いつもの朝、変わりゆく空
朝の光が、木の窓枠を越えて柔らかく部屋に滑り込む。
まだ少し冷たい朝の空気の中、コトコトと煮立つ野菜スープの湯気が満ち、焼きたてのパンの香ばしい匂いが家全体を包み込んでいた。
ミラはエプロンの裾で濡れた手を拭き、使い込まれた木の皿をテーブルに並べる。 窓の外では小鳥がさえずり、遠くで羊の牧歌的な鳴き声が聞こえる。
この村の一日は、いつもこうして穏やかに始まる――はずだった。
「アル、パン焦げるわよ!」
奥のキッチンから漂ってきた香ばしすぎる匂いに、ミラは思わず声を張り上げた。
「う、うそ!? ちゃんと見てたのに!」
情けない悲鳴とともに、カウンターの向こうでトングを振り回す気配がする。 ミラが覗き込むと、アルが半泣き顔でパンをひっくり返していた。
トーストの端は、すでに炭のように黒く変色している。
「もう……ただ焼くだけで、どうしてこうなるの」
呆れながらも、ミラは口元を綻ばせてしまう。
二人は十六の歳になる。 アルの背丈はいつの間にかミラを追い越し、今では頭ひとつ分ほど高い。 けれど、こうして焦げたパンを前に慌てる姿は、出会った頃の幼い少年そのままだ。
「だって火加減が難しいんだよ……ミラのパンは、なんでいつも完璧なの?」
「経験の差よ」
「ずるい」
「ずるくないわ。愛と努力の成果よ」
ミラは彼の手からパンを取り上げると、ナイフの背でサリサリと焦げを削り落とす。
ふわりと、焼き立ての小麦の香りが再び立ち上った。 アルが安堵したように、ほう、と息を吐く。
ミラはふと、その横顔を見つめた。
寝癖の残る栗色の髪が朝日に透けてきらめき、白く整った頬には、まだあどけなさが残っている。 体は男らしく成長しても、中身はずっと手のかかる弟のような存在だ。
そんな彼が放っておけず、つい手を焼いてしまう。 それが私の幸せなのだと、疑いもしなかった。
「ねぇミラ。……僕がいなくなったら、ちゃんと朝ごはん作れる?」
不意に、アルがぽつりと零した。 パンを削るミラのナイフが止まる。
「なにそれ、新しい冗談?」
「だって、僕、いつもミラに頼ってばかりだから。……そろそろ一人でやってみようかなって」
「一人で? ……無理ね」
ミラは即答し、クスクスと笑った。
「ひどいなぁ」
アルは唇を尖らせる。 だが、その金色の瞳は笑っていなかった。
じっと、ミラの瞳の奥を覗き込むように、粘着質な光を宿している。
まるで、「無理だと言ってほしかった」とでも言うように。
†
昼下がり。 二人はいつものように、村の畑道を並んで歩いていた。 黄金色の麦の穂が風にそよぎ、空には千切れた綿飴のような雲が流れている。
「今日も平和ね」
ミラが呟くと、アルは手を後ろで組み、退屈そうに空を仰いだ。
「うん。でも、平和すぎて少し息が詰まるかも」
「贅沢言わないの」
「だって毎日同じなんだもん。パン焦がして、叱られて、畑の手伝いして……君の背中を見て」
「最後のは自業自得じゃない」
そう言いつつも、ミラは笑ってしまう。 アルの不満げな顔が、駄々をこねる子供のようで愛らしかったからだ。
「……じゃあ、何か面白いことしようか」
ふと、アルが口元を緩め、いたずらっぽい光を瞳に宿す。 その顔を見ただけで、ミラの背筋にピリッとした予感が走った。
「まさかまた、魚を素手で捕まえるとか言うつもり?」
「え、どうしてわかったの?」
「そろそろ学習して」
ミラの呆れた声に、アルはわざとらしく口を尖らせる。 そんな二人の様子を見て、道の向こうから歩いてきた老人が、微笑ましそうに手を振った。
穏やかな村の午後。 誰もが疑わない、いつもの幸福な光景。
「じゃあ、畑の手伝いが終わったら、いつもの川に行きましょう。今日の夕飯のおかずはお魚ね」
「うん、そうしよう」
アルの声が弾んだ。 それが、魚への期待ではないことに、ミラだけが気づいていない。
†
日が暮れるころ。 畑仕事を終えた二人は、村の外れに流れる小川へ向かっていた。
水の音が涼やかに耳を打ち、夕方の湿った風が火照った肌を撫でる。
「ちょっとアル、そんなところに足を入れたら魚が逃げちゃうでしょ!」
ミラが浅瀬で声を上げると、向かい側でしゃがみ込んでいたアルが振り向いた。 汗ばんだ栗色の髪をかき上げ、少し拗ねたように笑う。
「ごめん。でも見てよミラ。今、あの岩の影に……でかいのが!」
「もう、毎日のように捕まえに来てるんだから、そろそろ魚くらいちゃんと捕まえなさいよ」
「それ、地味に刺さるなぁ……」
二人の声が、夕暮れの水面に溶けていく。
