第9話 前編『絶妙なカルテット』第9話 後編『強制退去の危機。信吾の長い1日』
第9話 前編『絶妙なカルテット』第9話 後編『強制退去の危機。信吾の長い1日』
前書き
「野良猫とドラゴン」と並んで過ごす、ある午後。
久方さんの部屋に招かれ、ゴンちゃんと虎之介が初めて“隣り合う”日常。
にぎやかでもなければ、劇的でもないけれど、
誰かと距離を測るときの、小さな緊張と安らぎが静かに描かれていきます。
そして後編では一転、火吹き訓練の余波で訪れる“強制退去の危機”。
不器用な信吾の焦りと、赤荻さんの無骨な優しさが交錯する夜。
“家族”とは何か。
“許される”とはどういうことか。
そんな問いに、少しだけ輪郭が与えられる第9話です。
第9話 前編『絶妙なカルテット』
ある日の午後。信吾が台所で遅めの昼食を作っていると、リビングの窓辺にいたゴンちゃんが、突然ぴんと首を上げた。
「きゅ?」
そのまま、ちょこちょことガラス戸に駆け寄り、鼻先をすりつける。信吾がフライパンを火から下ろしながら振り返ると、外には見覚えのあるキジトラ猫がいた。
「……また来たのか、虎之介」
ベランダ越しにゴンちゃんと虎之介が見つめ合う。言葉はない。でも、妙に通じ合っているような沈黙が流れていた。
虎之介は、近所に住みついている野良猫だ。けれど、人間の玄関の開け方を知っていたり、ゴンちゃんのキャリーを勝手に開けたりと、野生とは思えぬ“妙技”を持っている。
信吾がサンダルをつっかけてベランダに出ると、虎之介はゴンちゃんの隣にちょこんと座った。
「……まあ、襲う気はないよな。そもそも勝てなさそうだし」
実際、ゴンちゃんと虎之介のあいだに緊張感はなく、むしろ共に“陽だまりにいる者同士”のような、穏やかな時間が流れていた。
そのとき、部屋のチャイムが鳴いた。
「こんにちは~、隣の久方です~」
玄関を開けると、ふわりとしたロングスカートの女性が立っていた。隣人の久方かなえだ。隣に住む女子大生で、穏やかな口調と人懐っこい笑顔を持つお姉さん。ゴンちゃんを初対面からすんなり受け入れた、貴重な理解者でもある。
「よかった、いた。おすそ分けです、スイートポテト焼きました」
「あ、ありがとうございます……。あの、ゴンちゃん今ベランダで――」
「うん、見えてる。虎之介くんも一緒よね?」
彼女はガラス越しのに目をやりながら、さらりと名前を口にした。
「え、虎之介の名前……?」
「前に見かけたとき、信吾さんが呼んでたの聞こえちゃって。なんだか、よく来てるみたいですね?」
「まあ……なんか気づくとそこにいるって感じで。うち、居心地いいのかな……」
「なるほど。ドラゴンと猫と人間が一緒に暮らせる環境って、なかなか貴重ですから」
笑いながら、久方さんは差し出していたスイートポテトのタッパーを信吾に手渡す。その手つきが、どこか慣れていて、やさしい。
「甘さ控えめなので、ゴンちゃんも一口なら平気だと思いますよ。もちろん、主成分が芋だし、ほんの少しなら」
「まじで……?ゴンちゃん、スイートポテト食べるか?」
「きゅっ!」
即答だった。
*
その後、リビングに四人で並んで座る不思議な時間が訪れた。
信吾はテーブルの上にスイートポテトを並べ、慎重にゴンちゃん用にほんの小さなひとかけらを分ける。
「最近わかったんですけど、ゴンちゃん……けっこう雑食みたいなんですよね。チーズケーキも普通に食べてたし」
「へえ……それは面白いですね。体質的に大丈夫ならいいけど、あまり甘いものばかりだと気をつけないとですね」
「ですよね。まあ、これは主成分が芋だから、たぶん……セーフ」
