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海洋生物学者だった私、異世界の海底王国で温泉治癒師になったら世界の危機に巻き込まれました  作者: サンサンマツリ


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第5話 :【海面探索と世界の真実】


1. 日常と病の原因


 修行を終えたルミナは、ドウゴ街の診療所で『見習い温泉治癒師』として働き始めた。


 ある日、高熱を出し意識がもうろうとした幼い子どもが親に抱かれて運ばれてきた。海流が淀んだ海域で獲れた魚を食べ、体内に蓄積した毒素によって発熱したのだという。


 ベテラン治癒師が脈を確認する横で、ルミナは子どもの傍らに腰を下ろし、そっと手をかざした。


(【塩化物泉】の保護膜で弱った体を包み、【硫黄泉×ドクダミ】の調合で体内の不純物を穏やかに散らす……!)


「巡る潮、湧き出すぬくもり。澱んだ命を、今こそ清めて。精霊の息吹よ、病の熱を包み、穏やかな眠りへと誘いたまえ」


 指先から溢れ出た柔らかな湯気と青金色の光が子どもを包み込むと、荒かった呼吸がみるみる落ち着き、うっすらと目を開けて母親の名を呼んだ。


 危険な状態は脱したが、ルミナは経過を慎重に見守るよう母親に伝えた。


 同じような症状の患者が毎日のように運ばれてくる事態を受け、ルミナは病の原因を探るため、街の周辺を調べ始めた。


 ドウゴ街のはずれにある『海洋牧場』。そこでは海牛や色とりどりの魚が育てられていたが、水底でじっと動かなくなった魚が増え、光る海草もすっかり元気を失っていた。


「ルミナ、ちょっとこれを見てくれ」


 ベテラン牧場主のガイに呼ばれ、牧場の観察用空気ドームから海中へ手を浸したルミナは、ねっとりと重い潮の感触に息を呑んだ。


「海が……息をしていないみたい」


 海流が滞り、酸素の供給が乏しくなり、沈んだ有機物の分解によって、さらに酸素が奪われていく――前世の知識が鳴らす『海の窒息』の警報だった。



2. 禁じられた海面と巨大な内部波


 アトランティスでは海面に上がることは厳しく禁じられていた。だが、海の死を防ぐため、ルミナは自分の目で海面の状況を確認することを決意した。


 主要な水路の監視所を避け、ルミナは以前見つけていた海底山腹の細い亀裂へ向かった。人目を忍んで暗い岩の隙間をすり抜け、カルデラの外輪山へと登っていった。


 水深三百メートル付近に差しかかったとき、激しい海のうねりがルミナを襲った。水温と塩分の境界で発生する巨大な『内部波』だ。


 視界を奪う猛烈な濁流に呑まれそうになりながらも、ルミナは前世の海洋知識を総動員し、肌を撫でる水温の変化と浮遊物が上下する周期から内部波の谷間を見極めた。


(今だ……!)


 脚に魔力を集中させると、あの【青金色の温泉水流膜】がしなやかな尾びれを描いて広がり、濁流のすさまじい威力を巧みに受け流した。


 前世の科学知識で道を見つけ、温泉の力で波を越える。ルミナは命がけで危険な潮境を突破した。



3. 空と海流の真実


 やがて頭上が明るくなり、ルミナはついに未知の海面へとたどり着いた。首から下を海中に残したまま、顔だけをそっと海面の上へと出した。


「っ……!」


 直射日光の眩しさに思わず目を細め、外気を胸いっぱいに吸い込んだ。


 空気のドームとは違う、海面に果てしなく広がる本物の外気。少し乾いていて、かすかに潮の香りが混ざっていた。


 額に手をかざして見上げた空は、驚くほど静かに青く、白く輝く雲がゆっくりと流れていた。禁止令が語るような荒れ狂う嵐は、どこにもなかった。


 遠く広がる水平線の彼方で、灰色がかった翼を持つ小さな鳥が、海面すれすれを軽やかに飛んでいた。


(こんな海が……あったんだ)


 前世の晴れたプールの光景と、目の前の青空が重なる。生き物が、ここで生きている。


(誰も確かめていない。なぜ?)


 十歳の時から抱き続けてきた疑問の先に、王国の誰も知らない現在の海面が広がっていた。


 長くはいられない。強い直射日光が皮膚を刺し始めたルミナは、治癒の杖を水中へと差し入れた。


 一定時間のうちに浮遊物がどれほど流されるかを観察し、水温の変化を感じ取りながら、杖を通じて海の脈動を読んだ。


(ドウゴ街の海よりは淀んでいない……。でも、本来あるべき力強い循環がない。大きな心臓が、ゆっくりと弱っていくみたいに……)


 海流が衰弱しているという確信を得たルミナは、身を翻して冷たい海中へと潜り直した。



4. 警備本部の説教と、留置場での誓い


 内部波を再びくぐり抜け、カルデラの境界まで戻ってきた、そのときだった。暗い岩陰から鋭い声が響き、腕を強く掴まれた。


「海面禁止令違反だ! 自殺志願者か、密航者か!」


 ルミナが通過した際、岩壁に埋もれていた古い警戒魔石が反応し、巡回中の警備兵が待ち構えていたのだ。


「違います! 私は海流を確かめに行ったんです! 掟にあるような嵐なんてなかった! 空は穏やかで、鳥だって飛んでいました!」


「でたらめを言うな! 本部で頭を冷やしてもらおう!」


 連行された王国の警備本部で、厳格な担当者が分厚い報告書を机に叩きつけた。


「ルミナ、禁止令は迷信ではない! 災厄の直後、海面へ向かった調査隊は巨大な内部波と濁流に呑まれ、通信用の『双子共鳴貝』を通じて悲鳴を残し、全滅したのだ! 先人が命を落として残した『生き延びるための掟』を破るなど断じて許されん!」


「……」


 先人の悲劇は本当なのだろう。数世紀にわたって積み重なった恐怖を、ルミナの言葉だけで覆すことはできなかった。


「反省の意思が確認できるまで、身柄を拘束する」


 そう言い渡され、ルミナは鉄格子の留置場に入れられた。静まり返った暗い留置場の中で、ルミナは一人、膝を抱えた。


(数世紀前の調査隊は内部波で全滅した……。でも、今日私が見た海面は違った。世界は変わっているのに、王国は古い恐怖の中に閉じこもっている……)


 そして何より、杖から伝わってきた海流の衰え――あの瀕死の海の脈動が頭から離れない。


(このまま誰も真実を確かめず、古い掟に守られたつもりでいたら、この海は本当に死んでしまう……!)


 王国の掟をただ否定したいわけではない。


(私は見た。今の海と空を。誰に否定されても、この真実を伝える。古い恐怖の中で、この海を死なせたりしない……!)


 過去の犠牲も理解できる。それでも、衰えていく海を見過ごすことはできなかった。


 翌朝、両親に引き取られて釈放されたルミナの胸には、誰にも消せない強い決意の灯火が宿っていたのだった。

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