第46話『ゴンちゃんの似顔絵』
第46話『ゴンちゃんの似顔絵』
今日の信吾はリモートワーク。特に問題もなく業務を終え、定時を迎えた。
リビングのテーブルにパソコンを閉じると、ちょうど買い物から帰ってきた美沙が声をかけてきた。
「お疲れさま。今日は夕飯、どうする?」
エコバッグをテーブルに置きながら、美沙は首を傾げた。
「冷蔵庫に残ってるやつで済ませてもいいし、ちょっと凝ったの作ってもいいし……」
信吾は椅子にもたれながら答える。
二人はそのまま「夕飯どうする会議」から発展して、「残りの時間をどう過ごすか作戦会議」へと移っていった。
美沙は顎に人差し指を当て、ひとつひとつ思いついた案を口にしていく。
「久しぶりに映画でも観たいね。ゴンちゃんの好きな『暁の牙』、今、劇場版やってるじゃん」
信吾は吹き出した。
「いやいや、映画館なんて最も無理な場所でしょ」
「そうだよね……残念。絶対喜ぶんだけどなぁ」
美沙は肩を落とし、少し唇を尖らせた。その仕草が子どものようで、信吾は思わず笑みを浮かべる。
「じゃあ、ゴンちゃんの散歩も兼ねてまた夜風に当たりに行くのもいいな」
信吾が言うと、
「うん、それもいいかも」
美沙は目を細めて頷いた。
他愛もないやり取りだが、そんな時間が今はとても愛おしい。
会議が終盤に差しかかったところで、インターフォンが鳴った。
「ん? 宅急便かな?」
モニターを覗き込んだ信吾は目を丸くした。そこに映っていたのは、『のん』こと野中香代だった。
──野中香代。信吾の会社の同僚。根っからのインドア派で、普段は自宅にこもりがち。感情の起伏も少ないが、ゴンちゃんに予防接種を提案するなど理にかなった発言をする。不思議とゴンちゃんとは通じ合っている。
「美沙さん! 部屋の外に野中さんがいるんだけど……野中さん呼んだ?」
信吾は驚きの声をあげ、美沙の方を振り向く。
「えっ? のんちゃん? 私は呼んでないよ」
美沙も目を丸くし、信吾は慌ててドアを開けた。
「二人とも、突然来ちゃってすみません」
のんは申し訳なさそうに小さく頭を下げた。
「全然構わないんですけど、どうしたんですか?」と信吾。
「こんばんわ、のんちゃん。ゴンちゃんに会いたくなっちゃったの?」と美沙が柔らかく口を挟む。
「はい。それもあるんですけど……今日、熱男が人事部長に“BBQマスターになるので辞めさせてくれ”って言ったみたいで、ちょっと会社がパニックになってて。周りの話を聞いてたら、昨日ここに来たってわかったので確認で来ました。」
「えっ……あいつ、本当に言ったんだ。しかも人事部長に……」
信吾は頭を抱えながら驚きの声を漏らす。
「やっぱり、そうなんですね」
のんは静かにうなずいた。
美沙は小首をかしげて言った。
「なんかよくわからないけど、辞めるのは自由だし、いいんじゃないの? 理由はちょっと別にして」
「はい。そうなんですけど……仮にも皆で一緒にBBQした仲なので」
のんの声は相変わらず淡々としているが、そこにはわずかな責任感がにじんでいた。
「明日は出社日だから、ぼくから上手く言っておきます。熱男は暑苦しいけど悪いやつじゃないんで。辞めるにしても、ちゃんとした形にしてやりたいし」
信吾は少し慌てたように言葉を続けた。
「……ありがとうございます。それでどこまで状況が変わるかはわからないですけど」
のんは肩を落とし、少しあきらめたように息をついた。
「私はほっといてもいいと思うけどね」
美沙はあくび混じりに言い、のんは苦笑いを浮かべる。
「まぁ、そうなんですけど……。そういえばゴンちゃんは?」
のんが首を傾けて尋ねる。
「今は屋上の小屋にいますよ。もういい時間だし、連れて来ます」
信吾は立ち上がって答えた。
「ありがとう。会いたいです」
のんはわずかに微笑み、目元がやわらいだ。
「やっぱりそうだよね。私が連れてくるね」
美沙が立ち上がり、屋上へ向かった。
やがて小屋から戻ってきたゴンちゃんは、のんを見るなり小さく鳴いて尻尾を揺らした。
「こんばんは、ゴンちゃん。やっぱり可愛いね」
のんの声は小さいが、不思議と親密さがある。ゴンちゃんはすぐに彼女の足元にまとわりつき、安心したように丸くなった。
その空気の中、のんがふと口を開いた。
「……実は私からも報告があって」
「えっ? 問題発言は熱男でお腹いっぱいなんですけど」
信吾が肩をすくめると、のんは淡く笑った。
「いや、私はBBQマスターにはならないんですけど……。実は、美術の専門学校に通うことにしたんです。まぁ通信制なんですけど、ちょうど秋からのコースがあったので」
「えっ、美術の専門学校? のんちゃんが?」
美沙が驚いて声を上げ、信吾も思わず息をのむ。
「はい。ずっと思ってはいたんですけど……絵を描くことは好きで、ちゃんと学んでみたいと思って」
「でも急にどうして?」
美沙が首を傾げると、のんは少しだけ考えるように視線を落とした。
「……私って、自分で言うのもなんですけど、どこにでもいるタイプというか、特徴が無いというか。別にそれが嫌ではなかったんですけど、ゴンちゃんを見ていると、なんとなく“変わろうとしてる自分”に気づいたんです」
その言葉に、ゴンちゃんはまるで応えるように尻尾を揺らした。
のんは鞄からスケッチブックを取り出し、照れくさそうに言った。
「もしよかったら……ゴンちゃんを描いてもいいですか?」
「もちろん。ゴンちゃんも喜ぶと思いますよ」
信吾が頷くと、ゴンちゃんは待ってましたと言わんばかりに姿勢を正した。
鉛筆が紙の上を走る。のんの表情は淡々としているのに、その筆致は真剣そのものだった。やがて現れたのは、少しデフォルメされながらも、愛らしいゴンちゃんの姿。
「わぁ……そっくり!」
美沙が目を輝かせ、
「……上手いなぁ」
信吾も素直に感心する。
ゴンちゃんは自分の似顔絵を覗き込み、誇らしげに胸を張った。
のんは少し考えてから、二人に尋ねた。
「……あの、せっかくだから三人の似顔絵も描かせてもらっていいですか?」
「いやいや、ぼくの顔なんて描いても仕方ないでしょ」
信吾が照れると、
「私はゴンちゃんがいるなら全然オッケー!」
美沙は笑いながら肩をすくめた。
のんは再び鉛筆を走らせた。
描き上がった三人の似顔絵には、不思議とあたたかみがあり、互いを結びつける絆がしっかりと描かれていた。
「……なんか、悪くないな」
信吾がぽつりとつぶやく。
「宝物にするね」
美沙は笑顔で絵を抱きしめた。
ゴンちゃんはさらに胸を張り、まるで「当然だろう」と言いたげだった。
──誰かの夢は、誰かの背中を押す力になる。
のんの静かな決意も、美沙と信吾の温かな時間も、すべてを受け止めるゴンちゃんがいる。
今日もまた、小さな奇跡の一ページが増えていった。