信吾の許可が出るまで、ゴンちゃんはちゃんと待っていた。そして、ぺろりとそのひとかけらを舐めた。
「……どう?」
「きゅ……」という満足そうな音が返ってきた。
その横では、虎之介が器用に足を舐めている。彼は食べ物には手を出さない。マイペースで、しかし図々しくもない。絶妙な距離感だ。
「このふたり、妙に合ってるよね」
信吾がそう呟くと、久方さんが小さく笑った。
「うん。どちらも“人間に世話を焼かせるタイプ”だけど、押しつけがましくないんです。空気を読むっていうか」
「でも、ちょっと不思議な組み合わせだよな……。野良猫と……まあ、ドラゴン?」
「ドラゴンでいいと思いますよ。私はそう呼んでますし」
さらりと「ドラゴン」と言う久方さんに、信吾は小さく肩をすくめた。
「久方さんって、やっぱり変わってるよね」
「よく言われます。でも、信吾さんも“ゴンちゃん”と暮らしてるんですから、似たようなものかと」
「たしかに……否定できないな」
笑いながら答える信吾の足元で、ゴンちゃんと虎之介が軽く鼻をつきあわせている。しっぽを絡めるでもなく、じゃれるでもなく。ただ、そこにいる。
その様子を眺めていた久方さんが、ふと窓の外に目を向けた。
「……あ、雨が降りそう」
信吾も空を見上げる。曇天。風が少し生ぬるい。
「ほんとだ。虎之介、今日はもう帰ったほうがいいんじゃないか?」
声をかけると、虎之介はまるで“わかっていた”かのように、ふわっと立ち上がり、ひとつ伸びをしてからベランダの手すりを軽やかに飛び越えていった。
「……ほんとに猫なんだよな、あれ」
「猫ですよ。ただ、ちょっと不思議なだけです」
久方さんのその言葉は、どこか自分自身にも向けているようだった。
*
スイートポテトの残りをラップして冷蔵庫にしまいながら、信吾が聞いた。
「久方さんって、生物にすごく詳しいですよね。前から思ってたんですけど、なんで?」
「んー……昔から好きだったんです。図鑑とか、飼育記録とか」
「飼ってたとか?」
「ちょっとだけ。まあ、それはまた今度」
やわらかく笑って、彼女は曖昧に話を終わらせた。
深くは訊けない。でも、きっと――この人も、普通じゃない生き物たちと、いろんな距離を測ってきたのだろう。
そんな気がした。
第9話 後編『強制退去の危機。信吾の長い1日』
その日、信吾は朝から現場作業。現地での立ち合いもあって帰宅がすっかり遅くなった。夕暮れが差し込むマンションの階段を上り、ようやく自宅のフロアまでたどり着いた――と、そこで足が止まる。
玄関の前に、見覚えのある“がっしりした背中”が立っていたのだ。
――えっ。
心臓が一拍遅れて強く打つ。
――なんで、赤荻さんがここに?
このマンションのオーナーにして、大家の赤荻さん。日頃は物陰から静かに見守るタイプで、こうして部屋の前に立つなんて、かなり“事件の気配”が濃厚だった。
ごつい体格。鋭い目つき。無精髭に、古びた作業着。見るからに怖そうな外見だ。
「……あの、赤荻さん」
思わず小声で声をかけると、赤荻さんは腕を組んだまま、無言でこちらを見た。
「な、何か……ありましたか?」
「山之内」
「はいっ!」
「昨夜……うるさかったな」
――――えっ。
心臓が跳ねた。一気に血の気が引く。
――やばい。バレた。
昨夜――いや、今朝の1時過ぎ、こっそり行った“火吹き訓練”。もちろん窓は閉めていたし、音が漏れないよう工夫はした。けれど、ゴンちゃんがちょっとテンション上がって「きゅわーーっ!」と高音で叫んでしまったのは事実だ。
(まさか……それ、近所に聞こえてた!?)
