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勇者と幼なじみの物語―あざと勇者の愛が重すぎる―  作者: 華乃ぽぽ
一章

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2/39

いつもの朝、変わりゆく空

朝の光が、木の窓枠を越えて柔らかく部屋に滑り込む。

まだ少し冷たい朝の空気の中、コトコトと煮立つ野菜スープの湯気が満ち、焼きたてのパンの香ばしい匂いが家全体を包み込んでいた。

ミラはエプロンの裾で濡れた手を拭き、使い込まれた木の皿をテーブルに並べる。 窓の外では小鳥がさえずり、遠くで羊の牧歌的な鳴き声が聞こえる。

この村の一日は、いつもこうして穏やかに始まる――はずだった。


「アル、パン焦げるわよ!」


奥のキッチンから漂ってきた香ばしすぎる匂いに、ミラは思わず声を張り上げた。


「う、うそ!? ちゃんと見てたのに!」


情けない悲鳴とともに、カウンターの向こうでトングを振り回す気配がする。 ミラが覗き込むと、アルが半泣き顔でパンをひっくり返していた。

トーストの端は、すでに炭のように黒く変色している。


「もう……ただ焼くだけで、どうしてこうなるの」


呆れながらも、ミラは口元を綻ばせてしまう。

二人は十六の歳になる。 アルの背丈はいつの間にかミラを追い越し、今では頭ひとつ分ほど高い。 けれど、こうして焦げたパンを前に慌てる姿は、出会った頃の幼い少年そのままだ。


