神殿で変わったのはあの子だけ
苔むした石畳の小道は、まるで異界への入口のように森の奥へと続いていた。
陽の差さない場所にひっそりと建つその神殿は、朽ちかけてはいるものの、周囲の空気だけが不自然なほど澄んでいる。 いや、澄みすぎていて、肺に入れると内側から凍りつきそうなほど冷たい。
「……ここだ」
アルが呟き、重厚な木の扉に手をかけた。 蝶番が錆びつき、悲鳴のような高い軋み声を上げて開く。
中は薄暗く、長い時間を積み重ねた埃と、冷たい石の匂いが混じり合っていた。 高い天井には、裂けた布のような祈り旗が、風もないのに微かに揺れている。
「――お待ちしておりました」
不意に、静寂を破る鈴のような声が響いた。
ビクリと肩を震わせたミラが目を凝らすと、闇の奥、祭壇の前から一人の少女がゆっくりと立ち上がるのが見えた。
自ら光を放つような、圧倒的な存在感。 純白の法衣に、繊細な金の刺繍。 月の光を紡いだような銀の髪がやわらかく揺れ、透き通るほど整った顔立ちは、作り物めいて美しい。
少女の紫の瞳は、熱っぽい輝きを帯びて、まっすぐアルだけに向けられていた。 隣にいる私など、最初から存在しないかのように。
「……勇者、アルヴィン様」
少女が夢見るようにその名を呼ぶ。
「え?」
ミラは思わず、間の抜けた声を漏らす。 隣のアルを見上げると、彼は何かに魅入られたように少女を見つめていた。 その瞳孔が、わずかに開いている。
「その魂の輝き……わたくしにはわかります。貴方様こそが、世界を救う光。さあ、こちらへ」
少女が白く細い手を差し伸べる。 それは、拒絶を許さない甘い誘惑のようだった。
「……僕が、光?」
アルの足が、ふらりと前に出る。
「ちょ、ちょっとアル!? なに勝手に行こうとしてるの!」
ミラは慌てて彼の袖を掴んだ。
知らない場所、怪しげな少女、意味不明な言葉。
警戒信号がガンガンと頭の中で鳴り響いている。
けれどアルは、ミラの制止が聞こえていないかのように、うわ言のように呟いた。
「呼ばれてるんだ……ミラ。行かなくちゃ、いけない気がする」
「気がするって、あんたねぇ……!」
「大丈夫。すぐに終わるから」
アルは優しく、けれど有無を言わせぬ力でミラの指を解いた。
その手つきは優雅で、いつもの「どんくさい幼なじみ」のものではない。
ミラが唖然としている間に、アルは祭壇の前へと歩み寄っていた。
少女――巫女は、満足げに微笑むと、アルの手を両手で包み込んだ。
「覚醒の儀を執り行います。怖がることはありません。貴方様本来の姿に戻るだけなのですから」
巫女が古びた杖を掲げ、歌うような声で詠唱を始める。
その瞬間、空気がビリビリと震え始めた。 足元から巻き上がる風が、埃を舞い上げる。 杖の先端に光が集まり、直視できないほどの輝きを放ち始めた。
「っ……!」
ミラは思わず腕で顔を覆った。 ただの光ではない。 肌を刺すような熱と、鼓膜を圧迫するような重圧。 生物としての本能が「逃げろ」と叫ぶような、強大なエネルギーの奔流。
「う、あぁぁぁっ……!」
光の中で、アルが苦しげな声を上げた。
「アル!?」
助けようと踏み出したミラの足が、見えない壁に弾かれる。 近づけない。 光の渦が、彼と私を隔てる断絶となって立ちはだかる。
「アル! アルッ!?」
私の叫び声は、轟音にかき消された。
閃光が神殿全体を白一色に塗りつぶし、世界が軋むような音が響き渡る。 永遠にも思える数秒の後。 光が弾け飛び、静寂が戻った。
ミラは恐る恐る顔を上げる。
「……嘘、でしょ?」
視線の先に立っていたのは、見慣れた少年ではなかった。
栗色だった髪は、月光を浴びたような銀色に。
あどけなかった瞳は、溶けた黄金のように鋭く輝いている。
体つきも一回り逞しくなり、その輪郭がほのかに燐光を帯びて見えた。
あまりの変化に、言葉が喉に張り付く。
「ミラ……?」
呼ばれた声だけが、かつてのアルの面影を残していた。
彼は自分の手を見つめ、握ったり開いたりしている。
「すごいんだ……体の奥から力が溢れてくる。視界が、今までとは違う」
「本当に……アル、なの?」
「ああ。僕は僕だよ。でも……」
アルが困惑したように眉を寄せる。
その表情は、以前よりも大人びていて、どこか冷徹な美しさを湛えていた。
まるで、美しい怪物に入れ替わってしまったかのような疎外感。