川辺を包む光はゆっくりと金色に変わり、風が草の青い香りを運んでくる。 水面に映る空は茜と群青が混ざり合い、どこか現実よりも美しく、儚く見えた。
ミラは濡れたスカートの裾を軽く絞りながら、足元の石を踏みしめて浅瀬を渡る。 流れる水が足首をくすぐるように撫で、そのたびに自然と笑みがこぼれた。
「ねぇアル、今日の魚、どのくらい捕れた?」
「んー……二人分くらいかな」
「じゃあ足りるわね。焼いて食べよう。今日は久しぶりに二人で夕飯にしない?」
「そうだね。……ミラと久しぶりの、二人きり」
アルの声のトーンが、ふと落ちた。
「願ってもないチャンスだ」
夕陽が彼の横顔を照らし、陰影を濃くする。 アルは照れくさそうに手にした網を直しているが、その視線は網ではなく、じっとミラへと注がれていた。
しかしミラは気づかず、陽光に輝く水面を見つめている。
アルの視線は、ミラの無防備な首筋や、光を浴びた横顔を舐めるように追いかける。
何かを伝えたいように。 けれど、それを言葉にするのを恐れるように。
「ん? どういう意味?」
視線に気づいたミラが振り返る。
「いや……別に。なんでもない」
アルは慌てて視線を逸らし、川の流れに目を戻した。
静かなせせらぎの音が、二人の間に横たわる「言えない感情」をやさしく隔てていた。
†
その夜。 虫の声と風の音だけが、静まり返った家の中に流れていた。
窓の外では星が透き通るように瞬き、アルの部屋を青白く照らしている。
彼はベッドの端に腰を下ろし、目を閉じたまま動かなかった。
胸の奥で、何かがざわついている。 理由のない焦燥。不安。
けれど、どこか懐かしく、抗いがたい感覚でもあった。
目を閉じると、やわらかな光が脳裏に浮かぶ。
白い光の中で、女性の声が静かに、しかし絶対的な響きを持って語りかけてくる。
『――アルヴィン・レオルム。神殿へ来なさい』
それは夢の中にしては、あまりにも鮮明だった。
呼ばれた瞬間、胸の奥に焼きごてを当てられたように熱くなる。
「はっ……!」
息を呑み、カッと目を開ける。 夜風がカーテンを揺らしていた。
額に冷たい汗が滲み、アルは荒い呼吸を繰り返す。 心臓が早鐘を打ち、全身の血液が沸騰するような感覚が引かない。
「……今のは、夢……じゃない」
そう呟いた声は、かすかに震えていた。
自分の意思ではない何かが、自分を呼んでいる。
その予感は、確信めいた恐怖となって彼を襲った。
†
翌朝。 ミラが庭で洗濯物を干していると、背後から芝生を踏みしめる足音が駆けてきた。
振り向くと、寝ぐせをつけたままのアルが、肩で息をして立っていた。 その顔色は悪い。
「ミラ! ……今日、神殿に行ってみない?」
「神殿? 急にどうしたの?」
「変な夢を見たんだ。女の人の声で“神殿へ行け”って。……もしかしたら、啓示かもしれない」
「啓示……女神様の?」
ミラは思わず眉を寄せた。
村の奥にある古い神殿は、もう何年も人が訪れていない廃墟同然の場所だ。
霧の深い森の奥にひっそりと建ち、誰も近づかない。
けれどアルの表情は、冗談を言っているようには見えなかった。
普段の甘えた笑顔ではなく、どこか遠くを見つめるような瞳。
その光が、妙に危うげで、ミラは胸騒ぎを覚える。
「ねぇミラ。君も……一緒に来てくれる?」
すがるような声だった。 真っ直ぐに見つめられると、断る言葉が出てこない。
「……仕方ないわね。危ないことはしないでよ?」
「しないよ。ただ、確かめたいだけなんだ」
「ほんと、しょうがない子ね。畑の手伝いはお休みしてくるわ」
ミラは呆れたように肩をすくめ、けれどその瞳には隠しきれない慈愛を滲ませた。
彼がこうして真っ直ぐに何かを求めてくる時、拒絶できた試しなんて一度もないのだ。
「ありがとう、ミラ……!」
その瞬間、アルの表情が崩れた。
まるで捨てられかけた子犬が、飼い主の温もりを見つけた時のような――安堵と、切迫した色が混ざり合う。 彼は一歩、踏み込むようにして距離を詰めると、ミラの片手を両手で包み込むように握りしめた。
「っ……、あ、アル?」
「よかった……。君が来てくれないなら、僕、どうにかなりそうだったから」
伝わってくる掌の熱は、ひどく高い。 ギュッ、と痛いほどに力を込められ、ミラは小さく息を呑む。
目の前のアルは笑っていた。
けれどその笑顔は、どこか張り詰めた糸のように脆く、そして心細げだった。
「絶対、離れないでね」
それはただの確認なのか、それとも、自分自身への戒めなのか。
祈るように紡がれた言葉は、朝の爽やかな空気にはそぐわないほど、重く湿った響きを帯びていた。




