれ違うようにして豪華な部屋から歩いてきたのは、黒錐先輩だった。
「すげえな、お前」
一体何を感心しているんだろう。私は説得できなかったというのに。
「お前、超大手企業岸田建設の社長兼取締役に向って威嚇してたんだぞ。わかってるか?」
…あ。
たらりと冷や汗が流れる。無言の沈黙が数秒間。
「分かってなかったみたいだな…」
「だって、社長って貫禄とか、よくわからない…私には、どの人もただの人間にしか見えない」
「まぁ、沢原兄妹からすれば、そうだろうな」
私が言いかえそうとした時。
「…貴方が沢原千華さんね」
つかつかとあの社長秘書みたいな琴峰さんのお母様が歩いてくる。
ちょっと待って!私、今スリッパすら履いてない!こういう絨毯の床は靴なしじゃ歩き回っちゃいけないって知ってるけど、ちょっとこの人の前で革靴とかスリッパもなしに立っているのは…
「あっ、すみません!私スリッパも履いてなくて「そんなことはどうでもいい」…はい」
ばっさりと私の焦りが封じられた。
「さっき貴方のお兄様にもお礼を言ってきたところですが…」
そして大人の風格をもった超大手企業社長夫人が、
私に向って深々と頭を下げた。
「~~~~~~っ!?」
「うちの息子と娘がご迷惑をお掛けいたしました。それなのに、貴方がたご兄妹はうちのバカ兄妹を助けてくれましたね。…失礼ですが、さっき貴方が娘に話していたこと、全部貴方のご友人が教えてくれました」
多分白石だ。咲真は喋れないし、あの場にいなかったし。…余計なことをしないでほしいと思う。
なんていうか、気持ち悪い…!
「本当にその通りです。私は仕事に疲れて、大事なことを忘れていました…娘が汚されたことを知って、しかも殺人の疑惑まで持ち上がって、私は世間体ばかりを気にしていた。
でも…私にとっては、あの子たちが元気でいてくれれば、それでいいんだと、世間にとっては殺人犯でも、私にとっては、大切な子供達なんだということを、まさか貴方のような学生に教えられるとは思わなかった。本当に、ありがとうね」
そして彼女はさらに、子規の方も清羅学園に転入させようと考えている、今後とも、うちのバカ達をよろしくお願いしますと先輩にまで頭を下げ、晴れ晴れとした顔で廊下を歩き去って行った。
「えっ?琴峰さん達は、連れ帰らないんですか!?」
でも。振り向いた妙齢の女性の顔は、大きく曇っている。
「今、あの子達を実家に連れて帰らない方がいい。ここでお世話になった方がいいのよ。黒錐家の方が良くしてくださって、本当によかったわ」
どういうことだ…?
いろいろ訊きたくなった時、先輩が私の肩に手を置いた。
「知らぬが仏、っていうこともあるんだ。でもまあ、心ちゃんはすっかり千華ちゃんに救われて君のことを親友認定しちゃったみたいだから、心ちゃんから教えてもらえるかもしれないね」
この人は、チャラいのか真面目なのかよくわからなかった。
けど、本当はすごく真面目で、責任感のある男なのかもしれんな…
「先輩ってさあ…息子なのに、琴峰さんにボディーガードをつけるとか、そんなことができるんですか?権限が広すぎじゃありませんか?」
「ばーか。俺の父親は「G.B」の取締役だ。たかがファッション雑誌だが、いろいろと交友関係は広いし、叔父は政府の中枢で働いているし、ボディーガードを一人都合してもらうのは簡単なんだ。…まあさすがに、俺は学生の身分だからちょっと、ボディーガードを雇う方法は変わってくるけどな」
何か今、政府の汚職みたいなものを知ってしまった気がするけど、黙っておく。きっとこれも、金持ちの特権なんだろう…
っていうか、G・B、って…
「もしかして…白石くんがモデルをやってるところですか!?」
白石くんが何故か自慢げに語ってきたのを、私が大人の風格で封印して泣かせた記憶がありありと甦る。肩から思いっきり力が抜けていく。
「だいせいかーい。ちなみに言うと俺は編集長になるように言われてきたけどな、クリエイティブディレクターの方になりたいんだ…」
この赤メッシュ男は何言ってるんだ。多分役職の名前だけど、さっぱりどんな役割か想像できない。ましてやファッション業界なんて、かけらも縁がない。
「話がズレるのは嫌いです。それで、どんな方法でボディーガードを雇うんですか?」
「普通にこっちに留学させて転入させて、来年俺らが高3になって生徒会を抜ける時に後を継いでもらう」
果てしない計画ですねそれは。本当に上手くいくのか?
…そして私は、そこで重要なことを思い出す。
「あっ、あの!咲真との婚約云々は…」
「あぁ。解消したよ。さっき、そのことを話し合ってきた。重要なことだから、弟にも出席してもらったんだ。ほら、戻ってきたよ」
さっきの琴峰ママと同じくらい晴れ晴れとして嬉しそうな咲真が戻ってきた。喋ってなくても嬉しさを隠し切れず、普段の殺人オーラはどこへやら…
まるで普通のイケメン男子みたいじゃないか?
「咲真」
私が名前を呼ぶと、咲真は笑っているのか怒っているのかわからない、変な顔になっていった。先輩が面白そうに咲真の反応を見守っている。赤メッシュ男はどっかいけ、と思ったら、急に咲真が人の腕をぐいぐい引っ張って、さっき私が飛び出した部屋に戻って行く。で部屋に戻ってきたら急に手を離したものだから、私はぐらりと前につんのめった。
彼の重要なコミュ手段、「ケータイ」をとってくるため、だったらしい。私の見ている前で高速でメールを打ち始める。
『知らぬが仏、っていうこともある。兄貴が言ってただろ。だけど、お前は口が堅いから…琴峰さんのこと嫌いだって言ったわけも、もっと複雑なんだ。またメールで話そうと思ってる」
***
高級マンションの様子を、遥か遠く、さらに高いビルの屋上から双眼鏡で見つめる背の高い一人の男。その姿はエリートサラリーマンそのものだが、彼は正確にはサラリーマンではない。
子供達を見るその目は、限りなく愛おしかった。
だが。
出てくる言葉は限りなく冷たい。
『ごめんね。依頼は取り消せないんだ。どうしたものかな』