「……いや、その……昨日ちょっと、僕の方で……騒いでしまってて……作業道具の音とか……たぶん、そのせいで……」
言い訳のような声が勝手に口をつく。ゴンちゃんの存在は、まだ秘密にしていたかった。あの子の存在を他人に知られるのが、なんだか少し怖かった。
「ほんとにすみません……。もう二度と夜中には……っていうかそもそも火とか……っていうか……あの……」
もはや自分でも何を言っているのかわからない。頭を下げながら、ただ謝罪と釈明を繰り返す。
沈黙のあと、赤荻さんがぼそっと言った。
「ギター弾いてた奴がいた。深夜の2時だぞ、迷惑な話だ」
「あと……町内会の資源ゴミ当番、忘れてただろ」
(そっちかぁ……。じゃあ、何で玄関の前で仁王立ちしてるんだよ)
信吾の背中に冷たい汗がにじむ。沈黙。長い。目の前の男が、こちらの嘘を見透かしているような圧がある。
「……いや、その、たぶん……ゴミを出したあとに……扉をちゃんと閉めなかったのかも、しれません……」
必死に“それっぽい”言い訳を並べてみるが――
「なんか、お前隠してることあるだろ?」
「……えっ」
口が勝手に開いていた。言葉が引きずり出されるように漏れてしまう。
「隠してることがあるなら、今のうちに話しとけ」「今だったら話を聞いてやる」
赤荻さんの声は、静かに強い。怒っているようには聞こえない。だが、引き下がる気もなさそうだった。
信吾は観念した。
「……少し、お時間いいですか」
玄関を開ける。赤荻さんは無言のまま、ついてきた。
*
リビングの隅、クッションの間にうずくまっていたゴンちゃんが、赤荻さんの姿を見つけて“きゅう”と鳴いた。
ゆっくりと歩いてくる赤荻さん。ごつい体に対して、まるで動物を驚かせないように配慮しているような足取りだった。
信吾は、ごく短く説明した。
「……この子、ゴンちゃんっていいます。ある日、姉が卵を拾ってきて……それから、ずっと一緒にいます」
赤荻さんはしゃがんで、じっとゴンちゃんを見た。警戒するかと思いきや、ゴンちゃんの方も静かにじっと赤荻さんを見返していた。
ふと、赤荻さんの口元が少しだけ緩んだ。
「坊、だな」
「……名前は、ゴンちゃんなんですけど……」
「坊のが似合ってる」
静かに、しかし即答だった。
信吾は少し呆気にとられて笑ってしまった。
――最初から、受け入れてくれていた。
そう、思った。
*
「ゴミ置き場の件は、町内会に言っとく。たぶん誰かが扉を閉め忘れただけだ。お前のせいにはならん」
「……そうなんですね」
「まぁ、“坊が開けたのかも”って思ってきたんだが」
「たぶん、この子は……扉は開けられませんし、外には出てないのでそれはないです」
「……だろうな」
無骨で、理屈じゃなくて、でも信じたら突き通すタイプ。
信吾は、自然と頭を下げていた。
「……ありがとうございます」
赤荻さんは何も言わず、立ち上がり、部屋を出ていった。階段をとんとんと降りていく音だけが残る。背中が遠ざかっていく。
強面なのに、あたたかかった。
「……マジで、肝が冷えた……」
ドアを閉めると、すぐにゴンちゃんが駆け寄ってきた。
「きゅっ!」
「良かった。っていうか、でもお前なぁ……もうちょっと声のボリューム考えてくれよ」
軽く額を指で突くと、ゴンちゃんは反省したように首をすくめる。
でも、すぐに尻尾をぴょこんと持ち上げて、甘えるように足元にすり寄ってきた。
*
夜。
リビングでソファにもたれて、信吾は今日の出来事を美沙に話した。
「……なにそれ。え、最初から“ゴンちゃんいます”って言ったの?」
「最初は隠そうとしたけど、観念して……」
「で、怒られた?」
「怒られなかった。“坊だから”って」
美沙は唖然とした顔で笑い出す。
「なにそれ、意味わかんない……けど、わかる」
「でしょ」
ふたりで顔を見合わせた瞬間、ゴンちゃんがテーブルの下からひょいっと顔を出した。
「きゅ?」
「今日な、赤荻さん、怒ってなかったぞ。ちゃんと、“坊”って呼んでた」
信吾が優しくそう言うと、ゴンちゃんは少し戸惑ったようにまばたきして、床にぺたんと座り込んだ。
しょんぼりと首を垂れて、しっぽを足元にくるりと巻く。
……火吹き訓練、がんばったのにな。
そんな雰囲気が全身からにじんでいた。
「今日は、もう休憩だな」
信吾は腰を上げる。
「ダクトの点検でもしとくか。赤荻さんがせっかく作ってくれたんだし、次やるときに備えてな」
「ふふ、あんた案外マメだよね」
美沙のツッコミを背中で受け流しつつ、工具箱を取り出す。
ゴンちゃんが後ろからちょこちょことついてきて、信吾の足元に寄り添う。
――こういうの、嫌いじゃない。
めんどうなことも多いけど、最近少しだけ“家族”ってものがわかってきた気がする。
火は吹かなくてもいい。
今日の信吾には、ちゃんと守りたいものがある。
そして、それが“誰かに許されている”という実感が、思っていたよりずっと、心を軽くしてくれた。
今夜は、そんな夜だった。