「だって火加減が難しいんだよ……ミラのパンは、なんでいつも完璧なの?」

「経験の差よ」

「ずるい」

「ずるくないわ。愛と努力の成果よ」


ミラは彼の手からパンを取り上げると、ナイフの背でサリサリと焦げを削り落とす。

ふわりと、焼き立ての小麦の香りが再び立ち上った。 アルが安堵したように、ほう、と息を吐く。

ミラはふと、その横顔を見つめた。

寝癖の残る栗色の髪が朝日に透けてきらめき、白く整った頬には、まだあどけなさが残っている。 体は男らしく成長しても、中身はずっと手のかかる弟のような存在だ。

そんな彼が放っておけず、つい手を焼いてしまう。 それが私の幸せなのだと、疑いもしなかった。


「ねぇミラ。……僕がいなくなったら、ちゃんと朝ごはん作れる?」


不意に、アルがぽつりと零した。 パンを削るミラのナイフが止まる。


「なにそれ、新しい冗談?」

「だって、僕、いつもミラに頼ってばかりだから。……そろそろ一人でやってみようかなって」

「一人で? ……無理ね」


ミラは即答し、クスクスと笑った。


「ひどいなぁ」


アルは唇を尖らせる。 だが、その金色の瞳は笑っていなかった。

じっと、ミラの瞳の奥を覗き込むように、粘着質な光を宿している。

まるで、「無理だと言ってほしかった」とでも言うように。



   †


昼下がり。 二人はいつものように、村の畑道を並んで歩いていた。 黄金色の麦の穂が風にそよぎ、空には千切れた綿飴のような雲が流れている。


「今日も平和ね」


ミラが呟くと、アルは手を後ろで組み、退屈そうに空を仰いだ。


「うん。でも、平和すぎて少し息が詰まるかも」

「贅沢言わないの」

「だって毎日同じなんだもん。パン焦がして、叱られて、畑の手伝いして……君の背中を見て」

「最後のは自業自得じゃない」


そう言いつつも、ミラは笑ってしまう。 アルの不満げな顔が、駄々をこねる子供のようで愛らしかったからだ。


「……じゃあ、何か面白いことしようか」


ふと、アルが口元を緩め、いたずらっぽい光を瞳に宿す。 その顔を見ただけで、ミラの背筋にピリッとした予感が走った。


「まさかまた、魚を素手で捕まえるとか言うつもり?」

「え、どうしてわかったの?」

「そろそろ学習して」


ミラの呆れた声に、アルはわざとらしく口を尖らせる。 そんな二人の様子を見て、道の向こうから歩いてきた老人が、微笑ましそうに手を振った。

穏やかな村の午後。 誰もが疑わない、いつもの幸福な光景。


「じゃあ、畑の手伝いが終わったら、いつもの川に行きましょう。今日の夕飯のおかずはお魚ね」

「うん、そうしよう」


アルの声が弾んだ。 それが、魚への期待ではないことに、ミラだけが気づいていない。


   †


日が暮れるころ。 畑仕事を終えた二人は、村の外れに流れる小川へ向かっていた。

水の音が涼やかに耳を打ち、夕方の湿った風が火照った肌を撫でる。


「ちょっとアル、そんなところに足を入れたら魚が逃げちゃうでしょ!」


ミラが浅瀬で声を上げると、向かい側でしゃがみ込んでいたアルが振り向いた。 汗ばんだ栗色の髪をかき上げ、少し拗ねたように笑う。


「ごめん。でも見てよミラ。今、あの岩の影に……でかいのが!」

「もう、毎日のように捕まえに来てるんだから、そろそろ魚くらいちゃんと捕まえなさいよ」

「それ、地味に刺さるなぁ……」


二人の声が、夕暮れの水面に溶けていく。

川辺を包む光はゆっくりと金色に変わり、風が草の青い香りを運んでくる。 水面に映る空は茜と群青が混ざり合い、どこか現実よりも美しく、儚く見えた。

ミラは濡れたスカートの裾を軽く絞りながら、足元の石を踏みしめて浅瀬を渡る。 流れる水が足首をくすぐるように撫で、そのたびに自然と笑みがこぼれた。


「ねぇアル、今日の魚、どのくらい捕れた?」

「んー……二人分くらいかな」

「じゃあ足りるわね。焼いて食べよう。今日は久しぶりに二人で夕飯にしない?」

「そうだね。……ミラと久しぶりの、二人きり」


アルの声のトーンが、ふと落ちた。


「願ってもないチャンスだ」


夕陽が彼の横顔を照らし、陰影を濃くする。 アルは照れくさそうに手にした網を直しているが、その視線は網ではなく、じっとミラへと注がれていた。

しかしミラは気づかず、陽光に輝く水面を見つめている。

アルの視線は、ミラの無防備な首筋や、光を浴びた横顔を舐めるように追いかける。

何かを伝えたいように。 けれど、それを言葉にするのを恐れるように。


「ん? どういう意味?」


視線に気づいたミラが振り返る。


「いや……別に。なんでもない」


アルは慌てて視線を逸らし、川の流れに目を戻した。

静かなせせらぎの音が、二人の間に横たわる「言えない感情」をやさしく隔てていた。


   †


その夜。 虫の声と風の音だけが、静まり返った家の中に流れていた。

窓の外では星が透き通るように瞬き、アルの部屋を青白く照らしている。

彼はベッドの端に腰を下ろし、目を閉じたまま動かなかった。

胸の奥で、何かがざわついている。 理由のない焦燥。不安。

けれど、どこか懐かしく、抗いがたい感覚でもあった。


目を閉じると、やわらかな光が脳裏に浮かぶ。

白い光の中で、女性の声が静かに、しかし絶対的な響きを持って語りかけてくる。


『――アルヴィン・レオルム。神殿へ来なさい』


それは夢の中にしては、あまりにも鮮明だった。

呼ばれた瞬間、胸の奥に焼きごてを当てられたように熱くなる。


「はっ……!」


息を呑み、カッと目を開ける。 夜風がカーテンを揺らしていた。

額に冷たい汗が滲み、アルは荒い呼吸を繰り返す。 心臓が早鐘を打ち、全身の血液が沸騰するような感覚が引かない。


「……今のは、夢……じゃない」


そう呟いた声は、かすかに震えていた。

自分の意思ではない何かが、自分を呼んでいる。

その予感は、確信めいた恐怖となって彼を襲った。


   †


翌朝。 ミラが庭で洗濯物を干していると、背後から芝生を踏みしめる足音が駆けてきた。

振り向くと、寝ぐせをつけたままのアルが、肩で息をして立っていた。 その顔色は悪い。


「ミラ! ……今日、神殿に行ってみない?」

「神殿? 急にどうしたの?」

「変な夢を見たんだ。女の人の声で“神殿へ行け”って。……もしかしたら、啓示かもしれない」

「啓示……女神様の?」


ミラは思わず眉を寄せた。

村の奥にある古い神殿は、もう何年も人が訪れていない廃墟同然の場所だ。

霧の深い森の奥にひっそりと建ち、誰も近づかない。


けれどアルの表情は、冗談を言っているようには見えなかった。

普段の甘えた笑顔ではなく、どこか遠くを見つめるような瞳。

その光が、妙に危うげで、ミラは胸騒ぎを覚える。


「ねぇミラ。君も……一緒に来てくれる?」


すがるような声だった。 真っ直ぐに見つめられると、断る言葉が出てこない。


「……仕方ないわね。危ないことはしないでよ?」

「しないよ。ただ、確かめたいだけなんだ」

「ほんと、しょうがない子ね。畑の手伝いはお休みしてくるわ」


ミラは呆れたように肩をすくめ、けれどその瞳には隠しきれない慈愛を滲ませた。

彼がこうして真っ直ぐに何かを求めてくる時、拒絶できた試しなんて一度もないのだ。


「ありがとう、ミラ……!」


その瞬間、アルの表情が崩れた。

まるで捨てられかけた子犬が、飼い主の温もりを見つけた時のような――安堵と、切迫した色が混ざり合う。 彼は一歩、踏み込むようにして距離を詰めると、ミラの片手を両手で包み込むように握りしめた。


「っ……、あ、アル?」

「よかった……。君が来てくれないなら、僕、どうにかなりそうだったから」


伝わってくる掌の熱は、ひどく高い。 ギュッ、と痛いほどに力を込められ、ミラは小さく息を呑む。

目の前のアルは笑っていた。

けれどその笑顔は、どこか張り詰めた糸のように脆く、そして心細げだった。


「絶対、離れないでね」


それはただの確認なのか、それとも、自分自身への戒めなのか。

祈るように紡がれた言葉は、朝の爽やかな空気にはそぐわないほど、重く湿った響きを帯びていた。


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