覚醒と日常の崩壊
週末の横浜、みなとみらい。
黄昏時の「万国橋」の上で、
親友の結はスマホを構え、海面に映る大観覧車のコスモクロックを夢中で撮影している。
「見てよ、あい!
奇跡のグラデーション! マジでエモすぎない?」
結の弾んだ声が、海風に乗って私の耳を掠める。けれど、私の瞳に映っているのは、絵画のような夜景ではなく、空間そのものに走る無数の「亀裂」だった。
(……っ、また、きた。)
脳髄の最深部、理性の薄皮が耐えきれずに、……爆ぜる(はぜる)。
一瞬にして、ライトアップされた横浜の美しさが、安っぽい舞台セットのように剥がれ落ちる。
穏やかな海面は、あの朝の4時54分に見た、赤黒く粘つく泥の海へと変貌し、そびえ立つ高層ビルの群れは、私を閉じ込め、押し潰そうとする巨大な壁へと姿を変える。
「……ねえ、結。ここ、暗いよ。……海の底みたい。」
自分の声が、自分の喉を通っていないような感覚。
記憶が、濁流となって私を蹂躙する。
あの土の上で、肺を焦がすような冷気に初めて晒された、誕生という名の暴力。
逃げ場のない狭窄感。骨が軋む音。
「生命の神秘なんて、……ただの、物理的な処刑じゃない……」
独り言が、冷たい海風に溶ける。
(なんであたしには、チートがないの? なんで、こんなにボロボロなの!?)
「ねえ? あい? 何言ってるの? ブツブツ大丈夫?」
結の声で、一瞬だけ視界が引き戻される。
(……私、何か言ってたのかな? 何か私の中に、別の私が入り込んでいる……妙な違和感。頭痛いし、疲れかな、寝不足かな……)
けれど、結の瞳に映る「心配そうな自分」を見た瞬間、胃の奥から灼熱の毒がせり上がった。
結が
「次は赤レンガの方に行こうよ」
と無邪気に誘ってくる。
私は彼女の瞳を、かつて誰にも見せたことのない、冷たく鋭い眼差しで見つめ返した。
「いらない。あたしが今見たいのは、光じゃない。もっと深い、暗闇の底にある『真実』だけだから。」
「ねえ? あい?? おかしいよ?
今日……もう帰ろうよ。
なんかあいじゃないみたいだよ? どうしたの?」
結の震える声。震えさせているのは、あたし。
可哀想? そんなの、知ったことじゃない。
誰の温もりも届かない土の上で、独りで肺を焦がしたあの瞬間に比べれば、こんな友情の崩壊なんて、微々たるコストでしかない。
「帰りたいなら、あんた一人で帰りなよ。
あたしが今見たいのは、光じゃない。もっと深い、暗闇の底にある『真実』だけだから。
心配なんていう、安っぽい優しさで、あたしの覚醒を汚さないで。」
言い放った言葉が、海風に凍りつく。
結の顔から血の気が引き、大きな瞳に涙が溜まっていくのが見えた。
その瞬間、私の中にいた「化物」がふっと影を潜め、代わりに、心臓を直接握り潰されるような猛烈な後悔がなだれ込んできた。
(……っ、なに、今の。あたし、なんてこと言ったの?)
視界の端で爆ぜていた「泥」の残像が消え、再び横浜の夜景が戻ってくる。
けれど、その輝きは、さっき毒を吐いた自分の醜さを照らし出す、あまりにも残酷な光でしかなかった。
「あ、……結……。違うの、あたし……」
膝の力が抜け、万国橋の冷たいアスファルトに崩れ落ちる。
全身を襲うのは、リブートされたあの時と同じ、逃げ場のない「寒さ」だった。
でも、それ以上に痛いのは、結を傷つけてしまったという事実。
「……ごめん。……結、本当に、ごめんなさい……っ!」
喉が熱い。酸素を吸い込むだけで精一杯だったあの産声のように、私は嗚咽を漏らしながら、結のスカートの裾を震える手で掴んだ。
「おかしいの、あたし、頭がおかしくなっちゃったみたいで……!
あんたが嫌いなわけじゃない。そんなわけ、ないのに。
ただ、……寒くて、痛くて……自分の中に、知らないあたしがいっぱい流れ込んできて……」
地面に額を擦り付けるようにして、私は心から謝り続けた。
5つの世界なんて、覚醒なんて、そんなものいらない。ただ、この優しい結に嫌われたくない。その一心で、泥まみれの魂をさらけ出す。
「……見捨てないで、……結……。あたし、……最低だよね。……最低の友達だよね……」
震える私の肩に、温かい手が置かれる。
あんなに酷いことを言ったのに、結はまだ、私を「あい」として見てくれている。その温もりが、今の私には、何よりも痛い「救い」だった。
魂の奥底で、何かが静かに、けれど確実に、……爆ぜ続けている。