「素晴らしい……! これぞ真の勇者様!」
巫女が感極まった声を上げ、アルにすがりつくように抱きついた。
胸板に顔を埋め、その背中に腕を回す。
「わたくしはシュナ。この時を、貴方様を、ずっとお待ちしておりました」
「あ、あの、シュナさん……?」
「どうか、わたくしをお使いください。貴方様の剣となり、盾となりましょう」
その距離はあまりに近く、親密だった。
ミラの胸の奥が、ざらりとした音を立てる。 理由もなく、彼女を引き剥がしてやりたくなる衝動。
その時、神殿の奥の重い扉が、バン!と勢いよく開け放たれた。
「シュナ様! 何事ですか、この光は!」
現れたのは、青銀の鎧をまとった騎士風の青年と、威厳ある白いローブの老女だった。
彼らは祭壇の上の光景――変貌したアルと、彼に寄り添うシュナを見て、目を見開いた。
「お婆様、クリオ! 勇者様が……勇者様が現れたのです!」
シュナが頬を紅潮させて叫ぶ。
「勇者……?」
老女――ジアナと呼ばれた女性が、鋭い眼光でアルを品定めするように見つめた。
「ほう……。確かに、この神気。伝説の記述通りじゃな」
「まさか、本当に……」
騎士のクリオはその場に跪き、頭を垂れた。
「神殿騎士クリオ、ただいま推参いたしました。……覚醒の気配を感じ駆けつけましたが、まさか本物とは」
大人たちの深刻なやり取り。 飛び交う「勇者」という言葉。
ミラは、急速に現実感を失っていく自分を感じていた。
ここはもう、私の知っている世界じゃない。
アルは「選ばれた人」で、私はただの「村娘」。
その残酷な境界線が、今引かれたのだ。
(……帰ろう)
ここにいてはいけない。 みじめな気持ちになるだけだ。
ミラはふと、窓のない神殿の隙間から、オレンジ色の光が差し込んでいることに気づいた。
「アル」
努めて明るく、日常のトーンで声をかける。
「私はそろそろ帰るけど、どうする? 勇者様はお忙しそうだし」
その一言で、場の空気が凍りついた。 シュナがゆっくりとミラの方へ視線を向け、静かに微笑む。
その目は、笑っていなかった。
「あら、あなた様は? ……勇者様はこれから、世界のための重要なお話をなされるところです」
やんわりとした口調。 けれど、そこには明確な「排除」の意志があった。
『部外者は消えろ』と、そう言われている。
「お急ぎでしたら、どうぞお一人でお帰りくださいませ」
カチン、とミラの頭のどこかで何かが切れた。
「そう、そういうこと? なら遠慮なく帰らせてもらうわ。邪魔して悪かったわね!」
ミラはくるりと背を向ける。 悔しさと寂しさが混ざり合い、視界が滲むのをこらえて足早に出口へ向かう。 背後で、アルが何かを言おうとする気配がした。
「お待ちください勇者様、これからのことを――」
「離してくれ!」
鋭い叫び声と共に、衣擦れの音がする。
ドタドタと、神殿の静寂には似合わない慌ただしい足音が近づいてくる。
「ミラ! 待って!」
手首を掴まれた。 振り返ると、息を切らしたアルがそこにいた。
神々しい銀髪を振り乱し、顔だけは必死に歪んでいる。
「ごめん、今日は帰るよ! ミラと一緒に。話なら明日聞くから!」
「し、しかし勇者様!」
シュナが悲鳴のような声を上げるが、アルはもう聞いていなかった。
唖然とする神殿の面々を残し、アルはミラの腕を引いて歩き出す。
「行くよ、ミラ」
「……あんたねぇ、勇者なんでしょ? あんな綺麗な人に引き止められたのに」
「関係ないよ。僕はミラの幼なじみだもん」
アルは当然のように言い放つと、握っていた手首から、掌へと指を滑らせた。
ぎゅう、と。 痛いほどの力で、指を絡めてくる。
その手はひどく熱く、そして微かに震えていた。
「……」
ミラは何も言えなくなった。
姿が変わっても、中身はあのアルのままだ。
「離さないでね」
小さな呟き。 胸の奥が少しだけ熱くなり、ミラは握り返した。
神殿を出た瞬間、風の音が変わった。
空気がざらつき、肌が粟立つような不穏な気配。
地の底から、腹に響くような微かな地鳴りが伝わってくる。
夕暮れの光が揺らめき、不気味な赤い影が村の方角を染めていく。
「……な、なに?」
ミラは立ち止まり、アルと目を合わせた。 彼の金色の瞳が、かすかに危険な光を帯びて細められる。
「ミラ、離れないで」
声色が、完全に変わった。 甘えを含んだ少年のものではない。
「何かが、来る」




